元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

インドネシア野球、アジア途上国の野球、国際大会、日本のアマチュア野球、プロ野球情報、日大三高時代の面白エピソードを発信

外国人監督・・・としての覚悟

2011年10月31日 13時48分56秒 | 66番の思想


「インドネシア代表ナショナルチームの監督」という、1つの国を代表する組織を統括させてもらってきた中で、体験し、学ばせてもらったことを、何項目かに分けて、述べてみたいと思います。個人的思想が強いかもしれませんが、その点はノークレームということでお許し下さい(笑)

野球という形体で述べますが、これらは野球という競技の枠を超え・・・
今後、海外に進出しようとしている企業や駐在の方々、また、既に駐在などで海外で在住という立場にいるビジネスマンの方々への「1つの教訓」となる要素を多分に含んでおります。

・・・ご自身の状況に当て嵌めて頂き、何かの役に立ってもらえれば幸いです。

外国人監督の重圧は、日本のプロ野球の監督とまでは言いませんが、「結構~」それなりに大きなものです。国家の1組織、ましてや、その国の「国旗を背負う」という意義は確かに感無量なのものですが、その反面、その「責任」については相当なる覚悟を含んでいます。

簡単な例で言うと、諸外国に出て行き「公の場」で、その国の国歌を歌う様な立場にある人間は、一般には、「大統領や首相」などの国を象徴する人物と、他には、各競技におけるナショナルチームといった国を代表する組織以外には存在しないものです。

国旗を衣服に入れ印たり国旗を掲げてことを邁進するようなことも特別な意味を持ちます


その国を代表し、その国の期待を背負い、その国の名と名誉を背負っているのであり、まして、その組織を統括する監督と呼ばれる役職であれば良いにつけ悪いにつけ、ことごとく全ての眼が集中します。このように、国際大会に臨む以前の就任の段階から相当な重圧が圧し掛かって来ます。

最初に覚悟をしなければならない大きな要因は経済面や精神面などであり、これらは非常に苦しいものなります。監督への就任の話があった段階で、この状況を把握し、全て飲み込まなくてはいけません。

既に野球が発展している先進国のように、全てに予算が組み込まれているのでは無いのです。まず、自己の経済状況を整えなければ生活の維持が出来ないと言う問題にも直面してきます。要するに、野球後進国においては野球では生計が成り立たないということです。
強化練習が開始され終了するまでの期間しか給与は支給されず、持続して野球漬けの生活を送る為には、ある程度の蓄え、または、本業と呼ばれるような仕事からの収入が無ければ代表監督と言う職業の遂行は困難なのです。

インドネシアを例にとって言えば・・・
国際大会に参戦すべく招集がかかり強化練習が開始されて始めて代表監督としての給与が発生します。しかし、国際大会が終了すれば代表チームは即解散となり、この解散と同時に給与の発生も無いのです。当然の事として次の国際大会参戦の招聘までは本業となる自分の仕事で生計を立てて行かなくてはなりません。
既に、お分かりの様に、本業においても代表監督の任務を遂行していり期間は、100%本業に打ち込むことはままなりません。国際大会のスケジュールの合間を縫っての本業(?)という解釈になり、業種によっては本業を持続することが不可能になってしまう恐れも出てきます。

また、代表チームの解散中においてはインドネシア国内での各会議や日本へ渡航して各スポンサーとの会議などについては当然のごとく、全てが自己負担になり、この部分についても覚悟しなくてはなりません。

すなわち、おうおうにして代表監督を続ければ続ける程、そこには自己資金を費やす結果が待っているケースが多いということです(笑)。

加えて、野球に対して、よほどの情熱が漲っているような人材、もしくは野球という競技を介して人生における自身の目的や目標を遂行する環境や立場、心情にある人材でなければ務まらないでしょう。一番、最悪なケースは、日本(外国)で携ってきた「野球」に関する全て(環境、待遇、選手の質・・・など全てを含む)と、実際に現地に入って体験する「後進国の野球」とのギャップに嫌気を起こしたり、「日本の野球」を全面に押し出して選手を矯正へ至ったり、更には「日本の野球が1番良い」と頭ごなしに現地の全てを見下す人材です。

これは本末転倒も良いところですが・・・居るんですよ。この手の人材が(嘆)

野球先進国(日本)のどこかで監督をして来た人材は、現地の環境に自分を合わせられるかを自身に問いた方が良いです・・・ここが最初の1歩ですね

一概にして、何から何まで段取りや支度を選手やマネージャーなどがしてくれて来た指導者は・・・{今さら、そんな事までするのかぁ~~?}
などという気持ちを持っているものです。
しかし、メインの現地から物申すとすれば・・・
{殿様や王様じゃぁあるまいし・・・}
となるのです。



当然
野球後進国の野球を向上させるために野球先進国から外国人監督を招聘する訳です。
その全てが「結果
{良くなってきましたねぇ~}は見てくれないんです。話しにも出ません。

