「長篠の戦い」改め、「設楽原の戦い」

2023-06-12 20:06:02 | 紹介
先週は、大河ドラマでは天正3年(1575)に起こった長篠城の攻防戦から「設楽原の戦い」が描かれました。
一般には「長篠の戦い」、あるいは「あるみ原の戦い」とも呼ばれる一戦は、
織田・徳川連合軍が大勝し、武田軍が大敗を喫する悲劇的な敗戦となりました。
戦闘に至る経緯や合戦の状況には不明なことも多いのですが、結果を整理すると、
戦法や開戦理由はさておき、次のようになるかと。

・織田・徳川連合軍が柵を築いた防御陣地を構えて武田軍を迎撃する態勢を整えた。
・領国各地から鉄砲を集めて動員し、約1,000丁以上の数を揃えて待ち構えた。
・武田軍は長篠城包囲を解いて、設楽原に布陣した連合軍と対峙した。
・約半日の戦闘で武田方の譜代重臣や侍大将級の武将らが数多く戦死した。

この戦いの結果、武田軍は数だけではなく、軍を統率する指揮官を数多く失ったことは大きな損失でした。
信玄公が育てた有能な家臣団の中でも山県・馬場・内藤ら武田軍を支え、
領域の軍事指揮権を任されてきた重臣層が討死したことで、武田氏の勢力は
大きく後退することになりました。
この一戦後に徳川軍の攻勢が始まり、これまでに獲得した遠江や奥三河の拠点を次々と失いました。
勝頼公は失意の中、巻き返しを図るために人事の刷新や外交交渉を精力的に行いました。
そして、天正4年には恵林寺で信玄公の葬儀を執り行い、新たな出発を決意したものと思います。

そして、6月14日(水)からの後期展では、葬儀の後に勝頼公が高野山成慶院様に納めた
信玄公の遺品のうち、2点を展示します。
米沢武田家に出された古文書でも内容が確認できる品です。
史料では一つは金鈴、もう一つは弁財天とありまして、由緒書きがある品です。
高野山成慶院様のご厚意と、高野山霊宝館様のご尽力により、先週高野山から
約450年ぶりの甲斐国の躑躅が崎の地へ里帰りいたしました。
遺品を乗せた美術輸送専門車両が武田氏館跡内に入りまして、帰還を報告いたしました。
約450年前には、館の主郭内にあった本主殿に置かれていたものかもしれません。


ちなみに長篠の戦いに先立って、天正3年(1575)3月6日に、武田家の山県昌景が
高野山を訪れ、信玄公の位牌を納めたことが「武田家御日牌帳」に記されています。
山県は、この後甲斐に帰国してすぐに三河へ出兵し、長篠の戦いで戦死しました。
三河侵攻前の大事な時期に、全軍の副官級の重臣が領国を離れて、
高野山まで参詣したことにはどのような意味があったのでしょうか。
これは結果論で、大変勝手な推測ですが、山県昌景は出兵に先立って自分を抜擢し、
重用してくれた信玄公の冥福を祈る意味と、自らの死を覚悟した高野山参詣だった、
のかもしれませんね。
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