2度にわたって江戸に上り、風雲急を告げる世の動きを目の当たりにした坂本龍馬には、もはや郷里の土佐でじっとしていることはできませんでした。
文久元(1861)年8月、土佐藩の「一藩勤皇」を目指す武市瑞山<たけちずいざん>が結成した土佐勤王党に加盟すると、10月には剣術修行を名目に出国、翌年1月に長州萩へ赴いて久坂玄瑞<くさかげんずい>を訪ねます。武市の手紙を久坂に届け、「大義のためには藩が滅んでも構わない」と、草莽の志士の団結を訴える久坂の返書を預かって帰ります。
久坂と腹蔵なく語り合った龍馬は、藩という枠を超え、国を想う久坂の情熱に動かされたのでしょうか、帰国後の3月24日、ついに脱藩を決行しました。その後の龍馬の足取りははっきりしませんが、通説では下関、九州、大坂を経て江戸へ出たとされています。
そして千葉重太郎から奸物だという評判を聞き、幕臣の勝海舟に会うために同年10月、赤坂氷川<ひかわ>町の邸宅を訪ねました。彼は開国論者として有名な海舟を、場合によっては斬るつもりだったと言われています。ところが海舟から世界情勢を聞かされて、その見識・人物に惚れ込み、その場で弟子入りしてしまいました。そして海舟の許で、航海術を学ぶことになるのです。
よく知られたエピソードですが、これには異説もあります。
龍馬が海舟を訪ねたのは10月ではなく12月だとも、場所も江戸ではなく大坂出張中の海舟が滞在していた神戸の旅館だったともいいますし、前回の日記で書いたように、龍馬は黒船騒動に直面して異国の脅威を肌で感じ、佐久間象山に西洋流砲術を学ぶほど開明的な人物でした。
さらに最初の江戸行きから戻った龍馬は、河田小龍<しょうりゅう>という土佐藩随一の西洋事情通と出会っています。小龍は絵師で役人でもあり、漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎を取り調べ、彼から聴取した見聞をまとめた『漂巽紀略<ひょうそんきりゃく>』を著したり、薩摩藩に赴いて金属を溶かし、精錬するための反射炉を視察するなど、当時としては最先端の知識を有する人物でした。
その小龍から外国船を手に入れ、同志を集めて海運業を起こし、その利益で活動資金を得ると同時に航海術を習得するという構想を聞かされた龍馬は大いに共感し、船の入手は龍馬が、人材育成は小龍が担うという誓いを交わしたといいます。2人の約束は、小龍が開いた塾から、近藤長次郎や長岡謙吉ら、後に龍馬が作った商社亀山社中や海援隊で彼と行動を共にする人物が巣立ったことで果されました。
こう見てくると、海舟を訪ねた頃の龍馬はそれなりに国際情勢を認識しており、本気で海舟を斬ろうと考えるようなガチガチの攘夷論者だったとは考えられません。
余談ですが、龍馬は土佐にいた頃から西洋流砲術に対する素養があったかもしれないのです。
彼の家の近くには島与助という西洋流砲術家が住んでいて、龍馬とも接点があったと考えられることや、最初に江戸へ出た時に付き添った溝淵広之丞<みぞぶちひろのじょう>が御持筒役を務める土佐藩士で、その前年、すでに象山の許で西洋流砲術を学んでいたことから、江戸行きの目的も剣術ではなく西洋流砲術の修行であると推測する歴史家もいます。
ましてや黒船来航以降、国防意識が急激に高まる中での2度目の江戸出府はその感が強く、龍馬ら江戸にいた土佐藩士たちは、日々砲術操練に明け暮れていました。出府自体が土佐藩による、攘夷戦に備えての軍役であった可能性すらあるのです。
海舟と龍馬は、前述した訪問以前から知り合いだった可能性があります。