そうです・・・ズバリ
国際大会での順位、すなわち「金メダル」を獲るのみ

何年計画・・・?(大笑)
通常、そんなものは100%ありません””

付け加えて「何年」なんて言葉もありえません
・・・6ヶ月?・・・3ヶ月?・・・1ヶ月?での勝負です。

1回の国際大会での金メダル奪取が全てなのです。
その1回で「有能な監督」か「無能な監督」にハッキリと分類されてしまいます。
「無能」と判断された場合には、今後一切、国内のどこからも相手にされません。

要するに、本当の「野球馬鹿」と呼ばれる様な人材でしか野球後進国での外国人監督という任務は全う出来ないと断言します。

最初に断っておきますが、いわゆる「日本からの出稼ぎ監督」のような立場の人材は土俵に上げて考えていません。後々の項で説明しますが「責任や摩擦」の部分において問題が多すぎて、最初の1歩の段階で無理だからです。


外国人監督は生半可な「覚悟」じゃ務まらない
その国の国歌で泣けなくては外国人監督は失格です


外国人監督の宿命に続く)
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祝! 和田豊 第32代 阪神タイガース監督就任

2011年10月29日 13時46分13秒 | 興味のある高校・大学・プロ野球

いやぁぁぁ~ 吉報です。
阪神タイガース 和田新監督の誕生ですね!

現役末期の新横浜プリンスホテルのラウンジで{一度、阪神を出て客観的にタイガースを見つめてみようかと・・・}などと、言っていたのを、今、思い出しながらブログを書いています。諸々の苦労と葛藤を乗り越えて、今回の監督就任に至ったのでしょう。
和田も辛抱したかいがありました。実に素晴らしいです。



実は、和田は日大野球部の1学年後輩になるんです。
実際には、和田が入学して来たと同時期からに3年の秋の復帰まで、自分は長~~い休部生活に入りってしまったので(大笑)東都リーグの試合では一緒プレーはしていないんですが・・・当時の大野球部のしきたりとして卒業時の納会で同郷または近郷出身の後輩を引き連れて飲み歩き、最後にお気に入りの後輩を残す風習があります。自分が大学4年の納会時には、関東出身の後輩達を連れて2次会、3次会と回りって、計画的に「一人」また「一人」と、酔い潰し、最後に残したのは、我孫子高校出身の和田と日大三高出身の後輩の2人でした。そして、それぞれにお小遣いを渡して{好きな所に行ってこいや」てな具合で納会は無事に終了・・・その後、和田がどこに行ったかは知りません(笑)


↑日大野球部時代の和田と野中総監督/写真手前が和田、一番奥でタバコを吸っているのが野中総監督です
↓同じく日大野球部時代の和田と野中総監督 


また、今だから言っちゃいますが、和田が日大1年の時は、ほとんど合宿所の当番をしていた記憶しかなく、練習は半分くらいしかしてなかったような・・・と思えば、松田聖子さんのコンサートには気合を入れて出向いていた和田です(大笑)。まぁ、松田聖子さんのコンサートには高校時代にも練習をシカトして出向いて監督さんに怒られたようなエピソードも聞いていますが・・・(笑)
しかし、これらは、単に笑って聞き逃してしまいがちな話では無く、和田の大らかさと、肝っ玉の大きさ、そして、その中に潜む思うべきことに対しての意志の強さを象徴しています。

また、肝心の野球に関してですが、当時から野球センスはバ抜けており(既に我孫子高校時代から、そのセンスは突起していましたが・・・)もろにビカビカと光っていました。大学2年時にはショートのレギュラーを獲得していましたからねぇ~
同時に、ドラフトで阪神か巨人の指名を受けることも噂に出ていましたしね。その後入団した阪神タイガースでも1年目から1軍で活躍し、職人的な打撃技術を屈指した和田です。

横浜球場で試合がある時の阪神タイガースは新横浜プリンスホテルが常用宿舎になっており、試合後に最上階のラウンジで和田と雑談をし・・・
{先輩“”まだ、夕飯食ってないんですよぉ、注文して良いですかぁ?}
・・・てな感じでした。

ー新横浜プリンスホテルのラウンジにて、和田の定番メニューはピラフ、から揚げ、ビール2杯ですー

インドネシア代表ナショナルチームの2007年の日本遠征(天理大キャンプ)では
{無事日本に、そして天理に着かれましたでしょうか?ご苦労さまです。
私はというか、阪神タイガースは今宮崎に来ています。13日から始まるCS(クライマックスシリーズ)に向け、実践を積んでおります。一年の集大成の時期でなかなかお会いするチャンスがないと思いますが、いただいたスケジュール表と相談しましてもしチャンスがありましたら顔を出します。インドネシア代表の健闘をお祈りいたします。頑張って下さい}



また、2009年のアジアカップを制覇しアジア選手権大会出場の時には
{インドネシア代表ナショナルチームの向上、凄いですねぇ。頑張って下さい}
等、多くのメッセージを受けました。

野球に対する真面目さと謙虚さ、また、人間的な面でも非常に信頼の置ける和田です。
そして・・・


       「第32代 阪神タイガース 和田監督誕生

これはもう
・・・頭から、眼から、口から!火が出るほど嬉しいです。

{和田!やったな!おめでとう!

