千葉周作が創始した北辰一刀流の道場「玄武館」の跡地(東京都千代田区神田東松下町)へ行くには、都営新宿線岩本町駅のA1出口から靖国通りに出ます。それから首都高速方面に進むとすぐ右手に交番があるので、その前を高速を背に、右側にV状字にまわりこみ、一方通行の道を行くと、左手に廃校となった千桜小学校の校門があり、その中に玄武館跡の碑が立っています。その間、約1分。
見学者のために、右脇の小門は自分で閂<かんぬき>を外し、中に入ることができるようになっています。
岩本町駅A1出口前の、玄武館跡への案内図
玄武館は斎藤弥九郎の神道無念流「練兵館」、桃井春蔵<もものいしゅんぞう>の鏡新明智流<きょうしんめいちりゅう>「士学館」と並ぶ、幕末の江戸三大道場の1つに数えられています。「技は千葉、力は斎藤、位は桃井」といわれました(後世の講釈師による創作だとも)。
道場は最初、日本橋品川町にありましたが、教え方が柔軟でわかりやすい上に、幾段階も経る必要があった免許皆伝に至るまでの過程を簡略化するなど、優れた道場経営でたちまち人気を博し、門人が急増して手狭となったため、文政8(1825)年に神田お玉が池の儒者東條一堂の瑶池塾<ようちじゅく>に隣接する旗本屋敷の跡を買い取って移転しました。さらに一堂の没後は塾のあった土地も買収して道場を拡張し、その規模は江戸町道場随一といわれました。門弟の人数もたいへんなもので、嘉永4(1851)年、浅草観音に奉納した献額には、一族一門3,600人が名を連ねたといいます。

廃校となった千桜小学校の門内に立つ玄武館・瑶池塾跡の碑
周作には定吉<さだきち>という弟がいました。兄とともに玄武館の経営に当たっていましたが、独立して自分の道場を構えます。玄武館の「大千葉」に対し、こちらは「小千葉」と呼ばれました。
嘉永6年と安政3(1856)年の2度にわたって土佐から江戸に上り、合計3年以上もの剣術修行をした坂本龍馬も、小千葉道場で学びました。もっとも定吉が鳥取藩の剣術師範に就任していて不在だったため、龍馬が直接指導を受けたのは、長男の重太郎でした。龍馬と恋仲だったという佐那<さな>は、その妹です。
龍馬はまた、本家玄武館の方にも出入りしていたようです。それは、当時の玄武館の稽古人名簿に彼の名が記されていることから確かです。
龍馬が玄武館ではなく小千葉道場に入門した理由は、京橋桶町(中央区八重洲2丁目・京橋1~2丁目内)にあった小千葉道場が、鍛冶橋門(千代田区丸の内1丁目の東京駅八重洲口付近)内の土佐藩上屋敷に近く通い安かったからだとか、玄武館に入るには実力不足で門前払いされたという説があります。
龍馬はそれが悔しかったのか熱心に稽古に励み、その甲斐あって塾頭を任され、「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられるまでに上達しました。
龍馬が住んでいたのは土佐藩上屋敷ではなく、中屋敷(中央区築地1~2丁目内)だという説があります。また、定吉の道場は何度か移転しており、龍馬が通っていた当時は新材木町(中央区日本橋堀留町内)や、鍛冶橋から程近い加納新道沿いだった可能性があります。しかしどちらにしろ龍馬の住まいからは玄武館よりも小千葉道場の方が近く、ものを合理的に考える彼のこと、名声よりも利便性を選んだのかもしれません。
明治を迎えた時、小千葉道場があったのは桶町でした。今でも「桶町千葉道場」といった方が、通りがよいでしょう。ちなみに、龍馬が通ったかもしれない桶町以前の小千葉道場があった辺りに、平成22(2010)年、千葉定吉道場跡の標示板が立てられたそうです。
次回はそこを訪れつつ、剣術修行時代の龍馬について、もう少し見ていきたいと思います。
【参考文献】
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』角川書店、1978年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
木村幸比古監修『坂本龍馬』主婦の友社、2009年
木村幸比古監修『図説地図とあらすじで読み解く!坂本龍馬の足跡』青春出版社、2009年
伊東成郎著『江戸・幕末を切絵図で歩く』PHP研究所、2010年
見学者のために、右脇の小門は自分で閂<かんぬき>を外し、中に入ることができるようになっています。