海舟も象山門下生であり、嘉永6(1853)年12月の龍馬入門よりも前から象山門下となっています。これまた前回の日記で触れたように、その後まもなく師の象山が罪に問われることとなってしまったために、彼らが同門として共に学んだ期間は短く、どの程度の接触があったのかはわかりませんが、海舟と龍馬はこの時すでに出会っていたとしても、おかしくはありません。
ちなみに象山の奥さんは海舟の妹で、2人は師弟であると同時に義理の兄弟でもあるのです。通称を麟太郎という勝に、「海舟」の号をつけたのも象山でした。
海舟に弟子入りした龍馬はその信頼を受け、彼を補佐して活躍しました。海舟の主唱による神戸海軍操練所設立のための資金集めなどに東奔西走し、元治元(1864)年5月、ついにその発足に漕ぎ着けました。
それより先の文久3(1863)年9月に、海軍操練所に併設される形で海舟の私塾である海軍塾が開かれ、10月に龍馬はその塾頭となります。この時龍馬29歳、多少遅咲きではありましたが、その胸はさぞ希望に溢れていたことでしょう。
ところが、龍馬の師弟関係は剣術を除くと、どうも長くは続かないようです。
元治元年6月5日、京都三条河原町の池田屋で、尊皇攘夷派の志士たちが御所に放火し、その混乱に乗じて孝明天皇を連れ去ろうという物騒な計画を話し合っていました。情報を嗅ぎつけた新撰組が池田屋を襲撃し、計画は未然に防がれましたが、参加していた志士の中に海軍塾の北添佶磨<きたぞえきつま>や望月亀弥太<もちづきかめやた>がいたことや、7月19日に起きた禁門の変で、敗れた長州側に加わった土佐の脱藩浪士を海軍塾で匿ったことなどから、塾は尊攘派の巣窟とみなされました。
そして長州征討に反対して幕府から睨まれた海舟は10月に江戸へ召喚され、軍艦奉行を罷免されてしまいます。海舟の失脚にともない海軍塾は閉鎖、神戸海軍操練所も翌慶應元(1865)年3月19日、廃止の憂き目を見ることになったのです。
海舟に心酔し、その事業を全身全霊で支えてきた龍馬にとって、この事態はさぞかし無念だったでしょう。
しかし、脱藩してから海舟の片腕として働いたわずかな期間に、龍馬はその後の躍進につながる、人脈という貴重な財産を得ました。前越前藩主の松平春嶽<しゅんがく>や越前藩に賓師<ひんし>として招かれた思想家横井小楠<しょうなん>、同藩士の由利公正<ゆりきみまさ>、幕臣の大久保一翁<いちおう>、そして薩摩藩の西郷隆盛ら、そうそうたる面々と知遇を得ることができたのです。
さて、そんな龍馬にとって人生の転機となる出会いの場であったかもしれない勝海舟の屋敷があったあたりは、現在、地下鉄千代田線の赤坂駅から歩いて6分ほどの、マンションや社屋が建ち並ぶ閑静な住宅地となっています。そして、跡地にある白タイル壁のバーの植え込みの中に、「勝海舟邸跡」と書かれた木標がひっそりと立っています(東京都港区赤坂6-10-39)。
勝海舟邸宅跡地(左)と平成7年建立の木標(下)

今は移転してしまいましたが、盛徳寺というお寺の隣にあったこの屋敷に海舟が住み始めたのは、長崎海軍伝習所で3年余りの修行を終えた安政6(1859)年、36歳の時のことです。1月に江戸に帰って来た彼は、ただちに軍艦操練所教授方頭取に就任し、同じ年の7月から約10年、ここを活動の拠点とします。そして、万延元(1860)年に咸臨丸館長としてアメリカに向けて旅立ったのも、明治元(1868)年に、幕府陸軍総裁として官軍の征討総督府参謀の西郷隆盛と談判を重ね、江戸城無血開城を成し遂げたのもこの間のことです。
今はなんの面影も残ってはいませんが、勝海舟の人生のうちもっともドラマチックな時期の舞台となった場所だと思うと、なんとも感慨深いものがあります。
ところで、この幕末維新を代表する傑物は、いったいどのように生まれ育って、あれだけの大業を成し遂げる人物へと成長していったのでしょうか?
