ひろむしの知りたがり日記

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益満休之助、彰義隊との戦いに散る ─ 大円寺(2)

2012年10月14日 | 日記
大円寺(東京都杉並区和泉3-52-18)にある、幕末から明治にかけての戦争で亡くなった薩摩藩の犠牲者のために建てられた墓碑「戊辰薩摩藩戦死者墓」の下部には、彼らの名前が記された板が何枚もはめ込まれています。その中には、御用盗を指揮して薩摩藩邸焼打ち事件を誘発し、鳥羽・伏見の戦いのきっかけを作ったあの益満休之助<ますみつきゅうのすけ>(行武<ゆきたけ>)の名も書かれていました。

休之助は天保12(1841)年、鹿児島城下高麗町で益満行充の二男として生まれました。少年時代から暴れん坊で、動作は機敏、頭の回転も早かったそうです。
尊王攘夷の志を抱き、安政6(1859)年頃に清河八郎がつくった秘密結社虎尾<こび>の会(尊王攘夷党)に加盟します。メンバーには、後に歴史的な事件で関わりを持つことになる同じ薩摩藩士の伊牟田尚平<いむたしょうへい>や、幕臣の山岡鉄舟がいました。文久元(1861)年に、伊牟田らがアメリカ公使館通訳のオランダ人ヒュースケンを襲撃した際にも、益満はその一味に加わっています。

家康開基の大円寺山門には宿敵徳川の葵紋が

この時期に過激な活動家としての素地を培っていったのでしょう、慶應3(1867)年には西郷隆盛の密命を受け、伊牟田や下総国の郷士相楽総三<さがらそうぞう>らと共謀して、薩摩藩江戸藩邸を本拠に浪人500人を集めて江戸市中攪乱作戦を展開しました。
作戦は功を奏し、12月25日に幕府側の出羽庄内藩兵らによる薩摩藩邸焼打ち事件が起こります。多勢に無勢で薩摩側は敗退を余儀なくされ、伊牟田や相楽らは品川沖に停泊中の薩摩藩船祥鳳丸<しょうほうまる>で西へ逃れました。しかし益満は捕らえられ、死罪となるところを勝海舟に庇護されたのです。

翌慶應4年3月9日、新政府軍による江戸城総攻撃を目前に控え、益満は勝の依頼を受けた山岡鉄舟と一緒に、駿府まで来ていた東征軍参謀である西郷隆盛のもとへと向かいました。勝が益満を山岡に同行させたのは、彼に証言させて、山岡を薩摩藩士として駿府への道を通行させるためです。益満は山岡とはかつての同志であり、うってつけの役回りでした。
山岡は豪胆な男で、六郷川<ろくごうがわ>(多摩川下流部)を渡り、最初に新政府軍と接触した際には「朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄太郎(鉄舟)、大総督府へ罷り通る」と宣言して、相手がなんのことかわからず呆然としている隙に突破してしまいました。
まるでマンガが映画の1シーンのような胸のすく場面ですが、さすがにそんなことが何度もうまくいくわけがないので、以後は山岡もおとなしく益満の後に従い、薩摩藩士を装ったそうです。益満は箱根で体調を崩し、駿府までは行かなかったという説もあります。それにも関わらず、山岡は果敢に危難を切り抜け、新政府軍本営までたどり着きました。西郷に面会した山岡の命がけの説得により、9月30日の日記で書いた西郷と勝の江戸無血開城をめぐる交渉が実現したのです。

その快挙から2ヵ月後の5月15日、益満は上野に立てこもった彰義隊<しょうぎたい>を攻める戦いの渦中にいました。薩摩藩は最も激烈な戦闘が行われた正面黒門口の攻撃を担当し、50名近い死傷者を出します。
益満もその1人でした。彼は右脚に銃弾を受けました。致命傷ではなかったものの、不運にも傷口から菌が入り、破傷風にかかってしまったのです。西郷は益満を特別扱いで治療するよう指示しますが、その甲斐なく22日夕刻、横浜の軍陣病院で死亡しました。本来なら薩摩藩邸焼打ち事件の時に失くしているはずの命だったとはいえ、それからわずか半年後、まだ28歳という若さでした。

大円寺にある墓碑にはめ込まれた、上野戦争の犠牲者名が並ぶ板には、「隊外 斥候役 益満休之助 廿八歳」と記されています。どの隊にも属さないフリーな立場だったわけですが、この時もやはり益満は、西郷の密命を受けて危険な敵情視察の任に当っていたのでしょうか?




戊辰薩摩藩戦死者墓(上)とそこに記された上野戦争の犠牲者名。右から2人目が益満(下)

幕府と新政府との戦争を引き起こすために江戸の町で辻斬りや放火、強盗を繰り広げ、両者の対立が決定的になると、今度は一転してその同じ江戸が火の海になるのを防ぐのに貢献するという矛盾した役割を演じた益満休之助は、最後はその江戸において行われた唯一の戦いで命を落としたのです。
新しい世を作るためとはいえ、益満は江戸の人々を恐怖に陥れるという罪を犯しました。その短い一生の間に彼は、自らその罪を精算し、あの世へと旅立っていったのかもしれません。


【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第1巻他、吉川弘文館、1979年他
家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』第7巻、新人物往来社、1989年
新潮社辞典編集部編『新潮日本人名辞典』新潮社、1991年
童門冬二著『勝海舟』かんき出版、1997年
小島英熙著『山岡鉄舟』日本経済新聞社、2002年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
[サイト]「さつま人国誌─益満休之助の戦傷死」南日本新聞社、2012年1月9日同紙掲載

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1 コメント

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啓天の無料本ご紹介 (小山啓天)
2015-02-14 16:46:40
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