ひろむしの知りたがり日記

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鬼の柔道VSグレイシー柔術 ─ 木村政彦とエリオ・グレイシー 【後編】

2015年04月30日 | 日記
昭和26(1951)年10月23日、木村政彦とエリオ・グレイシーの試合は、リオ・デ・ジャネイロにある当時世界最大の競技場で、20万人を収容可能なマラカナン・スタジアムにおいて行われました。ブラジル中の注目を集め、2万数千人から4万数千人の観客が会場に詰め寄せたといいます。その中には、カフェ・フィーリオ副大統領ら大勢のVIPの姿もありました。
10分3ラウンド、ラウンド間の休憩は2分で、勝敗はどちらかが降参するか、絞め落とされることによってのみ決するというデスマッチ・ルールでした。

木村が控室に入ると、棺桶が1つ置いてありました。驚いて「なんだ、これは?」と訊ねると、「木村のためのものだ。エリオが持参したんだ」というのです。それを聞いた木村は、おかしくてもう少しで吹き出すところでした。
木村は身長170センチ、体重85キロ。対するエリオは170センチ、65キロと、両者の間には20キロもの体重差がありました。
必ずしも体格に恵まれているとはいえなかったエリオは、兄カルロスの教える立ち技中心でパワー、スピードを必要とする柔道(柔術)を自分なりにアレンジして、てこの原理に着目した寝技中心のグレイシー柔術を作り上げました。
しかし、「鬼」と呼ばれた牛島辰熊(最終段位は9段。弟子の木村も「鬼」の称号を受け継ぎます)に徹底的に鍛え上げられ、自らも人間離れした猛練習を積んで、精巧な柔道マシーンともいうべき存在と化していた木村には、苦戦を強いられます。

第1ラウンド、まずはエリオが大外刈り、小内刈りと盛んに攻め立てますが、木村は微動だにしません。
木村が反撃に転じると、大内刈り、払い腰、内股、一本背負いと、技を掛ける度にエリオは大きく吹っ飛びました。そして闘いは寝技戦へと移り、木村に袈裟固めで押さえ込まれてしまいました。
頭部を強く絞めつけられたエリオの耳から血が流れ出します。腕を緩めて「大丈夫か?」と訊ねる木村に、エリオは「もちろん大丈夫だ」と答えました。木村がさらに逆三角絞めで絞め上げると、ついにエリオは失神してしまいました。
木村がそれに気づかずに、このままでは埒が明かないと絞めるのをやめて体勢を変えたので、エリオは意識を取り戻し、何とかそのラウンドは持ちこたえることができました。

そして第2ラウンド。木村は脳震盪<のうしんとう>を狙った強烈な大外刈りでエリオを倒し、寝技で攻め立てます。そしてついに、自ら開発した関節技の腕緘<うでがら>みを極めました。
「グジ、グジという不気味な音が一、二度した。シンと静まりかえった会場に、骨の折れる音が大きく響いた」(木村政彦著『わが柔道』)
エリオは腕の骨が折れてもなお「参った」をしませんでしたが、セコンドのカルロスがタオルを投げ入れ、3分20秒で木村のTKO勝ちが決まりました(エリオはこの時、腕は折れていなかったと言っています)。
木村がエリオを破った腕緘みは、ブラジルでは「キムラ・ロック」と呼ばれるようになりました。

エリオの不屈の闘志は、木村を強く感動させました。
彼は自伝『わがの柔道』の中で、次のように語っています。
「こんな闘魂の持ち主が日本人の柔道家にいるだろうか。エリオの闘魂は日本人の鏡だ、と私は思った。(中略)試合では勝っても、勝負への執念に関しては私の負けであった」

木村はまた、もう1つの自伝『鬼の柔道』でこうも言っています。
「このエリオ・ブラッシー(エリオ・グレイシーのこと。ひろむし注)というのは、かつての日本高専大会の柔道みたいに寝技専門で、しかもたくみであった。(中略)私がこのブラジルで一番の収穫だと思ったのは、向こうにも昔の高専大会に似た寝技があったということであった。もし、私が立技専門であったら、絶対に参ったといわないエリオ・ブラッシーを倒すのに一苦労したことであろう。私はブラジルにいって、寝技の重要性を再認識させられたのである」


木村や高専柔道にも触れる『グレイシー柔術の真実』

木村の言う高専大会とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
明治31(1898)年の一高VS二高の第1回定期戦に端を発し、各地で官立旧制高校などが柔道の定期戦を行うようになりました。大正3(1914)年に京都帝大がこれらを統合して、京都武徳殿において第1回全国高等学校専門学校柔道優勝大会(高専大会)を開催しました。その後、東京帝大など他の帝大も運営に加わるようになり、参加校も年々増えていき、昭和16(1941)年に太平洋戦争の戦局悪化のため中止されるまで、27年間に渡って行われました。
この大会では、技ありや有効などを認めず、勝敗を決めるのは一本のみです。寝技への制限が一切なく、「始め」の声と同時にいきなり寝技に引き込むことも許されていました。

こうした独自のルールのもと、選手たちは生まれつきの才能が大きく実力を左右する投げ技よりも、どれだけ稽古したかという練習量の差が物をいう寝技をより重視するようになりました。こうして高専柔道は、日本柔道史の中でも最も寝技が研究され、発達した独特なスタイルを完成させていきました。
木村は、やはり寝技に優れたブラジルのグレイシー柔術に、自らも経験した高専柔道との共通性を見出したのです。

エリオが初めて日本に来たのは、平成11(1999)年の秋でした。
翌年に開かれる「PRIDEグランプリ2000」に出場する6男ホイスとともに、記者会見に臨んでいます。
来日の折、彼は講道館を訪ね、資料室ですでに他界していた木村の写真を見て、目に涙を浮かべていたそうです。エリオは、圧倒的な強さを見せつけられた木村のことを、心からリスペクトしていました。

彼は木村との試合について、最晩年、次のように語りました。
「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接することができる男には、あれ以降会ったことがない」(増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』)

生涯最大の好敵手であった木村の待つ彼岸にエリオが旅立ったのは、それからちょうど10年後の平成21(2009)年1月29日のことです。95歳での大往生でした。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
木村政彦著『わが柔道 グレイシー柔術を倒した男』学習研究社、2001年
Show編『グレイシー柔術の真実 ブラジルに伝承される最強の格闘技を徹底解剖する』
  フットワーク出版、1994年
近藤隆夫著『グレイシー一族の真実 すべては敬愛するエリオのために』文藝春秋、2003年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上)(下)』新潮社、2014年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
谷釜尋徳著「柔道の普及と変容に関する研究~グレイシー柔術に着目して~(その2)」『東洋法学』3月号
  (第56巻第3号)東洋大学法学会、2013年

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