ひろむしの知りたがり日記

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雪の世田谷歴史散歩 <前編> 松陰神社 ─ 神サマになった幕末の風雲児

2014年02月10日 | 日記
なんの因果か、都心の積雪26センチ(2月8日午後10時現在)、東京では20年ぶりという大雪の中、世田谷の歴史散歩をすることになりました。カメラを持つ手が麻痺するほどの寒さでしたが、あまりの美しさに、いつの間にか夢中でシャッターを押していました。史跡や建物の詳細を観察するには、当然晴れた日の方がよいのですが、せっかくなので、世田谷の由緒ある神社やお寺の雪景色を見ていただこうと思います。

三軒茶屋から東急世田谷線に乗って、まず最初に訪れたのは、その名も松陰神社前駅が最寄りの松陰神社(東京都世田谷区若林4-35-1)です。この辺りは江戸時代、大夫山<だいぶやま>、あるいは長州山と呼ばれていました。名前の由来は、長州藩の第2代藩主毛利大膳大夫綱広が在府の折、この若林村に抱屋敷を建てたことによります。
松陰神社の主祭神は吉田寅次郎藤原矩方命<のりかたのみこと>こと吉田松陰(号は二十一回猛士)です。幕末を扱った小説や映画・ドラマには必ず登場するビッグ・ネームの思想家・教育者で、今では学問の神サマとして親しまれ、多くの受験生たちが合格祈願に訪れます。わたしたちが行った当日は、各地で大学の入学試験が行われ、交通機関の遅延で開始時間が変更になるというニュースが飛び交っていましたが、この神社に参拝した人たちは、無事試験を受けることができたでしょうか?


松陰神社の境内入口に立つ鳥居


雪が降り積もる参道の奥に見える拝殿

鳥居をくぐり参道をまっすぐ進むと、正面に昭和3年(1928)に造営された拝殿が鎮座しています。参道途中の右手には、半分雪に埋もれた吉田松陰の坐像がありました。平成24年の松陰神社御鎮座130年の記念事業として造られたもので、翌25年に完成したばかりです。

まだ新しいブロンズ製の吉田松陰坐像

松陰は杉百合之助の二男として天保元年(1830)8月4日、萩城下松本村に生まれ、叔父で山鹿流兵学師範吉田大助賢良の養子となりました。幼い頃から優秀で、なんと11歳で藩校明倫館の師範となり、藩侯の御前で講義を行ったそうです。16歳の頃には長沼流兵学師範山田亦介<またすけ>の教えを受けて世界に目を向けるようになります。その後、長崎や江戸へ遊学し、さらには志を立てて亡命するなど各地を旅して天下の志士や知名の学者と交流を深めます。とりわけ蘭学や砲術に通じ、開国を唱えた佐久間象山には強く感化され、その後の思想と行動に決定的な影響を受けました。

嘉永6年(1853)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航して日本に開港を迫ります。翌安政元年にペリーが再来すると、松陰は弟子の金子重輔と米艦に乗り込んで密航しようと企てますが失敗、国許の牢に入れられました。その後許されて松下村塾を開き、人材の育成と政治への働きかけを続けます。安政3年7月から同5年12月までの短い間でしたが、そこで学んだ多くの若者たちが、幕末から維新期にかけて活躍しています。
しかし、開国を断行した大老井伊直弼<なおすけ>が、自分の政治に反対する者たちを大弾圧した安政の大獄が、松陰の運命に暗い影を落とします。幕府から危険思想者とみなされた彼は、江戸伝馬町の獄に送られ、安政6年10月27日に処刑が決行されました。こうして松陰は、30歳の若さでこの世を去ります。

拝殿の手前右手奥には、松下村塾を模した建物があります。昭和17年に建てられましたが、現在の設置場所は当時とは違っているようです。土日は雨戸が開けられて、屋内を見ることができます。ただしその日は雪のため、枝が折れて落ちてくる危険があるからと、近くに行くことすらできませんでした。


