2人の将軍家兵法指南役、小野忠明と柳生宗矩は、ほぼ同じ時期に徳川家に仕官しています。
先に仕えたのは忠明で、文禄2(1593)年のことです。宗矩はその翌年で、忠明の方が1年先輩になります。
忠明の就職経緯については、いくつかのエピソードが伝わっています。
たとえば、師の伊藤一刀斎景久<かげひさ>が徳川秀忠の剣術師範にスカウトされた時、諸国武者修行を続けることを望んで、代わりに忠明を推薦したというものです。
これは、宗矩が父石舟斎の代わりに徳川家に仕えたのとよく似ていて、いかにもありそうな話です。
ただ、これに激怒した兄弟子の小野善鬼と命をかけて決闘するという、前回の日記で書いた尋常でない話が付いてくることになるのですが・・・。
また、こんなのもあります。
江戸近郊の村で、剣術使いが人を殺して民家に立て籠りました。家康は、甲州流兵学者の小幡勘兵衛景憲<おばたかんべえかげのり>を検使として派遣し、忠明に賊を倒すことを命じます。忠明は勝負が始まるやたちまち相手の両腕を斬り落として勝ちを収めました。
勘兵衛の報告を聞いた家康は、忠明の働きを賞し、旗本に取り立てたというのです。
ちなみに小幡景憲は、後に忠明から免許を授かり、神子上一刀流を創始しています。
極めつけの話としては、宗矩と忠明の直接対決のエピソードがあります!
江戸に出た忠明は、宗矩に勝負を挑むために、柳生邸に乗り込みました。
大小を取り上げられた忠明に対して、宗矩は真剣を抜き放ち、
「わが道場は、並みの道場ではない。将軍家指南役である。それを知って試合を挑んでくる者は、手討ちにすることになっている」
と言いました。周囲を見回した忠明は、一寸八尺ばかり(約55センチ)の薪の燃えさしが落ちているのを見つけ、それを取り上げて立ち合いました。
宗矩は汗を流しつつ忠明に斬りかかりますが、その刃先は忠明の衣服に触れることさえできません。それどころか顔から衣服にかけて、燃えさしの炭をさんざんなすり付けられてしまいました。宗矩が偉かったのは、そこで弟子たちを使ってよってたかって忠明を斬り殺すというような卑劣なマネをしなかったことです。
忠明の腕に心から感服した宗矩は、彼をその場で待たせたまま登城します。そして大久保彦左衛門に会って、忠明を将軍家で召し抱えるよう推挙したといいます。
最初に書いたように、徳川家に仕えたのは忠明の方が先なので、このエピソードは当然、真っ赤な嘘です。
そうは言っても、忠明自身にも柳生には負けぬという自負があったのでしょう、宗矩の子どもたちの剣術修行法について、上から目線のアドバイスをしたと伝えられています。
どのようなアドバイスかというと、忠明は宗矩に対して次のように言いました。
「ご子息たちが上達するよい方法がある。罪人のうちから腕の立つ者をもらい受けて真剣を持たせ、これを相手にして斬り捨てさせることだ」
乱暴ではありますが、実戦派の忠明らしい言い分です。それに対して宗矩は、「いかにも、いかにも」と頷きはしたものの、当然のことながら実行には移しませんでした。
将軍家指南役の子どもに、そのような人斬り稽古をさせられるはずもありません。それでも、その場では忠明を立てて否定しないあたり、世知に長けた宗矩らしい、大人の対応といえましょう。
立身出世という面では、大名にまでなった宗矩に遠く及ばなかった忠明ですが、剣術としての一刀流は、なかなかの隆盛を誇ることになります。
息子の忠常が受け継いだ小野派一刀流、忠明の弟伊藤典膳忠也<てんぜんただなり>を祖とする忠也派一刀流などに分派して諸国に広まり、江戸時代の終わりには、その流れを汲む北辰一刀流が風雲急を告げる歴史の舞台で活躍、あるいは暗躍したキーパーソンを多く輩出しています。
新撰組の隊士でしたが、それぞれの事情から隊を離れて悲劇の最期を遂げた山南敬介・伊東甲子太郎・藤堂平助、新撰組の母体となった浪士組の募集に応じて京に上るも、近藤勇らと対立して袂を分ち、江戸に戻った後、幕府見廻組に暗殺された尊王攘夷の志士清河八郎、桜田門外の変で大老井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門、変を起こした水戸浪士たちに精神的な影響を与えた海保帆平<かいほはんぺい>、西郷隆盛に直談判して勝海舟との会談を実現、江戸無血開城への道を開いた山岡鉄舟、もはや説明不要の幕末一番人気のヒーロー坂本龍馬など、その人材たるやまさに綺羅星の如くです。
それに引きかえ、幕末維新史において柳生新陰流の名を、少なくともひろむしは聞いたことがありません。
忠明は徳川家康に一刀流の極意を尋ねられた時、それは相手を一刀のもとに斃すことにあり、他流派のような定まった型などない、と答えています。
いつ命の危険にさらされるかわからない動乱の中では、剣禅一如を目指し、心法に重きを置く柳生新陰流よりも、実戦至上主義の一刀流の方が、時代のニーズに合っていたのでしょう。
結果的に、広く世に広まった一刀流は、現代剣道のルーツと言われています。
では、そもそも一刀流の創始者伊藤一刀斎とはどのような人物だったのでしょうか?
