青学「ひめゆり退屈問題」は続けたいですが、その前に『トム・ソーヤー』についての補筆をしておきます。
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マーク・トゥエイン『トム・ソーヤー』の「ペンキ塗り」のエピソードは、多くの人がだいたいのことは知っていると思う。私はマーク・トゥエインの作品などは最近までほとんど読んだことがなかったが、それでも知っていた。いや、知っていたつもりである。だが、すでに明らかにしたように、最初にトムの前を通りかかるジム少年は黒人奴隷の子だったのである。どれだけの日本人読者がそのことに気づいていたのだろうか? 私たちの多くは節穴だったのではなかったのか。すくなくとも、英語の教科書では、平然と書き換えられてしまっていることに気づかなかった者は多いのではないか。
翻訳だけでもしっかりと読んでいれば、ある程度以上は事態を察することが出来たはずだった。大久保康夫訳の『トム・ソーヤー』(新潮文庫)をみてみよう。写真を見てもらいたい。
よく読むでみると、トムとジムは同じ身分に属する少年同士ではないことが、訳文からでも窺うことが出来るののである。ジムは、トムを「トムさん」と呼んでいるし、ジムに命令しているのはお母さんではなくて「奥様」なのだ。時代背景をしらなくても、ジムが「下男・下女」のような存在であることが推察しうるはずだったのだ。もちろん我々は、アメリカ史を多少なりとも知っているのだから、奴隷の子どもかもしれないとも解釈すべきだったのだ。そして、ジムに本当のお母さんはいるのだろうか?それとも、家族から引き離され、子どもだけで売られてきたのだろうか?といった空想を広げても良かったのだ。しかし私は、かなりいい加減に、神経散漫に翻訳本を読んでいたので、完全に見落としていた! しかも、私はエドワード・サイードの読者であり、J.M.クーツィアの大ファンでもあるのに。(英語で読んでいれば、黒人訛りで判断できたのかも知れない。もっとも私の英語力ではちょっと厳しいかもしれない)。
台詞から、一人の登場人物が黒人であること、つまり奴隷の子どもであると判断すること。こういうことは、文学作品とくに海外文学を読む時には非常に大事なポイントだ。しかし、私(たち)はそういうことについて、システマティックな訓練を受けたことがない。また、英語読解において、そういう繊細な読解力は全く問われてこなかった。そして、あまりにもナイーブに英語を読んできたのだ。つまり、英語読解能力が十分ではなかったということでもあるわけだ。
差別的社会を読み取る教育というのは、子どもには難しすぎると言えるだろうか? そんなことはない。『ハリーポッター』にでてくる「屋敷しもべ妖精」というのは、かつての黒人の屋敷奴隷の存在を想起させているのである。実際、英語圏の子どもたちは、ハリポタの屋敷奴隷妖精について議論してきているのである。
追加
次のコミカルなシーンは、子ども奴隷と女ご主人様のものだと思うと感慨深い。また、「ジムは人間以上のものではなかった」という文章も、ちょっと深い意味を持っているように見えてくる。
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マーク・トゥエイン『トム・ソーヤー』の「ペンキ塗り」のエピソードは、多くの人がだいたいのことは知っていると思う。私はマーク・トゥエインの作品などは最近までほとんど読んだことがなかったが、それでも知っていた。いや、知っていたつもりである。だが、すでに明らかにしたように、最初にトムの前を通りかかるジム少年は黒人奴隷の子だったのである。どれだけの日本人読者がそのことに気づいていたのだろうか? 私たちの多くは節穴だったのではなかったのか。すくなくとも、英語の教科書では、平然と書き換えられてしまっていることに気づかなかった者は多いのではないか。
翻訳だけでもしっかりと読んでいれば、ある程度以上は事態を察することが出来たはずだった。大久保康夫訳の『トム・ソーヤー』(新潮文庫)をみてみよう。写真を見てもらいたい。