次回は勝海舟が産声をあげた本所亀沢町の誕生地を訪ねつつ、その生い立ちと、彼の人格形成に少なからぬ影響を与えたであろう、父小吉<こきち>の存在に迫ってみたいと思います。
【参考文献】
石井孝著『勝海舟[新装版]』吉川弘文館、1986年
児玉幸多監修『知ってるようで意外と知らない日本史人物事典』講談社、1995年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
松浦玲著『坂本龍馬』岩波書店、2008年
加来耕三著『坂本龍馬 本当は何を考え、どう生きたか?』実業之日本社、2009年
加来耕三監修『知ってるようで知らない坂本龍馬がわかる本』あさひ出版、2009年
木村幸比古監修『図説 地図とあらすじで読み解く!坂本龍馬の足跡』青春出版社、2009年
文久元(1861)年8月、土佐藩の「一藩勤皇」を目指す武市瑞山<たけちずいざん>が結成した土佐勤王党に加盟すると、10月には剣術修行を名目に出国、翌年1月に長州萩へ赴いて久坂玄瑞<くさかげんずい>を訪ねます。武市の手紙を久坂に届け、「大義のためには藩が滅んでも構わない」と、草莽の志士の団結を訴える久坂の返書を預かって帰ります。
久坂と腹蔵なく語り合った龍馬は、藩という枠を超え、国を想う久坂の情熱に動かされたのでしょうか、帰国後の3月24日、ついに脱藩を決行しました。その後の龍馬の足取りははっきりしませんが、通説では下関、九州、大坂を経て江戸へ出たとされています。
そして千葉重太郎から奸物だという評判を聞き、幕臣の勝海舟に会うために同年10月、赤坂氷川<ひかわ>町の邸宅を訪ねました。彼は開国論者として有名な海舟を、場合によっては斬るつもりだったと言われています。ところが海舟から世界情勢を聞かされて、その見識・人物に惚れ込み、その場で弟子入りしてしまいました。そして海舟の許で、航海術を学ぶことになるのです。
よく知られたエピソードですが、これには異説もあります。
龍馬が海舟を訪ねたのは10月ではなく12月だとも、場所も江戸ではなく大坂出張中の海舟が滞在していた神戸の旅館だったともいいますし、前回の日記で書いたように、龍馬は黒船騒動に直面して異国の脅威を肌で感じ、佐久間象山に西洋流砲術を学ぶほど開明的な人物でした。
さらに最初の江戸行きから戻った龍馬は、河田小龍<しょうりゅう>という土佐藩随一の西洋事情通と出会っています。小龍は絵師で役人でもあり、漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎を取り調べ、彼から聴取した見聞をまとめた『漂巽紀略<ひょうそんきりゃく>』を著したり、薩摩藩に赴いて金属を溶かし、精錬するための反射炉を視察するなど、当時としては最先端の知識を有する人物でした。
その小龍から外国船を手に入れ、同志を集めて海運業を起こし、その利益で活動資金を得ると同時に航海術を習得するという構想を聞かされた龍馬は大いに共感し、船の入手は龍馬が、人材育成は小龍が担うという誓いを交わしたといいます。2人の約束は、小龍が開いた塾から、近藤長次郎や長岡謙吉ら、後に龍馬が作った商社亀山社中や海援隊で彼と行動を共にする人物が巣立ったことで果されました。
こう見てくると、海舟を訪ねた頃の龍馬はそれなりに国際情勢を認識しており、本気で海舟を斬ろうと考えるようなガチガチの攘夷論者だったとは考えられません。
余談ですが、龍馬は土佐にいた頃から西洋流砲術に対する素養があったかもしれないのです。
彼の家の近くには島与助という西洋流砲術家が住んでいて、龍馬とも接点があったと考えられることや、最初に江戸へ出た時に付き添った溝淵広之丞<みぞぶちひろのじょう>が御持筒役を務める土佐藩士で、その前年、すでに象山の許で西洋流砲術を学んでいたことから、江戸行きの目的も剣術ではなく西洋流砲術の修行であると推測する歴史家もいます。
ましてや黒船来航以降、国防意識が急激に高まる中での2度目の江戸出府はその感が強く、龍馬ら江戸にいた土佐藩士たちは、日々砲術操練に明け暮れていました。出府自体が土佐藩による、攘夷戦に備えての軍役であった可能性すらあるのです。
海舟と龍馬は、前述した訪問以前から知り合いだった可能性があります。
海舟も象山門下生であり、嘉永6(1853)年12月の龍馬入門よりも前から象山門下となっています。これまた前回の日記で触れたように、その後まもなく師の象山が罪に問われることとなってしまったために、彼らが同門として共に学んだ期間は短く、どの程度の接触があったのかはわかりませんが、海舟と龍馬はこの時すでに出会っていたとしても、おかしくはありません。
