りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

特別の海。

2013-06-08 | Weblog
今朝、新聞の地域面の記事を目にしたとたん、思わず声を上げてしまった。

地元の海水浴場が今夏から休業するという記事が、デカデカと掲載されて
いたのだ。

新聞記事には“管理者の高齢化”や“少子化による来訪者の激減”といった、
他の業種での廃業や休業でもよく目にする理由が淡々と掲載されていた。


「干汐(ひしお)海水浴場」という。


遠浅で、浜辺も狭くて、施設も貧弱で、駐車場も少ない、おまけにお世辞にも
綺麗な海とは言えない、まさに時代から取り残されたような海水浴場だった。
だから今回の休業も、いずれ遅かれ早かれやって来ることは、ボクだけでなく、
地元の人間ならば誰しも予想していたような気もする。

でも、やっぱり寂しい。悲しい。悔しい。

時代から取り残されたような海水浴場は、裏を返せば、安全な海だった。
どこまでも遠浅だったから子どもが溺れるようなことはなかったし、施設が貧弱で
浜辺も狭いから、若者・・・いわゆる不良連中は集まらず、浜辺を占拠しているのは
圧倒的に家族連れで、そこに漂う空気も健全そのものだった。
だからこの辺りで生まれ育った大人で、子どもの頃にこの海水浴場で泳いだことが
ない人間は、おそらく皆無なのではないだろうか。
大げさではなく、ボクはそう思う。

もちろん、ボクもそうだった。

生まれて初めての海水浴も、浮輪を取って初めての水泳も、家族とではなく、
初めて友だちだけで訪れた海水浴も、すべて干汐海水浴場だった。

思い出があり過ぎる。

あまりにもあり過ぎるから、初めて執筆して世に出た小説は、この海水浴場を
舞台にしてしまった。

そんな、ボクにとって特別の海が消えてしまう。

当たり前だが、消えてしまうと言っても、海水浴場としての設備やサービスがストップ
するだけであって、土地や風景そのものが消えてしまうわけではない。
だから今夏もこの浜辺で泳ごうと思えば、自己責任で泳いでもかまわない。
しかし、それでも“海水浴場”という冠がなくなった浜辺には、どこかしら寂しい
雰囲気を感じてしまう。

新聞の記事の最後には、今まで管理運営していた地元の魚業協同組合の考えとして
“来年以降はやりたい業者がいれば業務委託も考えたい”と書かれてあった。

ぜひ、そうして欲しい。そうなって欲しい。
もはや祈りに近い気持ちでボクはそう思っている。
しかしそう願う一方で、こんな時代遅れの海水浴場を運営しようと考える奇特な
業者が現れるとは思えない自分もいる。

物心に関わらず、年を重ねるに連れて、人は得るモノも増えれば、失うモノも多くなる。
もしかしたら、今回の出来事も、そういうことのひとつなのかもしれない。

コメント (4)
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