現役、コーチを合わせ、プロ野球生活27年、阪神タイガースを熟知している和田に対してアドバイスや忠告などありません。

ただ、インドネシア代表ナショナルチームの監督を経験させてもらった、一人の野球人として・・・
{遠慮は無用!可能な範疇で、やりたいことを思い切りやってください。
そこら一変の監督と同じことはしちゃ駄目だぞ!
こと、監督生命は短いものです””だから、絶対に悔を残さないで欲しい!}

頑張れ!和田阪神タイガース!

インドネシアより応援しています。

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日大三高野球の特徴とは・・・

2011年10月26日 17時49分28秒 | 日大三高校野球部 小球史


日大三高野球部は
近代野球理論の研究をスタートに
歴代監督の努力によって消化され理論と実践の一致を目指して来ました

無論
それは画一的なものではなく
それぞれ歴代の監督によって
築いては崩し
築いては壊し
試行錯誤しながら改革を試み
日大三高野球部は今日に至っています

日大三高野球倶楽部の出身者は
現在までに1100名余を数え多くの名選手を育てました

同時にプロ野球、社会人野球、高校野球、少年野球、海外野球にいたるまで多くの指導者を輩出しています

そしてプロ野球界で活躍する有名選手と
各界の指導者とでの輩出の比率を見ると
指導者輩出の方が際立って多いのが日大三高の大きな特徴と言えましょう

それは
藤田省三初代監督から受け継がれて来た「理論」の追求と研究が日大三高の源にあるからです

野球部在学中の2年半という歳月の中で
全ての歴代監督が「理論」を重んじ選手たちへのテストやレポート提出を行なってきたという背景から
「野球を知っている」訳です。この点から指導者になりやすいということが言えます

指導者になられた諸先輩方々は、口を揃えてこうおっしゃいます

{当時、監督さんから教えてもらった理論、戦術などの全てが指導の基本になっている}
{当時、教えてもらったことをそのまま行なっている(指導している)}
{当時、仕入れたものを、チョボチョボと小出しにしている(指導している)}
{高校時代に野球をしっかり勉強してきた選手があまりいない}

要は
現代に至っても通用する「野球全般の理論」を
日大三高野球部在学中に徹底的に叩き込まれているのです
従って指導者としての基本的要素を十分に備えているということになります

しかし
その半面
現在、プロ野球選手を多く
輩出している各有名高校と比べ
日大三高出身のプロ野球選手が少ない理由は

現役時代に徹底的な管理野球を施されたためだと言えましょう

選手の個性を徹底的に抑えてまでも管理する指導方法です
この指導方法によって野球そのものを嫌いにさせてしまう本末転倒さえも起こし易く
更には、個性を抑え付け、チーム全体の底上げを最前提に掲げた指導方法の後遺症として
先にも述べたように野球選手としての成長に最も大切な「感性」までも失わす危険性をも秘めているからです

従って日大三高の選手にはスタープレーヤーと呼ばれる選手が居ない(作らない)のです

まさしく「監督はより厳しく、選手はより忍耐強く」という
姿勢で野球に向かい合い勝つための絶対条件として管理野球が位置つけられていたためです

この背景には野球そのものがアマチュアリズムから浸透をし人間教育の一環として日本に根付いた
という部分も大きく影響していますが・・・

纏めると

野球選手として1番大切な通過点である高校時代に
野球選手としての成長を妨げてしまう様な指導方法が
その後のプロ野球界では選手としての大成を困難にしているのです
この理由から日大三高出身のプロ野球選手が少ないのです

以上が日大三高野球の特徴になります------------------

実際にインドネシア代表ナショナルチームの監督として選手指導にあたって感じることは
時代の流れの中で、その場、その時に発信される新しい言い回しや、表現方法などは色々ありますが
その根本・根底にある野球の理論体系は、今も昔も一緒であるということです

その中で細部についての「気づき」や「発見」などは
日大三高時代の教えの中に潜んでいた、当時は、その内容の全貌を理解するには不可能だったパーツに
過ぎない事項として出現してくる「気づき」と「発見」であると・・・

もし・・・
日大三高という高校で野球を体験していなかったら
おそらくインドネシア代表ナショナルチームの監督という名誉ある役職も無かったでしょう

今回
このような形で母校の球史をプログに書き込むことで
あらためて素晴らしい場所を通らせてもらったと思ます・・・

有難う御座いました

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締め括りとして
三高野球第5の注入は何・・・?

ズバリ!