玄武館は斎藤弥九郎の神道無念流「練兵館」、桃井春蔵<もものいしゅんぞう>の鏡新明智流<きょうしんめいちりゅう>「士学館」と並ぶ、幕末の江戸三大道場の1つに数えられています。「技は千葉、力は斎藤、位は桃井」といわれました(後世の講釈師による創作だとも)。
道場は最初、日本橋品川町にありましたが、教え方が柔軟でわかりやすい上に、幾段階も経る必要があった免許皆伝に至るまでの過程を簡略化するなど、優れた道場経営でたちまち人気を博し、門人が急増して手狭となったため、文政8(1825)年に神田お玉が池の儒者東條一堂の瑶池塾<ようちじゅく>に隣接する旗本屋敷の跡を買い取って移転しました。さらに一堂の没後は塾のあった土地も買収して道場を拡張し、その規模は江戸町道場随一といわれました。門弟の人数もたいへんなもので、嘉永4(1851)年、浅草観音に奉納した献額には、一族一門3,600人が名を連ねたといいます。

廃校となった千桜小学校の門内に立つ玄武館・瑶池塾跡の碑
周作には定吉<さだきち>という弟がいました。兄とともに玄武館の経営に当たっていましたが、独立して自分の道場を構えます。玄武館の「大千葉」に対し、こちらは「小千葉」と呼ばれました。
嘉永6年と安政3(1856)年の2度にわたって土佐から江戸に上り、合計3年以上もの剣術修行をした坂本龍馬も、小千葉道場で学びました。もっとも定吉が鳥取藩の剣術師範に就任していて不在だったため、龍馬が直接指導を受けたのは、長男の重太郎でした。龍馬と恋仲だったという佐那<さな>は、その妹です。
龍馬はまた、本家玄武館の方にも出入りしていたようです。それは、当時の玄武館の稽古人名簿に彼の名が記されていることから確かです。
龍馬が玄武館ではなく小千葉道場に入門した理由は、京橋桶町(中央区八重洲2丁目・京橋1~2丁目内)にあった小千葉道場が、鍛冶橋門(千代田区丸の内1丁目の東京駅八重洲口付近)内の土佐藩上屋敷に近く通い安かったからだとか、玄武館に入るには実力不足で門前払いされたという説があります。
龍馬はそれが悔しかったのか熱心に稽古に励み、その甲斐あって塾頭を任され、「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられるまでに上達しました。
龍馬が住んでいたのは土佐藩上屋敷ではなく、中屋敷(中央区築地1~2丁目内)だという説があります。また、定吉の道場は何度か移転しており、龍馬が通っていた当時は新材木町(中央区日本橋堀留町内)や、鍛冶橋から程近い加納新道沿いだった可能性があります。しかしどちらにしろ龍馬の住まいからは玄武館よりも小千葉道場の方が近く、ものを合理的に考える彼のこと、名声よりも利便性を選んだのかもしれません。
明治を迎えた時、小千葉道場があったのは桶町でした。今でも「桶町千葉道場」といった方が、通りがよいでしょう。ちなみに、龍馬が通ったかもしれない桶町以前の小千葉道場があった辺りに、平成22(2010)年、千葉定吉道場跡の標示板が立てられたそうです。
次回はそこを訪れつつ、剣術修行時代の龍馬について、もう少し見ていきたいと思います。
【参考文献】
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』角川書店、1978年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
木村幸比古監修『坂本龍馬』主婦の友社、2009年
木村幸比古監修『図説地図とあらすじで読み解く!坂本龍馬の足跡』青春出版社、2009年
伊東成郎著『江戸・幕末を切絵図で歩く』PHP研究所、2010年
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