ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(1)─ “鬼の木村”柔との出合い

2015年06月01日 | 日記
“鬼の木村”と呼ばれ、『姿三四郎』の著者、富田常雄をして「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言わしめた天才柔道家木村政彦。
昭和12(1937)年から14年にかけて全日本柔道選士権3連覇、太平洋戦争をはさんで昭和24年には全日本柔道選手権を制するという偉業を成し遂げ、無敗のままプロ柔道参戦のためにアマ引退後も、ブラジルでグレイシー柔術のエリオ・グレイシーを破り、さらにプロレスに転向して力道山と血みどろの死闘を演じるなど激動の格闘人生を歩んだ彼は、大正6(1917)年9月10日、熊本県飽託郡川尻町(現在は熊本市に編入)の砂利採り人夫、泰蔵の3男として生まれました。

極貧だった家計を助けるために、政彦は幼い頃から父の手伝いをしていました。半月型の金網に斜めに棒を通した「タボ」という道具で川底から砂利や砂をすくい上げ、砂を振るい落として砂利だけを舟に積み上げる砂利採りの作業で鍛えた強靭な足腰と腕力で(これは、のちに柔道をやるようになった時にも、たいへん役立ちます)、相撲をとっても喧嘩をしても、誰にも負けませんでした。

川尻尋常小学校4年生の時には、同級生が上級生に殴られたといって泣きついてきたので、その敵討ちに出かけました。6年生4、5人を相手に大立ち回りを演じ、たちまちのうちに全員を泣かせてしまいます。

また同じ4年生の時のことです。学校をあげての大掃除の最中、担任の田川先生が席をはずしている隙に、政彦は学校を抜け出して近くにあった饅頭屋に飛び込んで、4つ5つ腹に詰め込んで戻って来ました。
ひょいと見ると、同級生たちが掛け声をかけながら教壇を移動しています。大掃除の時には、教壇を持ち上げて部屋中を徹底的に拭き掃除するのです。政彦は走りざま、教壇の上に飛び乗りました。
駕籠に乗っているみたいですっかりいい気持ちになった政彦は、バンザイ、バンザイと跳び上がって喜びました。その時、彼の後衿を強くつかんで引き戻す者がありました。振り向くと、そこにはいないはずの田川先生が、世にも恐ろしい形相で政彦をにらんでいたのです。

「このバカ面が!」
怒声とともにビンタが飛んできました。つづいて、床に投げつけられます。倒れると引きずり起こされてまた殴られ、何度も何度も繰り返し殴られ、投げられました。
腕には自信のある政彦でしたが、やり返そうと向かっていってもまったく歯が立ちません。
散々に叩きのめされたあと職員室で説教、廊下に立たされて、政彦はすっかりしょげかえって家に帰ったのです。級友たちの前で恥をかかされ、ガキ大将だった彼のプライドはずたずたになりました。

               
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政彦は田川先生に対する復讐の念に燃えます。
どう考えてみても、あれだけ殴られ、投げられたことが悔しくてなりません。1週間ほど考え込み、調べもしました。そして、田川先生が師範学校時代に柔道をやり、初段(自伝『わが柔道』にはこうありますが、もう1つの自伝『鬼の柔道』では1級と書かれています)の腕前だということを知ったのです。

「柔道とはそんなに恐しいものか、よし、それなら俺も柔道をやろう、先生が初段なら、俺が二段になれば投げ返すことができるだろう・・・・・・」(『わが柔道』)

以来政彦は、あちこちの道場を研究して歩きました。当時、熊本市内には扱心流<きゅうしんりゅう>江口道場、竹内三統<たけのうちさんとう>流矢野道場、四天<してん>流星野道場という、有名な古流柔術の3流派がありました。
かつて肥後藩は、この3家を300石から400石で召し抱え、藩士を鍛え上げていた武道王国でした。政彦の少年時代にはまだ、これらの柔術の道場があったのです。
しかし、政彦の家から通うにはどこも遠過ぎたので、小学校正門の脇にあった木村又蔵がやっている昭道館<しょうどうかん>という竹内三統流の道場に目をつけます。

柔道をやっていた先生を倒すのに、古流柔術を習うとはと、奇異に感じる人もいるかもしれませんが、講道館柔道も当初は嘉納流柔術とか、講道館流柔術と呼ばれたように柔術諸流の1つと見なされていましたから、当時としてはそんなに違和感はなかったのでしょう。

政彦は毎日、道場の武者窓から中をのぞいていました。どんな様子か、先生は強そうかと品定めをしていたのです。
ある日、そんな政彦に又蔵は、「おい、そこの小学生、ちょっと中に入って来い」と声をかけました。政彦が道場へ入って行くと、
「柔術をやりたいのか。もし入門したいのだったら、今日からでもよいぞ」
と言いました。それに対して政彦は、
「今日はのぞきに来ただけで、母がまだ許してくれないんです」
と答えました。母ミキが許さなかったのは、柔術は危険なもので、腕を折ったり、足をくじいたりすると聞いていたからです。
政彦は困惑しましたが、やがて入門に賛成していた父の口ぞえもあって、頑強に反対していた母も、ついに折れます。

勇躍して昭道館の門をくぐった政彦少年ですが、母の心配は的中し、入門早々、彼はとんでもない洗礼を受けることになるのです。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年

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