〝木製バットでの全国制覇”

これを自分の予告とさせて頂きます

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16代目 小倉全由監督-超近代野球へ

2011年10月25日 18時34分44秒 | 日大三高校野球部 小球史
16代目 小倉全由監督
平成9年―現在に至る


日大三高歴代監督に受け継がれた
伝統を見事に開花させたのが現監督の小倉全由監督になります

甲子園での実力が証明するとおり
優勝2回、準優勝1回と、素晴らしい成績を示されています

平成13年夏優勝






平成22年センバツ準優勝






平成23年夏優勝






近藤一樹(現オリックス)
千葉秀喜(元横浜ベイスターズ)
都築克幸(元中日ドラゴンズ)
内田和也(元ヤクルトスワローズ)などの選手を輩出



また
平成22年(昨年)在籍で大学へ進学した有望選手
そして平成23年(今年)の選手で来年に大学進学をする有望選手など
今後プロ野球へ足を踏み入れる選手は多数に及ぶと予想されます

しかし
小倉全由監督は
単に日大三高野球の伝承だけで以上の成果を示したのではありません・・・

小倉全由監督によって進化した日大三高野球とは・・・いかに



伝統校の中で生まれた三高野球は
1972年のセンバツ大会準優勝までで1つの時代を終えていたと判断します

確かに
その2年後の1974年にもセンバツ大会に出場し2回戦まで進んでいますが
創設期から育まれた日大三高野球が次世代野球到来期との狭間の中でのミスマッチにも何とか順応したからで
当時の豊田先輩(明大―中日)の打撃力と今野先輩、平山先輩などの投手力による要因も大きく絡んでいたからと言えます

本来ならば
この時点で次世代野球へと変貌の道を進まなくてはならなかったのです

その後の歴代監督が「伝統野球の枠」を超えられない状況
また、逆に超えたくても伝統という璧によって次世代野球への扉を開けることができなかったのだと言うことです

その間に高校野球界は次世代野球へと形を変貌して行き
その代表的な高校は池田高校の打線重視の野球の出現や
PL学園などの自主性を重んじた近代指導法による野球が君臨をして行くのです

1974年から平成9年までの歴代監督の期間を見ても田口周監督までに構築された近代野球を用いています





要は
日大三高は早期時代に野球の理論全般を構築したのですが
時代と共に、他の高校も同じようにレベルUPをしてくる

先見を見据えるならば次に展開されるであろう次世代野球の要素を取り入れて
変貌しなければならないのですが、この作業が「伝統」という名があるゆえに
ままならなかったという現象が起きてしまったのです

気が付けば他高に先を越されてしまった・・・

その中においてもやはり名門・伝統という知恵と経験によって数度の甲子園出場を果たしていますが
どの代のチームを見ても決して甲子園で勝つ・優勝を狙うようなチーム力でありません

変貌を遂げていない・変貌へのプロセスにも至っていない野球では甲子園に出場するのが精一杯だったのです

丁度
自分たちの昭和54年度も
低迷期(あえてこの様な表現をしますが・・・)に差しかかっており下降線の中での甲子園出場です

その後の青木監督に至っても
数度の甲子園出場を齎しましたが甲子園出場までがアップアップの状態でしかなかったのです

そして
この超近代野球への変換にとって大きな要因となっているのが
1974年の金属バットの導入と完全なる管理野球からの脱皮です

日大三高にとって
この「第4工程」にあたる打撃の破壊力を重視した超近代野球と自主性を醸し出す練習方法やメンタルの養成は
我々の時代には困難なものでしかなかった””まぁ、選手の「レベル」と言ってしまえばそれまでですが(苦笑)

自分が知り限り(昭和54年近辺の年代)強制された管理野球の時代にあって
自主性(練習)を全面に出して近代野球を行なっていたのは、日大三高から
ドラフト2位で近鉄バッファローズへ入団した野林大樹(昭和62年卒)くらいです

彼は1日、1000本のティーバッティングをノルマと課して練習後の夜の時間に、黙々とバットを振っていた選手です

また雑用で{夜間の自主練習が出来ないから退部します}と言って合宿所を出てしまい
当時の青木監督が町田の駅まで駆けつけて引き戻したと言うエピソードもあるくらいです

当時、彼の行なっていた練習方法が現代に通じる超近代野球なのです

押し付けられた強制的な練習は感性と個性をも潰す悪原因にもなります

でわ?
どうして
現在の日大三高は破壊力を重視した超近代野球/打撃に重点を置いたチームへと変貌を遂げられたのでしょう?
(但し、当然のこととして第3工程の上に成り立つ上での第4工程であるというのが条件になります)



その答えは
小倉監督が数年間の間
日大三高から離れ関東一高で指揮を振るわれたことに尽きます

この関東一高は東東京に所属し
前田監督率いる帝京高校などを打ち破るためには打撃の向上が必項だったのです

その為の体力トレーニングも
練習時や合宿所内の雰囲気の変貌も

結果
小倉全由監督によって日大三高野球に関東一高監督時代に習得した破壊的な打撃力を注入し
基本の上に則った自主性の練習と指導法が、日大三高へ「第4工程」として注入されて行ったのです

この成果が、2001年の夏の甲子園優勝。2010年春のセンバツでの準優勝。そして2011年の夏の甲子園優勝と言えます

日大三高野球は
伝統に更なる進化を加える”超近代野球への変貌作業(第4工程の注入)と
その成果を示すに、実に20年以上の歳月を費やしたことになります



時代の推移と共に進化し続ける高校野球
次なる”最超次世代高校野球を見据えた日大三高の「第5工程」注入は

何時?
何をもってして?