ちなみに象山の奥さんは海舟の妹で、2人は師弟であると同時に義理の兄弟でもあるのです。通称を麟太郎という勝に、「海舟」の号をつけたのも象山でした。
海舟に弟子入りした龍馬はその信頼を受け、彼を補佐して活躍しました。海舟の主唱による神戸海軍操練所設立のための資金集めなどに東奔西走し、元治元(1864)年5月、ついにその発足に漕ぎ着けました。
それより先の文久3(1863)年9月に、海軍操練所に併設される形で海舟の私塾である海軍塾が開かれ、10月に龍馬はその塾頭となります。この時龍馬29歳、多少遅咲きではありましたが、その胸はさぞ希望に溢れていたことでしょう。
ところが、龍馬の師弟関係は剣術を除くと、どうも長くは続かないようです。
元治元年6月5日、京都三条河原町の池田屋で、尊皇攘夷派の志士たちが御所に放火し、その混乱に乗じて孝明天皇を連れ去ろうという物騒な計画を話し合っていました。情報を嗅ぎつけた新撰組が池田屋を襲撃し、計画は未然に防がれましたが、参加していた志士の中に海軍塾の北添佶磨<きたぞえきつま>や望月亀弥太<もちづきかめやた>がいたことや、7月19日に起きた禁門の変で、敗れた長州側に加わった土佐の脱藩浪士を海軍塾で匿ったことなどから、塾は尊攘派の巣窟とみなされました。
そして長州征討に反対して幕府から睨まれた海舟は10月に江戸へ召喚され、軍艦奉行を罷免されてしまいます。海舟の失脚にともない海軍塾は閉鎖、神戸海軍操練所も翌慶應元(1865)年3月19日、廃止の憂き目を見ることになったのです。
海舟に心酔し、その事業を全身全霊で支えてきた龍馬にとって、この事態はさぞかし無念だったでしょう。
しかし、脱藩してから海舟の片腕として働いたわずかな期間に、龍馬はその後の躍進につながる、人脈という貴重な財産を得ました。前越前藩主の松平春嶽<しゅんがく>や越前藩に賓師<ひんし>として招かれた思想家横井小楠<しょうなん>、同藩士の由利公正<ゆりきみまさ>、幕臣の大久保一翁<いちおう>、そして薩摩藩の西郷隆盛ら、そうそうたる面々と知遇を得ることができたのです。
さて、そんな龍馬にとって人生の転機となる出会いの場であったかもしれない勝海舟の屋敷があったあたりは、現在、地下鉄千代田線の赤坂駅から歩いて6分ほどの、マンションや社屋が建ち並ぶ閑静な住宅地となっています。そして、跡地にある白タイル壁のバーの植え込みの中に、「勝海舟邸跡」と書かれた木標がひっそりと立っています(東京都港区赤坂6-10-39)。


今は移転してしまいましたが、盛徳寺というお寺の隣にあったこの屋敷に海舟が住み始めたのは、長崎海軍伝習所で3年余りの修行を終えた安政6(1859)年、36歳の時のことです。1月に江戸に帰って来た彼は、ただちに軍艦操練所教授方頭取に就任し、同じ年の7月から約10年、ここを活動の拠点とします。そして、万延元(1860)年に咸臨丸館長としてアメリカに向けて旅立ったのも、明治元(1868)年に、幕府陸軍総裁として官軍の征討総督府参謀の西郷隆盛と談判を重ね、江戸城無血開城を成し遂げたのもこの間のことです。
今はなんの面影も残ってはいませんが、勝海舟の人生のうちもっともドラマチックな時期の舞台となった場所だと思うと、なんとも感慨深いものがあります。
ところで、この幕末維新を代表する傑物は、いったいどのように生まれ育って、あれだけの大業を成し遂げる人物へと成長していったのでしょうか?
次回は勝海舟が産声をあげた本所亀沢町の誕生地を訪ねつつ、その生い立ちと、彼の人格形成に少なからぬ影響を与えたであろう、父小吉<こきち>の存在に迫ってみたいと思います。
【参考文献】
石井孝著『勝海舟[新装版]』吉川弘文館、1986年
児玉幸多監修『知ってるようで意外と知らない日本史人物事典』講談社、1995年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
松浦玲著『坂本龍馬』岩波書店、2008年
加来耕三著『坂本龍馬 本当は何を考え、どう生きたか?』実業之日本社、2009年
加来耕三監修『知ってるようで知らない坂本龍馬がわかる本』あさひ出版、2009年
木村幸比古監修『図説 地図とあらすじで読み解く!坂本龍馬の足跡』青春出版社、2009年
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