前回に引き続き、守随秤(しゅずいばかり)・守随錘(しゅずいおもり)のご紹介をしていきます!
守随秤のはじまり
黒川金山や湯之奥金山など、甲斐国内には戦国時代から使われてきた金山が多くあり、武田氏もこれを積極的に利用していきました。ですが、取り扱う重さの基準がバラバラだったことから、武田氏は金の生産と管理のために、特定
の職人のみにはかりを作らせ、重さの基準を統一しようとしました。
その中で、吉川守随(よしかわしゅずい)は、秤の製作を特別に許されたはかり職人の一人です。
▲現代の電子ばかり
はかりは、ものの重さをはかる道具のこと。
この道具に基準がなく、それぞれで勝手に決めた重さでものが流通していたら、金の重さもそのはかりごとに違ったものになってしまうので管理が大変ですよね。
基準の統一された精度の高いはかりが、甲斐国内でとれる金を正しく利用していくには必要不可欠でした。
こちらが武田氏の城下町から出土した、銅製の分銅です。(平成4年の武田氏館跡第34次調査でみつかったものです)
丸いフォルムがかわいらしい!!
▲銅製の分銅(戦国時代)
※これは守随家が製作したおもりかどうかは、はっきりとはわかりません。
ただ、このようなおもりは「さおばかり」と呼ばれるタイプのはかりで使われていたと思われます。
武田氏以降の守随秤
精度の高い技術を持っていた守随家は武田氏滅亡後、徳川家康により取り立てられます。
吉川守随から続く守随家は「秤座(はかりざ)」として特権を与えられ、守随秤は江戸幕府から東国33か国の共通の秤とされました。
秤の製造や販売、さらには修理までを任された、江戸幕府を支えた大事な役職です。
こちらは江戸時代の守随秤の分銅です。
さきほどのおもりと違って、きっちりと綺麗な六面が作り出されています。
江戸時代の技術の高さにびっくり!
▲守随錘(江戸時代)
以上が守随錘と守随秤のご紹介でした。
以上が守随錘と守随秤のご紹介でした。
江戸時代の守随錘の方には刻印もありますので、ぜひ間近で見に来てくださいね!
ようやく開館が再開できた特別展示室!
スタッフ一同お待ちしております!
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