ひろむしの知りたがり日記

好奇心の赴くまま
なんでも見たい!
知りたい!
考えたい!

壮絶!不屈の剣士 伊庭八郎 ─ 浄土宗貞源寺

2012年12月16日 | 日記
これまで日記に何度も登場してきた江戸三大道場に、心形刀流<しんぎょうとうりゅう>練武館を加えて江戸四大道場と称します。天保14(1843)年(翌弘化元年説もあります)、心形刀流8代伊庭軍兵衛秀業<ぐんべえひでなり>の子として下谷御徒町<おかちまち>で生まれたのが、幕末ファンの間では土方歳三と並んで人気が高い伊庭八郎秀穎<ひでさと>です。眉目秀麗、色白で、背は5尺2寸(約158センチ)と小柄でしたが美貌の剣士として知られ、「伊庭の小天狗<こてんぐ>」と呼ばれました。剣だけではなく、漢学や蘭学など、学問の素養もありました。
スポーツ選手で勉強ができて、しかも美男ときているのですから、学校にこんなヤツ(おっと失礼!)がいたらモテないわけがありません。唯一の欠点といえば背が低いことくらいですが、なにか一つくらい弱みがあったほうが、女性は母性本能をくすぐられるのかもしれません。


心形刀流宗家伊庭一族の墓がある貞源寺本堂

安政5(1858)年8月13日、15歳の時に父がコレラのため49歳で病没してしまいますが、若年だったので9代目は父の門弟が継いで、軍兵衛秀俊<ひでとし>と名乗りました。八郎は10代目を継ぐことになっていましたが、幕末維新の動乱が、そんな彼の平穏な人生設計を狂わせることになります。
安政3年、幕臣に武術を指導する講武所が創設されると教授方を務め、元治元(1864)年からは将軍の親衛隊である奥詰<おくづめ>に任命されました。慶応2(1866)年に奥詰と講武所詰の者が遊撃隊として編成されると、そのまま遊撃隊士となります。

慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗れ、八郎も江戸に帰りますが、同年4月、遊撃隊の一部を率いて海路、上総国木更津に上陸、請西<じょうざい>藩主林忠崇<ただたか>を説いて、ともに館山から出帆して対岸の相模国真鶴<まなずる>に上陸します。転戦を重ねて沼津に至り、一時は小田原藩兵から箱根の関所を奪い取りました。しかし、やがて江戸に向かう新政府軍とも激突し、5月に湯本三枚橋で重傷を負います。左手首を皮一枚残して斬られながら、右腕一本で獅子奮迅の働きをしましたが、善戦むなしく敗退を余儀なくされました。戦闘後には、左手の肘から下を麻酔なしで切断するという手術を受けましたが、うめき声一つあげなかったそうです。

再び江戸に戻った八郎は彰義隊に入りますが、その滅亡後、陸奥国に渡って奥羽同盟に加わりました。仙台藩の恭順後、8月に榎本武揚<えのもとたけあき>率いる幕府艦隊が出航することを知り、同行を決意します。ところが、八郎の乗艦は銚子<ちょうし>沖で座礁してしまい、彼は横浜に身を隠しました。
それだけの目にあっても、八郎の闘志はまだ消えませんでした。その年の11月、彼は英国船に乗り込んで箱館へ、28日に上陸を果たし、蝦夷共和国に参加しました。この時の路銀を用立てたのが、吉原で馴染みの花魁<おいらん>だったそうですから、こんな悲壮な場面でも艶めいた話が飛び出すあたり、「さすが伊庭さん!」と感心してしまいます。

翌年4月、新政府軍の進攻が開始されました。八郎は不自由な体でよく戦いましたが、木古内<きこない>において大砲の至近弾に跳ね飛ばされ、またもや重傷を負ってしまいます。五稜郭<ごりょうかく>内の病院に運ばれましたがもはや回復不能で、5月12日、見かねた榎本が勧めるモルヒネを飲んで、眠るように息を引き取ったといいます。八郎の死因については自殺ではなく、榎本軍に従軍していた医師の高松凌雲<りょううん>による治療のかいもなく、傷の癒えぬままついに力尽きて絶命したのだとの説もあります。激戦による混乱の中、渦中の人々の記憶や記録が曖昧だったのかもしれません。


心形刀流宗家、初代から10代までの墓が並ぶ伊庭一族の墓

伊庭八郎の墓は、東京の貞源寺<ていげんじ>(中野区沼袋2-19-18)にあります。墓地の入り口左手に、心形刀流宗家である伊庭家の墓10基が、横一列に整然と並んでいます。もとは墓地中にあったものを、平成19(2007)年の境内墓地整備に当たって現在位置に移設されました。左端が、初代伊庭是水軒<ぜすいけん>、右端が最後の10代伊庭想太郎<そうたろう>の墓碑です。想太郎は八郎の弟ですが、剣客としてよりも明治34(1901)年に東京市会議長の星亨<ほしとおる>を刺殺した人物としての方が有名かもしれません。
想太郎の左隣が八郎のものです。同じ墓碑に父秀業の後妻、つまり母の法名や没年と並んで、「秀業次男 秀俊養子」とある下に八郎の俗名、その横に法名の「秀穎院清誉是一居士」が刻まれています。八郎の命日には16日など他説もあって、これまた定かではありませんが、墓碑には「明治五年巳巳 五月十二日」とあります。天保14年誕生説に従えば、享年27でした。

勇猛さばかりでなく、風流を解する心もあわせ持っていた八郎は、折りに触れてよく句を詠んでいますが、「まてよ君迷途も友と思ひしにしばしをくるる身こそつらけれ」という辞世の句を遺しています。


左写真の左側から伊庭八郎・想太郎兄弟の墓。右写真の左側が伊庭八郎の墓碑銘


【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第1巻、吉川弘文館、1979年
戸部新十郎著『日本剣豪譚 幕末編』光文社、1993年
笹間良彦著『日本武道辞典《普及版》』柏書房、2003年
菊地明著『幕末百人一首』学習研究社、2007年
山内昌之著『幕末維新に学ぶ現在』中央公論新社、2010年

最新の画像もっと見る

コメントを投稿