ひろむしの知りたがり日記

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伊賀組同心ストライキ決行! 服部半蔵家の落日

2012年05月13日 | 日記
徳川家康の艱難辛苦に満ちた生涯を表から裏から支え続けた服部半蔵正成は、関ヶ原の合戦を4年後に控えた慶長元(1596)年、55歳でこの世を去りました。

正成亡き後、嫡男の正就<まさなり>が半蔵の名と、父の遺領8,000石のうち5,000石、それに与力7騎、伊賀組同心200人を受け継ぎました。
ところが苦労人の父と違って、生まれながらの大身旗本であった正就はわがままで粗暴でした。家康の異父弟で伊勢桑名(三重県桑名市)11万石の城主だった松平(久松)定勝<さだかつ>の娘、つまり家康の姪を妻に迎えたことも、彼をいっそう増長させたのかもしれません。

正就は自分の屋敷の普請をするのに、伊賀組同心たちをまるで下僕のように扱い、労力ばかりか材料まで提供させました。従わない者には、給料に当たる糧米<かてまい>を減らしたり、払わなかったりしたのです。
もともと同心たちは徳川家に召し抱えられたのであって、服部家の私的な家来ではありません。当然、彼らは反発しました。正就と折衝することも試みましたが、一向に埒<らち>があきません。正就は話を聞くどころか、反抗する者には私刑をもって臨むといった有様でした。

慶長10(1605)年秋、彼らの怒りがついに爆発します。弓・鉄砲を揃え、200人が四谷の笹寺(ささ寺)に立て籠りました。ストライキを敢行したのです。

彼らの要求は、正就の罷免と与力への昇格、それに扶持米のアップでした。もし訴えが容れられなければ、斬り死にする覚悟だったといいます。
もちろん、彼らの要求がたやすく通るわけがありません。幕府は旗本に命じて笹寺を包囲させました。ところが、そこはさすが忍者です。寺を抜け出しては食料を調達するために市中を荒らし回ったので、江戸の治安は大いに乱れました。

ようやく幕府は重い腰を上げ、事実調査に乗り出します。その結果、伊賀組同心の言う通りであることがわかりました。そこで正就を罷免し、同心たちを大久保忠直ら4人の旗本に分けて所管させました。


一方的に処罰されて、憤懣やる方ないのは正就です。彼は首謀者10人の処刑を要求しました。
確かに徒党を組むことは幕府の規則に違反しますし、市中を荒し回った盗賊まがいの行為は許されることではありません。8人はあえなく打首となりましたが、2人が逃亡してしまいます。
執念深い正就は彼らを探し回り、そのうちの1人らしき人物を見かけて後を追い、斬り殺してしまいました。

ところが・・・、なんとこれが、人違いだったのです。
しかも悪いことに、正就が斬ったのは、関東代官頭を務め、徳川幕府による地方支配の基礎を築いた功労者伊奈忠次<いなただつぐ>の家士でした!

ことここに至って、ついに服部家は分家だけを残して改易となってしまいました。


同心たちが立て籠った笹寺は、正しくは四谷山長善寺(東京都新宿区四谷4-4)といいます。
笹寺という呼び名は、2代将軍徳川秀忠が鷹狩の途中に立ち寄った時、境内に笹が繁っているのを見てつけたのだそうで、こちらの方が正式名称よりも浸透しています。

地下鉄丸ノ内線の四谷三丁目駅を出て、甲州街道を4丁目方向に進むと間もなく、左手に寺への入り口を示す門柱がありますが、そこにも「曹洞宗四谷山 笹寺」と彫られています。


甲州街道から笹寺への入り口に立つ門柱(上)と、手前に笹の繁る本堂(下)


甲州街道と言えば、その起点は4月29日の日記でも触れたように半蔵門です。
そこから麹町を抜け、今のJR四ツ谷駅あたりにあった四谷御門を通り、新宿追分で青梅街道と分かれて甲府方面へと伸びています。


ちなみに、甲州街道と笹寺をめぐって、ちょっとしたミステリーがあるのです。

実は、四谷御門から新宿追分にかけての地域には、かつて地下に縦横無尽に坑道が掘られていました。
ビルの建設工事の際などに発見された、それらのいくつかを調査した時代考証家の名和弓雄氏によれば、坑道群が向かう先をたどっていくと、笹寺に行き着くというのです。
もしそれが本当ならば、伊賀組同心たちが自在に寺を抜け出すことができたのも、それらの抜け穴を利用していたのだと考えれば納得がいきます。
甲州街道はいざという時の将軍の江戸脱出ルートでした。それに面した笹寺が、非常の際に将軍護衛の任を負った忍者たちが集結する秘密拠点であったとしても、なんの不思議もありません。この寺は、彼らが立て籠る場所として、選ばれるべくして選ばれたのです。


正就は、妻の父である松平定勝にお預けの身となりました。そして元和元(1615)年、大坂夏の陣が起こります。正就は手柄を立てて汚名をすすぐべく、家康の6男松平忠輝の陣に加わりました。そして天王寺口の戦いで討死したのですが、その亡骸は行方不明となってしまいました。

当時、遺体が見つからない者はお家断絶となるしきたりだったので、名誉の戦死とは認められず、正就の文字通り命を賭けた服部家再興の願いは、結局叶いませんでした。
戦場から遺体を持ち去ったのは、正就に恨みを抱くかつての部下、伊賀組同心だったとも言われます。


その後、服部家はいったいどうなったのでしょうか?

詳細は省きますが、旗本の地位を失った服部家に救いの手を差し伸べたのは、松平定勝の一族でした。
正就が無念の最期を遂げた後、彼の息子たちを家臣にして面倒を見続けたのです。
正就から半蔵の名を継いだ弟の正重<まさしげ>も、幕府転覆を企てたとされる大久保長安の娘を妻にしていたことがもとでやはり改易となりますが、紆余曲折の末、桑名藩を襲封した定勝の3男定綱に召し抱えられ、最後は家老にまで昇進しています。

兄弟そろって改易になるという悲運に見舞われながら、こうして服部家が辛うじて血脈を保つことができたのは、身命を削って東照大権現のために働いた、服部半蔵正成の遺徳のなせる業だったのかもしれません。




【参考文献】
日本放送協会編『NHK歴史への招待14 実像・宮本武蔵』日本放送出版協会、1989年
NHK歴史発見取材班編『NHK歴史発見 11』角川書店、1994年
別冊宝島 シリーズ「歴史の新発見」『徳川将軍家の謎』宝島社、1994年
戸部新十郎著『忍者と忍術』毎日新聞社、1996年
別冊歴史読本34『戦国風雲 忍びの里』新人物往来社、1999年
清水昇著『戦国忍者列伝 80人の履歴書』河出書房新社、2008年
清水昇著『江戸の隠密・御庭番』河出書房新社、2009年

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