よく読むでみると、トムとジムは同じ身分に属する少年同士ではないことが、訳文からでも窺うことが出来るののである。ジムは、トムを「トムさん」と呼んでいるし、ジムに命令しているのはお母さんではなくて「奥様」なのだ。時代背景をしらなくても、ジムが「下男・下女」のような存在であることが推察しうるはずだったのだ。もちろん我々は、アメリカ史を多少なりとも知っているのだから、奴隷の子どもかもしれないとも解釈すべきだったのだ。そして、ジムに本当のお母さんはいるのだろうか?それとも、家族から引き離され、子どもだけで売られてきたのだろうか?といった空想を広げても良かったのだ。しかし私は、かなりいい加減に、神経散漫に翻訳本を読んでいたので、完全に見落としていた! しかも、私はエドワード・サイードの読者であり、J.M.クーツィアの大ファンでもあるのに。(英語で読んでいれば、黒人訛りで判断できたのかも知れない。もっとも私の英語力ではちょっと厳しいかもしれない)。
台詞から、一人の登場人物が黒人であること、つまり奴隷の子どもであると判断すること。こういうことは、文学作品とくに海外文学を読む時には非常に大事なポイントだ。しかし、私(たち)はそういうことについて、システマティックな訓練を受けたことがない。また、英語読解において、そういう繊細な読解力は全く問われてこなかった。そして、あまりにもナイーブに英語を読んできたのだ。つまり、英語読解能力が十分ではなかったということでもあるわけだ。
差別的社会を読み取る教育というのは、子どもには難しすぎると言えるだろうか? そんなことはない。『ハリーポッター』にでてくる「屋敷しもべ妖精」というのは、かつての黒人の屋敷奴隷の存在を想起させているのである。実際、英語圏の子どもたちは、ハリポタの屋敷奴隷妖精について議論してきているのである。
追加
次のコミカルなシーンは、子ども奴隷と女ご主人様のものだと思うと感慨深い。また、「ジムは人間以上のものではなかった」という文章も、ちょっと深い意味を持っているように見えてくる。
そういえば、「奴隷って何?」と質問した中学生がいました。
「奴隷」とは何なのか、それは常識として知っているはずだ、という前提のもとに小説が書かれていることが少なくありません。
だから、そのようなった知識がなければ本を読み解くができません。
多少なりともアメリカ史がわからなければ、アメリカの小説は読み取れないことが多いと思います。
信長、秀吉、家康がだれで何をしたのか分からなければ、日本の小説は読めないことがあるでしょうね。
西洋では、聖書やシェイクスピアが当然の知識としてあるように感じます。
それで思い出すのが星新一の「最後の地球人」という話です。中学生に読書で与えている「おーいでてこーい」の中にあります。
これは、聖書の創世記の部分が当然のごとく理解しているという前提のもとに書かれています。
「光あれ」から始まり、男の人が作られる。そのあばら骨から女性が作られる。2人は裸に気づき服を着る。
この小説では、その順序をさかのぼるという描き方がされています。そこが面白いのです。
逆に言えば、聖書の創世記がわからなければ、この話は全く面白くない話なのです。
どこまでが前提となる教養になるのか、決まったものはないでしょう。
英検の問題だったと思いますが、天体の話が出ていました。
僕は本文を全く読まないで、設問だけで正解が分かりました。本文の中にある知識を、僕はすでに持っていたのです。
極端な話をすると、「太陽はどこから上りますか」という設問があれば、本文を読まなくても「東」という正解が出ますね。そのような問題だったのです。
国語の読み解く力というのは、いろんな知識に支えられたものでもあると感じます。
厄介なことに、自分にそういう知識がなければ、わからないということさえわからないということです。
そこに深い意味が隠されていても、隠されていること自体わからないのです。
だから、若いころに読んだ小説を読み返すと、こういうことが書かれていたのか、と分かることもあるのでしょうね。
ぼくも深い意味が分からずに多くの本を読んできたのでしょう。