ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(3)─ 心優しき悪童、竹内三統流矢野道場へ

2015年06月21日 | 日記
木村又蔵は明治27(1894)年末、熊本県飽田<あきた>郡八分字<はふじ>村(現・熊本市)の農民木村惣五郎の2男として生まれました。弟子の木村政彦も幼い頃からわんぱく坊主でしたが、師の又蔵もまた、負けずに悪童ぶりを発揮しています。

小学3年生の時には森先生という担任の若い女性教師の袴の裾をまくり、驚いて跳びあがった彼女の板裏草履が当たって、眉間に一生痕が残るほどの傷を負いました。ただ、この時又蔵は森先生をかばい、傷はその場にいて彼の頭を素草履で蹴った青木という男性教師のせいだと言い張りました。幼いながらも、うら若き乙女に恥ずかしい思いをさせたという罪悪感があったでしょうし、彼女がわざとやったわけではないということもわかっていたのでしょう。それよりも、「この糞餓鬼が!」と言って脳天を蹴とばした青木先生に対する恨みの方が、勝っていたようです。

また、4年生の時には、7つ違いの姉キヨが肺を患います。キヨの容態は絶望的でしたが、心配する又蔵に医者が気休めに言った「魚ば食わせてやれば死なん」という言葉を信じ、授業中に大便がしたいと言って教室を抜け出して、小川に行って鯉や鮒を捕まえてはせっせとキヨのところに持って行ったのです。
そんなことが2日続き、3日目、不審に思った森先生が、
「そこでしなっせ」
と言うと、又蔵は本当にその場で大便をひねり出したのです!
小遣いさんの手も借りてなんとか始末しましたが、翌日、又蔵が「先生、糞」と声を上げると、すかさず許可がおりたことは言うまでもありません。

又蔵には、こうした悪ガキぶりを示すエピソードがいくつもありますが、最初の話では怪我をさせられた女性教師をかばったり、もう1つの話でも授業をサボった理由が病気の姉のためだったりと、又蔵が実は、心の優しい少年だったことが窺い知れます。

明治44(1911)年、16歳になった又蔵は、村の相撲大会に出場しました。彼はかつて騎兵連隊の相撲大会で優勝したことのある坂井という馬喰<ばくろう>(馬を売買、周旋する人)に日頃から相撲を習っており、今では坂井を負かすほどの腕前になっていました。そして、自分より一回りも身体が大きく屈強な男たちを相手に、5人抜きをして優勝したのです。内掛け、外掛け、足払いなど、見事な技を次々と繰り出す又蔵の取り口を見た駐在さんが、
「おまえのは相撲というより、どちらかといえば柔術に近か。おまえに習う気があれば、わしが習うた矢野先生が、ちょうど内弟子ば探しておられるけん、仲介してやるぞ」
と声をかけてきました。その誘いに乗った又蔵は、竹内三統流の矢野権之助広次に入門したのです。

竹内三統流は、享禄5(1532)年に美作(現・岡山県北部)の人、竹内中務大輔久盛が開いた竹内流から派生したものです。源流である竹内流は、創立以来の伝承系統が明らかなものとしては、日本柔術史上最古の由緒ある流派です。江戸時代には日本全土に広まり、各地に分派分流が生まれました。
天保年間(1830~1844)に矢野彦左衛門広英が、熊本に伝承される2系統(2代竹内常陸介久勝の弟子小林善右衛門勝元と、3代竹内加賀介久吉から伝を受けた荒木無人斎秀縄に連なる流系)と、作州の本家で学んだ竹内流を整理再編して創始しました。

又蔵が師事した矢野広次は、竹内三統流3代目の継承者です。2代矢野司馬太広則の養嗣子となりました。若い頃には相当な負けず嫌いだったようで、次のようなエピソードが残されています。

明治14(1881)年春、広次は良移心当流の中村半助(小説『姿三四郎』で、古流柔術を代表して三四郎と戦った好敵手にして、三四郎を恋い慕うヒロイン乙美の父でもある村井半助のモデル)と試合をします。善戦むなしく上四方固で押さえ込まれてしまった広次は、なんと中村の胸の下から噛みついて放さず、同門の佐村正明が口の中に鉄の火箸を突っ込み、歯を叩き折って口を開かせてようやく引き離しました。

そんな広次も、又蔵が入門した時にはすでに70代半ばでした。高齢に至ってもなお稽古着を身につけ、自ら門人を指導しましたが、若い頃の血気盛んな姿はすでになく、温厚篤実な君子となっていました。

             
加来耕三編『日本武術・武道大事典』。「竹内三統流」の項には矢野広次や木村又蔵の人物伝も掲載

ここで1つ、訂正をしておかなければなりません。
前回、又蔵は竹内三統流と、上京して自ら学んだ講道館柔道をミックスして教えていたのではないかと書きました。もちろん、そのような側面はあったでしょうが、彼が柔術を習い始めた頃には、すでにそうしたことは古流の間で行われていたようです。

嘉納治五郎が、第五高等中学校の校長として熊本に赴任して来たのは明治24年9月のことでした。
彼は校長官舎の物置や生徒控室に畳を入れて道場とし、柔道の指導を始めます。そして翌年9月には、熊本講道館を起こしました。
嘉納に招かれて、五高で英語と英文学を教えた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、嘉納の柔道理論に共感し、『柔術』という論文を執筆しています。
翌明治26年2月、嘉納は文部省図書課長となって帰京し、当時五高の教授で講道館4段だった有馬純臣<すみおみ>が後事を託されました。

そうした経緯もあって、熊本には早くから講道館柔道が普及し、同地で力のあった竹内三統流、扱心流、四天流などの柔術道場も、日常の稽古に柔道を採り入れるようになりました。

柔道の立ち技の大内刈りや小外刈りが、又蔵が相撲で得意としていた内掛け、外掛けとあまり変わらなかったので、大いに又蔵の上達を助けたといいます(『柔道一本槍』)。

嘉納治五郎像(講道館。東京都文京区)

又蔵は入門して3年後には早くも中極意に進み、やがて師範代を任されるまでになりました。そして大正7(1918)年10月には、ついに同流小具足1巻を授けられます。時に又蔵、23歳のことでした。

しかし、子どもの頃から折り紙付きのトラブルメーカーだった又蔵です。
時折現れる武者修行まがいの流れ者と立ち合っては、竹内三統流の威力を見せつけて追い払ったりしてはいましたが、その程度の刺激に満足して、いつまでもおとなしくしていられる男ではありません。
彼は大事件を引き起こして矢野道場を破門になり、さらにほかの事情も加わって、逃げ出すように郷里を去ることになります。

又蔵は他流試合禁止の掟を破ってボクシングとの異種格闘技戦に挑み、しかもその勝負は、思いもよらぬ無残な結果に終わったのです。


【参考文献】
石橋和男著『良移心頭流 中村半助手帖』石橋大和、1980年
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
松田隆智著『復刻版 秘伝 日本柔術』壮神社、2000年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年

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