小倉全由監督は育成功労賞をも受賞されています



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他、歴代監督の特徴

2011年10月25日 17時18分50秒 | 日大三高校野球部 小球史
8代目 鈴木吉三郎監督
昭和41年―昭和43年

鈴木吉三郎監督の時代には
昭和44年卒の小枝守先輩(元日大三高監督、現拓大紅陵高校監督)が在籍しておられました



鈴木吉三郎監督と山田隆夫監督

11代目 山田隆夫監督
昭和48年―昭和51年

オリンピック強化選手のような科学トレーニングを導入
自分たちの代の時は部長先生をされており、あだ名は「山部(やまぶ)」
非常に威圧感があり怖かったです””

山田隆夫監督の時代には、昭和49年卒の豊田誠佑先輩(元中日ドラゴンズ/前列右端)


そして、昭和50年卒の小倉全由先輩(現日大三高監督/前列右から2番目)が在籍されていました。



12代目 小枝守監督
昭和51年-昭和56年

アポロ飛行士のトレーニング方法を導入
理論的には初動負荷運動トレーニングに近い原理のトレーニングでした
日大野球部1年生の時から学生コーチに就任され、下積みが最も長く、特徴度抜群の歴代監督の参謀をされていました
・・・さぞかし、大変だったとお察し致します

何でもこなし、非常に器用な監督さんです

理論派でもありノックが絶妙!
ホームからレフトポールを狙って見事にボール当てる離れ技には唸りを抱いたものです

{最後のランニングの数を「このポール当」で、小枝守監督と賭けをして見事にやられた思いがあります
あと、キャッチャーフライの滞空時間が長すぎて首が吐き気と筋痛を興した記憶が懐かしいです・・大笑}

小枝守監督の時代には昭和56年卒の福王昭仁選手(元読売ジャイアンツ/写真中央)が在籍しています。


また
日大三高監督後は拓大紅陵監督に就任され無名の拓大紅陵を千葉のリーダー格にまで押し上げた
甲子園初出場は昭和59年ですが、いきなりのベスト8に進出。桑田・清原のPL学園には敗れはしたが
夏の千葉大会も制し、春夏連続出場を果たしました

昭和61年、昭和63年には東日本最強とまで言われるほど
完成度の高い大型チームを作り上げ平成4年には夏の甲子園で準優勝を果たされていらっしゃいます


13代目 田嶋利昭監督
昭和56年―昭和59年

昭和30年代前半の黄金期に並木先輩と一緒にご活躍された方です
この田嶋利昭監督の時代には昭和57年度卒の宮内昌己選手(元中日ドラゴンズ・他)が在籍していました(写真後列右端)

覚えていらっしゃる方も多いと思いますが
「プロ野球珍プレー好プレー」で元読売ジャイアンツのクロマティー選手と「乱闘」になった速球派の投手です



でわ、いよいよ
最後に名監督「第16代目 小倉全由現監督」に移行します


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7代目 14代目 青木久雄監督

2011年10月24日 16時41分17秒 | 日大三高校野球部 小球史
7代目、14代目 青木久雄監督
昭和39年―昭和41年
昭和59年―平成6年



日大三高野球部の球史の中で
2回に渡って監督を務められたのはこの青木久雄監督だけです

「人間青木」という代名詞が付くほど
人間教育にしっかりとした信念をお持ちになり人間味溢れる監督です

また
「ケースごとのテオリーと、その裏をかく・・・」と言う様な
「細やかな戦術」をお持ちの監督です

昭和41年に糸魚川商工への合宿遠征をされ糸魚川商工との交流を開始
この時の糸魚川商工のエース投手は関本四十四投手(元読売ジャイアンツ)でした

{青木監督には非常に感謝している}と、関本さんも述べておられます。


糸魚川商工の選手との記念写真


糸魚川商工での合宿練習の合間

そして、青木久雄監督の第1期時代には・・・
昭和40年卒の佐藤道郎先輩(元南海ホークス・他)


昭和42年卒の古賀正明先輩(元読売ジャイアンツ・大洋ホエールズ・他)


また、第2期時代には・・・
昭和62年卒の野林大樹(写真後列右端/元近鉄バッファローズ・広島東洋カープ・ヤクルトスワローズ)