松下村塾のレプリカ。実物は萩にあります

小塚原に晒されていた松陰の首は、初め千住の回向院に葬られましたが、4年後の文久3年(1863)正月に彼の門下だった高杉晋作や伊藤博文らの手によって毛利家抱屋敷内の楓の木の下に改葬されました。ところが元治元年(1864)に禁門の変が起きると、幕府は抱屋敷を没収し、敷地内にあった松陰の墓も破壊してしまいました。その後、明治元年(1868)には藩命を受けた木戸孝允<たかよし>が新たに墓碑を建て、さらに明治15年11月には旧長州藩の世子毛利元徳<もとのり>や松陰の門人、旧知の者たちによって墓の東側にささやかなお堂が建てられました。これが松陰神社の始まりです。

社殿に向かって左手奥にある、松陰墓所に向かう途中に立ち並ぶ石燈籠は、明治41年の松陰50年祭に毛利元徳の長子元昭<もとあきら>をはじめ、門下生の伊藤博文、木戸孝允、山県有朋、乃木希典<のぎまれすけ>などの縁故者より奉献されたものです。
灯籠を右手に見ながら進むと小さな鳥居があり、それをくぐると松陰先生他烈士墓所です。入口の鳥居は、墓所の修復の際に木戸孝允が奉納したものです。一番奥の正面に、松陰のほか頼三樹三郎、来原良蔵、小林民部良典<よしすけ>、福原乙之進<おとのしん>ら非業の最期を遂げた志士たちの墓が並んでいます。とは言え、これまた雪に埋もれてしまっていて、墓碑銘を確かめることすらままなりませんでしたが・・・。

 
伊藤博文らが奉献した石燈籠(左上)と、木戸孝允が奉納した墓所入口の鳥居(右上)。下は松陰先生他烈士墓所。ここには松陰や、彼同様安政の大獄の犠牲になった頼三樹三郎らが葬られています


墓域内にはほかに、維新後に徳川家から謝罪のために寄進された燈籠と水盤や、長州藩邸没収事件関係者慰霊碑、長州第4大隊戦死者招魂碑といった、藩のために亡くなった方々の慰霊碑が立っています。本当なら1つ1つじっくりと眺めたいところですが、もはや寒さにかじかむ指も限界に達し、いそいそと何枚か写真を撮ると、足早に松陰神社を後にしました。

境内を出て右に行くと、まもなく桂太郎が眠る桂家の墓所があります。桂も長州藩出身で、台湾総統、陸相を経て、明治37年には首相として日露戦争開戦を決め、苦しみながらも勝利を収めた人物です。66歳で亡くなり、本人の遺言によって松陰霊域のそばに葬られました。付近には、やはり旧長州藩士で慶応2年(1866)の第2次幕長戦争では休戦交渉に当り、明治になってからは民部大輔、参議を歴任して版籍奉還などを推進した広沢真臣<さねおみ>の墓(都指定旧跡)があります。


松陰神社のすぐそばで眠る桂太郎の墓所

毎年10月27日の例大祭に合わせて、松陰神社と松陰神社通り商店街では、その近辺の週末に「幕末維新祭り」が開催され、幕末の志士や奇兵隊に扮してのパレードなどが賑やかに行われるそうです。今度はその時分にでも訪れて、雪のない松陰神社や桂太郎・広沢真臣の墓をじっくりと見てみたいと思います。
でもそれはまた別の話、とりあえず今は、次の目的地である豪徳寺へと急ぐことにしましょう。

【参考文献】
奈良本辰也著『吉田松陰』岩波書店、1951年
竹内秀雄著『東京史跡ガイド⑫ 世田谷区史跡散歩』学生社、1992年
世田谷区立郷土資料館編『幕末維新 近代世田谷の夜明け』世田谷区立郷土資料館、2012年

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2 コメント

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Unknown (てぃんく☆)
2014-02-11 21:38:40
世田谷の雪。ずいぶんと降りましたね。
昨年末、この界隈に引っ越しました。
なので、我が家の氏神様です。

引っ越す前から、ときどきふらっと行くところでした。
なので、思い切ってこの界隈に移動したということです。
ほかにもいろいろ事情があるのですが・・・。

続編楽しみです。
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ありがとうございます (ひろむし)
2014-02-16 23:03:07
てぃんく☆さん、コメントありがとうございます。

今、世田谷にお住まいなんですか?
そんな近くにいらっしゃるとは、
ついぞ知りませんでした。

今回の歴史散歩に参加したメンバーには、
てぃんく☆さんご存知の方もいると思います。
ご一緒できたらよかったですね!

後編もアップしましたので、ぜひご覧ください。
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