次回の日記では、そのあたりを語りたいと思います。
小野忠明・伊藤一刀斎・小野忠常の連名墓(常楽寺。東京都新宿区原町2-30)
【参考文献】
森川哲郎著『日本史・剣豪名勝負95』日本文芸社、1993年
別冊歴史読本/読本シリーズ5『日本剣豪読本』新人物往来社、1993年
歴史と旅 平成9年11月号『幕末青春譜 剣道三国志』秋田書店、1997年
小島英熙著『歴史紀行 素顔の剣豪たち』日本経済新聞社、1998年
童門冬二他著『人物日本剣豪伝<2>』学陽書房、2001年
牧秀彦著『剣豪全史』光文社、2003年
牧秀彦著『戦国の兵法者─剣豪たちの源流とその系譜』学習研究社、2007年
先に仕えたのは忠明で、文禄2(1593)年のことです。宗矩はその翌年で、忠明の方が1年先輩になります。
忠明の就職経緯については、いくつかのエピソードが伝わっています。
たとえば、師の伊藤一刀斎景久<かげひさ>が徳川秀忠の剣術師範にスカウトされた時、諸国武者修行を続けることを望んで、代わりに忠明を推薦したというものです。
これは、宗矩が父石舟斎の代わりに徳川家に仕えたのとよく似ていて、いかにもありそうな話です。
ただ、これに激怒した兄弟子の小野善鬼と命をかけて決闘するという、前回の日記で書いた尋常でない話が付いてくることになるのですが・・・。
また、こんなのもあります。
江戸近郊の村で、剣術使いが人を殺して民家に立て籠りました。家康は、甲州流兵学者の小幡勘兵衛景憲<おばたかんべえかげのり>を検使として派遣し、忠明に賊を倒すことを命じます。忠明は勝負が始まるやたちまち相手の両腕を斬り落として勝ちを収めました。
勘兵衛の報告を聞いた家康は、忠明の働きを賞し、旗本に取り立てたというのです。
ちなみに小幡景憲は、後に忠明から免許を授かり、神子上一刀流を創始しています。
極めつけの話としては、宗矩と忠明の直接対決のエピソードがあります!
江戸に出た忠明は、宗矩に勝負を挑むために、柳生邸に乗り込みました。
大小を取り上げられた忠明に対して、宗矩は真剣を抜き放ち、
「わが道場は、並みの道場ではない。将軍家指南役である。それを知って試合を挑んでくる者は、手討ちにすることになっている」
と言いました。周囲を見回した忠明は、一寸八尺ばかり(約55センチ)の薪の燃えさしが落ちているのを見つけ、それを取り上げて立ち合いました。
宗矩は汗を流しつつ忠明に斬りかかりますが、その刃先は忠明の衣服に触れることさえできません。それどころか顔から衣服にかけて、燃えさしの炭をさんざんなすり付けられてしまいました。宗矩が偉かったのは、そこで弟子たちを使ってよってたかって忠明を斬り殺すというような卑劣なマネをしなかったことです。
忠明の腕に心から感服した宗矩は、彼をその場で待たせたまま登城します。そして大久保彦左衛門に会って、忠明を将軍家で召し抱えるよう推挙したといいます。
最初に書いたように、徳川家に仕えたのは忠明の方が先なので、このエピソードは当然、真っ赤な嘘です。
そうは言っても、忠明自身にも柳生には負けぬという自負があったのでしょう、宗矩の子どもたちの剣術修行法について、上から目線のアドバイスをしたと伝えられています。
どのようなアドバイスかというと、忠明は宗矩に対して次のように言いました。
「ご子息たちが上達するよい方法がある。罪人のうちから腕の立つ者をもらい受けて真剣を持たせ、これを相手にして斬り捨てさせることだ」
乱暴ではありますが、実戦派の忠明らしい言い分です。それに対して宗矩は、「いかにも、いかにも」と頷きはしたものの、当然のことながら実行には移しませんでした。
将軍家指南役の子どもに、そのような人斬り稽古をさせられるはずもありません。それでも、その場では忠明を立てて否定しないあたり、世知に長けた宗矩らしい、大人の対応といえましょう。
立身出世という面では、大名にまでなった宗矩に遠く及ばなかった忠明ですが、剣術としての一刀流は、なかなかの隆盛を誇ることになります。