昭和63年卒の桑 認 (写真後列右端/元近鉄バッファローズ)

・・・などの選手が輩出されています

尚、青木久雄監督は
第1期と第2期の途中に「二松学舎大付属高校」をも指揮され昭和57年のセンバツで準優勝をされておられます



自分たちが現役の時は
丁度、二松学舎高校の監督をされていて
西東京と東東京とで分かれてはいるのですが
「敵」という感覚でしかなかったのが正直なところです

二松学舎高校との練習試合が日大三高のグランドであり
試合後に送球動作についてアドバイスを頂いた記憶があります

その後
日大野球部のOB会で1度だけご一緒させて頂いたのみで
やはり、現役当時の「敵将」というイメージが強く自分にとっては
日大三高の先輩なのですが近寄りにくい監督さんです・・・(大笑)



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10代目 鈴木康夫監督

2011年10月24日 15時14分24秒 | 日大三高校野球部 小球史
10代目 鈴木康夫監督
昭和47年―昭和48年


前年の昭和46年
センバツを制した日大三高は翌昭和47年センバツにも出場した

まっしぐらに
センバツ連続制覇(連覇)を目指し快進撃を見せたのだった

チームを牽引するのは熱血漢溢れる鈴木康夫監督である

鈴木康夫監督も前年度の萩原宏久監督と同様に
田口周監督によるセンバツ準優勝時の主将そして捕手であった

田口周三高野球を
最も熟知しているのが
この鈴木康夫監督だったのである





連続制覇を掛けた決勝戦翌日の新聞記事は・・・

{準優勝チームへの惜しみない拍手がスタンドから沸き起こった時
マウンドに整列する選手たちをベンチの前で見守る準優勝監督は目からか流れる涙を溢れさせていた
それは悔し涙以外の何ものでもなく彼にとって、この準優勝はそれまでに経験した試合の中でも
もっとも屈辱的な敗戦でしかなかった}







また
ある本にはこんな書き出しもある・・・

{普段は練習に口を出したことのない桑野卓部長が
グランドに駆け降りてきて鈴木からノックバットを奪いように立はかだった
「鈴木やめろ!選手が死んでしまう!もうやめろ!」 
鈴木は桑野卓部長を押し返した
「先生、大丈夫です
僕が信念を持ってやっていることですから大丈夫です!
先生、僕は僕が倒れるまでノックを放ちます!」
選手が倒れたところへ水を浴びさせ、起き上がるとまた容赦のないノックを放った}


ー生羽津先輩、吉澤先輩、待井先輩ー

{既に出来上がっていたチーム力
このチームは技術的にも、精神的にも頭脳的にも出来上がっていた
それ以上の力を望むには「原点」に返るしかないと思った
頭の中をからっぽにして無心になってプレーをする
それには猛ノックしかないと思った}


ーセンバツ2季連続の連覇を掛けて決勝へ進出した日大三高だが
 日大櫻ヶ丘高校の仲根投手(ジャンボ仲根、元近鉄バッファローズ)の前に敗戦、準優勝に終わるー

徹底した管理野球と長所を伸ばす野球という2つの野球の形態の中で
日大三高は「出来ないことを出来るようにするには徹底的な管理」という前者の形態をとってきた
この管理野球が支配する中において、当時の鈴木康夫監督の心情には計り知れないものがあったと感じます

「勝たねばならない」

ましてや「連覇」という多き過ぎるプレッシャーの中
日大三高の監督としての使命が特にこの昭和47年度においては濃いです

いや
濃すぎます!



そして
鈴木康夫監督は
元千葉商監督としても甲子園出場をされ
「田口周三高野球」を後世に継承すべく「新高校野球心得帖」「野球心得書」をご出版されていらっしゃいます

「あたり前のことを、当たり前にやれ!」

基本中の基本部分が組み込まれている「野球バイブル書」に値する内容です







また
何を隠そう
たいそうに隠すほどのことではないのですが(笑う)
自分が日大三高へ進学したきっかけはこの鈴木康夫監督の「お口添え」があったからなのです

以前
準優勝に際する各メディアの記事を読んだ時と異なり
インドネシア代表ナショナルチームと言う「1国の旗」を背負う立場の監督・指導者としての
経験をさせて頂いた自分には当時の鈴木康夫監督の「指揮官」としての「非常に苦しいご心情」が手に取る様に分かります

更に
このセンバツ準優勝時の捕手は小杉治先輩という2年生のレギュラー捕手です

自分も同じ捕手というポジションだったので分かるのですが
日大三高の2年でレギュラーを獲得するのは「至難の業」です
当時は年功序列のシキタリの風潮も今よりも強かった時代

1学年上には吉澤先輩を筆頭に凄い先輩方々がいらした訳で
その中で司令塔として数々のサインプレーを2年生でこなした
小杉先輩の頭脳と度胸には尊敬の言葉しかありません(自分の憧れの先輩です)

