4月12日は武田信玄の命日です。

2020-04-12 13:30:20 | イベント
武田信玄は
元亀4年(1573年)4月12日
信濃国駒場
現在の長野県下伊那郡阿智村で
病によって亡くなったと伝えられています。
享年53歳。

「大底還他肌骨好 不塗紅粉自風流」
(大底は他の肌骨の好きに還す。紅粉を塗らずして自ら風流。)
「甲陽軍鑑」品第39「信玄公逝去 付御遺言之事」

「わが不朽の生命は
若々しくすこやかな人々の肉体に伝えよう。
それは少しも飾ることなく、
自ら華やかにうるわしいのだから。」
(「甲陽軍鑑」、吉田豊編・訳、徳間書店より)

これは、
信玄が自らの臨終を前に遺した言葉と伝えられています。
「全てを残された人々に託そう」
という境地でしょうか。

死期を悟った信玄は
家臣などを集めて
「3年間は自分の死を隠して、
領国の安全を保つこと」
などの遺言を残したといわれています。
四男の勝頼はこれに従い、
信玄の死を隠しますが、
織田信長や徳川家康、
そして上杉謙信にも
信玄が亡くなったことは
早々に伝わっていたようです。
信玄のライバルである謙信は
その死を悲しんだとも。

3年後の天正4年(1576年)、
信玄の菩提寺である恵林寺で
住職の快川紹喜によって
盛大な葬儀が執り行われます。
ちなみに、快川紹喜の遺した言葉
「安禅必ずしも山川を須(もち)いず
心頭滅却すれば火も自ら涼し」も
有名ですね。

信玄ミュージアムの近くには
信玄公墓があります。
信玄の遺体を火葬した場所と伝えられ、
火葬塚とも呼ばれます。



信玄の墓は
この他に、
山梨県内では大泉寺と恵林寺
長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺
和歌山県高野山
愛知県福田寺
京都の妙心寺など全国に!

これは
信玄が遺言によって
喪を3年秘めていたことや
万一の外敵を恐れて
埋葬地を秘密にしていたため。

毎年、
信玄の命日には
武田神社の例大祭と併せて
武田二十四将騎馬行列が
武田神社を出発し
市内一円をパレードします。

昨年は、
オープンしたばかりの信玄ミュージアムの前を
騎馬行列が通り、大変なにぎわいでした。
しかし、
今年は新型コロナウイルスの影響で
騎馬行列はやむなく中止。
今年は、
例年にない
静かな静かな命日となりました。

1日も早い新型コロナウイルスの終息を
祈るばかりです。
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桜と言えば...西行

2020-04-12 09:23:42 | 紹介
桜と言えば、この歌が思い浮かぶ
そんな方もいらっしゃるようで・・・

「願わくは 花の下で 春死なむ
そのきさらぎの 望月のころ」


この歌は
歌人として名高い西行法師によるもの。
「花」は桜のことのようです。

西行は
1118年に生まれ
1190年2月16日(現在の3月31日)に
亡くなったとされています。

命日を見ると、
この歌通りに亡くなった・・・のでしょうか。
自分の死にざまを予測するかのように。
不思議ですね。

出家前は佐藤義清(のりきよ)と名乗り、
北面の武士として、
時の上皇の警護にあたっていました。

「義清」といえば、
武田氏では武田義清(よしきよ)です。
甲斐源氏の先祖とされる
新羅三郎義光の三男。
当時の常陸国那賀郡武田郷
(現在のひたちなか市武田)を治め、
武田義清を名乗りました。

その後、
義清とその息子の清光は
武田郷を追われて常陸国を離れ、
甲斐国市河荘
現在の甲府盆地底部あたり
に移り住みます。
着々と勢力を拡大し
甲斐源氏の始祖に。

この武田義清の
17代後にあたるのが武田信玄
戦国最強と言われ
武田の名は全国に知られるようになりました。

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