息子の忠常が受け継いだ小野派一刀流、忠明の弟伊藤典膳忠也<てんぜんただなり>を祖とする忠也派一刀流などに分派して諸国に広まり、江戸時代の終わりには、その流れを汲む北辰一刀流が風雲急を告げる歴史の舞台で活躍、あるいは暗躍したキーパーソンを多く輩出しています。
新撰組の隊士でしたが、それぞれの事情から隊を離れて悲劇の最期を遂げた山南敬介・伊東甲子太郎・藤堂平助、新撰組の母体となった浪士組の募集に応じて京に上るも、近藤勇らと対立して袂を分ち、江戸に戻った後、幕府見廻組に暗殺された尊王攘夷の志士清河八郎、桜田門外の変で大老井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門、変を起こした水戸浪士たちに精神的な影響を与えた海保帆平<かいほはんぺい>、西郷隆盛に直談判して勝海舟との会談を実現、江戸無血開城への道を開いた山岡鉄舟、もはや説明不要の幕末一番人気のヒーロー坂本龍馬など、その人材たるやまさに綺羅星の如くです。
それに引きかえ、幕末維新史において柳生新陰流の名を、少なくともひろむしは聞いたことがありません。
忠明は徳川家康に一刀流の極意を尋ねられた時、それは相手を一刀のもとに斃すことにあり、他流派のような定まった型などない、と答えています。
いつ命の危険にさらされるかわからない動乱の中では、剣禅一如を目指し、心法に重きを置く柳生新陰流よりも、実戦至上主義の一刀流の方が、時代のニーズに合っていたのでしょう。
結果的に、広く世に広まった一刀流は、現代剣道のルーツと言われています。
では、そもそも一刀流の創始者伊藤一刀斎とはどのような人物だったのでしょうか?
次回の日記では、そのあたりを語りたいと思います。
小野忠明・伊藤一刀斎・小野忠常の連名墓(常楽寺。東京都新宿区原町2-30)
【参考文献】
森川哲郎著『日本史・剣豪名勝負95』日本文芸社、1993年
別冊歴史読本/読本シリーズ5『日本剣豪読本』新人物往来社、1993年
歴史と旅 平成9年11月号『幕末青春譜 剣道三国志』秋田書店、1997年
小島英熙著『歴史紀行 素顔の剣豪たち』日本経済新聞社、1998年
童門冬二他著『人物日本剣豪伝<2>』学陽書房、2001年
牧秀彦著『剣豪全史』光文社、2003年
牧秀彦著『戦国の兵法者─剣豪たちの源流とその系譜』学習研究社、2007年
二人が死んだかなり後の時代に一刀流の弟子が作った伝書ですし、
二人の生前に作られた文書にも両者の腕を直接比較したものは全く無いので
(宗矩の剣術を賞賛する文書の方が忠明よりも圧倒的に多く残ってるくらい)
後世の評価や実際の腕前は別として“当時の世間のもっぱらの見方”として
宗矩が忠明に劣っていると認識されていたと言う事は無かった
と思うのですがいかがでしょうか?
日本人はあまり順調に出世した人物よりも、体制側に反抗したような人の方を好む傾向があるので、きっと彼らが生きていた当時も、
「世渡り上手で出世した宗矩よりも、剣の道一筋の忠明の方が強いに違いない」
と思われていたという気はしますが、史料に基づかない迂闊な発言でした。
これからも、お気づきの点があったら、教えてください m(_ _)m
わざわざ時代的にありえない作り話をする必要もないと思いますし,
忠明の強さを示す逸話は,宗矩や(ある意味忠明よりも出世できていない)武蔵等と比べると
自流派で伝えられたものがほとんどで
流派外の伝承が元になっているものがあまり無い点や
柳生や武蔵等と違い,他流派の伝承内で引き立て役として登場する事が無い点等からも
後の時代に彼の剣の後継者達が天下を席巻するまで
忠明はその高い実力程には正当に評価されていなかったのではないかという気がします。
揚げ足取りのようなコメントばかりで申し訳ございません。
このような礼を逸した書き込みに対して
御丁寧な返答をいただき誠にありがとうございました。
それだけに、一刀流の門弟は自分たちで流祖の実力を強烈にアピールする必要があったのでしょう。
人々に認められるためにももちろんですが、自分たちのプライドを満足させるためにも。
揚げ足を取れるということは、ちゃんと読んでいただいているということなので、むしろ大歓迎です。
いつか褒めていただけるように、がんばりたいと思います。