・・・捕手って大変なんです

・・・監督って孤独で辛いものです


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幻の・・・「日大三高 江川卓投手誕生」

2011年10月24日 14時39分32秒 | 日大三高校野球部 小球史


実は
この時期に江川卓投手が日大三高進学を検討していたと言う
事実があり、ほぼ進学決定というような噂も流れていたようです

「日大三高 江川卓投手誕生!」
・・・に向け、萩原宏久監督は中学時代の江川卓投手を何度と無く訪ねている

この時、江川卓投手の「日大三高進学に際する希望」は「六大学への進学」であった
萩原宏久監督からの返答は、江川卓投手に曖昧な口約束はしなかったのだった

当時の江川卓投手の力量から言えば六大学進学への保障的な返答を即答する指導者もいたであろう・・・

しかし
日大三高野球部の監督として安易な返答が許されなかったと判断します

そして江川卓投手は作新学院進学へ・・・

「日大三高 江川卓投手誕生!」は「幻」と消えたのでした



この後
昭和46年度センバツ優勝、昭和47年度センバツ準優勝のメンバーで
甲子園で大活躍をした吉澤俊幸先輩(元阪急ブレーブス・阪神タイガースコーチ)が早稲田大学への進学を決めたのでした

・・・そうです””
江川卓投手の希望であった六大学への進学です



甲子園で大活躍の吉澤俊幸先輩は早稲田大学へ進学



東京六大学リーグ戦
「法政大学対早稲田大学」

そこには
法政大学のエース江川卓投手
そして早稲田大学の中心打者、吉澤俊幸先輩の姿があった


法大 江川卓投手   早大 吉澤俊幸先輩   

萩原宏久監督と江川卓投手も
その数年後に・・・

萩原宏久監督はトレーナーとして
江川卓投手は選手として

・・・読売ジャイアンツへ入団するのでした。


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9代目 萩原宏久監督 センバツ優勝監督からトレーナーへ

2011年10月21日 13時06分17秒 | 日大三高校野球部 小球史
9代目 萩原宏久監督
昭和43年―昭和46年


日大三高現役時代、田口周監督のセンバツ準優勝時のサードを守っていたのが萩原宏久先輩です
「田口周三高野球」を継承し、日大三高野球部史上初センバツ制覇を成し遂げた監督なのです







昭和43年に日大三高のコーチに就任され翌年の昭和44年に第9代監督に就任

勝負感を非常に大切にされた監督です
日大三高監督を退任された後は、スポーツトレーナーの修行をされ
近鉄バッファローズへ、3年後に読売ジャイアンツへ移られチーフトレーナーとして選手の身体ケアーをされました



昭和46年センバツ優勝時の主将だった岩沢健一先輩が語る萩原宏久監督
{萩原監督は相手のベンチの動き、サイン等はほとんど見抜いた上で自分にサインを出してくれたお陰でピンチを免れることが出来
優勝につながったと思う
捕手の自分としては監督の指示とおりに動いていればピンチも何とかなると言う信頼があった}



昭和47年センバツ準優勝時の2年生捕手だった小杉治先輩が語る萩原宏久監督
{あの鋭い指摘は未だに驚きである
確かにこっちが高校生であった訳だがあの落ち着きは20代後半のものとは思えない
自分的に言えば人生の恩人の一人である
その後のご活躍も「やっぱりな!」という感じである}



~全国制覇の瞬間 昭和46年4月6日 入学式の模様~
入学式で甲子園経過放送・・・
{4回を終わって「2-0」で三高がリードしています}

この日
日大三高は中学と合同の入学式を迎えていた
丁度、午後1時、甲子園の決勝戦と同時に式が始まった
式の途中では校内放送が流れ、決勝戦の途中経過がアナウンスされる奇妙な入学式となり
いつもは2時間かかる入学式も1時間で終わってしまった
各クラスでの記念写真撮影に参列する校長先生はラジオを持参で記念撮影に収まっていた””


次回は幻の・・・「日大三高 江川卓投手誕生」に触れてみます


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田口周監督とプロ野球-勝てばいい勝負の世界で手段は選ぼうじゃないか!

2011年10月18日 16時10分49秒 | 日大三高校野球部 小球史
田口周 元日大三高監督



1932年12月東京 杉並生
日大三高時代はファーストで2番打者
選手として体力的な限界を感じ理論を身につけて野球を続けようと日大進学後は日大三高のコーチに就任
当時の巨人軍コーチで近代打法を体系づけた新田恭一氏を訪ね熱海の自宅まで通った

また
日大三高監督の星川恒雄氏の自宅に泊まりこみ深夜まで野球論期を討論した
この野球論議には初代監督の藤田省三氏や、根本陸夫2代目監督、そして関根潤三先輩らも時折加わった
そして田口周監督は野球論議にとどまらず心理学までも学んだのであった

大学2年生の頃には既にその能力は全国に広まっていり大分県から臨時コーチの依頼を受けている
{今、考えると、これが人生を左右したと思う
思いがけず九州大会の決勝まで進み他人の野球を手伝う楽しさを実感した}と述べられている

1957年、日大卒業後に日刊スポーツの新聞社に入社しアマチュア野球担当になる
行く先々で先方から声を掛けられるほど有名な存在で早実の王貞治選手も直立不動の姿勢をとったほどだった

1960年1月に日大三高の監督に呼び戻され日刊スポーツ新聞社を退社
3年計画でチームの建て直しを試み1962年の春のセンバツで準優勝、同年夏の甲子園でもベスト8進出を果たす

この後、日刊スポーツ新聞社に復帰
この復帰がプロ野球入りに繋がったのである

2年間のアマチュア野球を担当した後
1965年に大洋ホエールズの担当になり三原野球に触れ翌年から巨人担当になる

試合後の川上哲治監督には
「どうしてあの場面で、この作戦をとったのですか?ぼくならこう思うんですが・・・」

仕事熱心で野球に詳しい田口周監督の評判は
プロ監督が一目おく存在としてプロ野球界に広まったのである



そして
1968年にサンケイアトムズの監督に就任した別所薫氏から2軍監督へ招請され入団
プロ経験の無い異例の人物の入団だった

その後1975年までの8年間、2軍監督としてフォームの選手の指導・育成にあたる
横須賀の合宿所に泊り込み、当初、日大三高監督時代と同じようにプロの選手たちに
野球のルールから徹底的に教えなおしたと言うエピソードを持つ

その後、球団名がサンケイからヤクルトに変わり、三原監督が就任
ここで三原監督から「指導者が使える選手を育成して欲しい。無理やり教えるのではなく自覚を育てて欲しい」と
助言され指導法を変貌

そして
同年の9月にイースタンリーグとしては
初めて「優勝」を飾ったのである(在任中2度の栄冠を手にした)
ヤクルトにとっては1軍も含めて初めての優勝という偉業である

1976年からはフロント入りし
総務部長、スカウト部長などを経て1985年にヤクルトスワローズの球団代表に就任
更に、1997年からは球団代表兼球団社長に就任する

この球団代表と球団社長を兼任したことはプロ野球史上初めてのことであった
それも野球現場から登り詰めたことも史上初の人であった

ここから一気に球団経営にその力を発揮する。

スカウト部長時代に入団させた選手たちが順調に成長をし
多くの選手が1軍の中心選手になっていた時、日大三高の先輩である
「関根潤三先輩」を監督に招聘しチーム編成を強化しチームを変貌へと導いた

{私が監督のときも、現場を分かっているからやりやすかった}関根潤三先輩談

その時が熟したころ
勝つ野球を追及し、野村克也氏を監督に迎え入れ
セリーグ優勝4回、日本シリーズ制覇3回というヤクルトスワローズ球団の黄金時代期を作り上げたのだった

更にはプロ野球各球団の積年の懸案事項であった「ドラフト制度改革」を
ドラフト制度検討委員会の委員長として28年間も出来なかったこの改革を委員長就任後わずか2ヶ月でまとめあげるという手案を発揮した
この裏には田口周監督にしか持ち得ない人間関係、即ち高校野球からプロ野球に飛び込んで成功をした人だからこそといえよう。

高校野球の指導者から新聞記者
そしてプロ野球の指導者、更にプロ野球球団の経営者に登り詰め野球界に革命を起こした偉人だと思います


サンケイアトムスのユニフォームはレプリカ画像になり背番号も無関係です

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6代目 田口周監督 - ID野球と80以上のサイン

2011年10月18日 14時50分47秒 | 日大三高校野球部 小球史
6代目 田口周監督
昭和35年-昭和38年

田口周監督(前列右下)-あたリ前のことを あたり前にやれ!

藤田省三監督による1つめの工程
そして星川恒雄監督による2つめの工程に次いで
6代目の田口周先輩が3つめの工程として注入されたのが「緻密なデータ野球」になります

今でこそ「ID(インポートデータ)」と言う言葉が有名になっていますが
掻い摘んでいってしまうと昭和30年前半の時代に日大三高は田口周監督によって
「ID野球」を取り入れていたのです

また驚くことにV9を達成した
川上哲治監督率いる巨人軍より数年前に田口周監督は
既に「ドジャース戦法」を取り入れたのである

更には
トレーニング関係では「サーキットトレーニング」をも取り入れて
日本で1番最初に高校野球に画期的な野球を取り入れた凄い方なのです

守備におけるフォーメーション
攻撃方法及び作戦、試合での投手起用法
精神面を含めた心理的要素、データ面から見た分析論など

緻密な過ぎるくらいの内容で、サインに至っては当時、やはり、まだプロ野球でも
あまり使われていない全く新しい「ブロックサイン」に変更されていたのです

これらドジャース戦法の例を挙げて簡単に纏めると
現在、守備体型のフォーメーションで使用している1塁手のカバーリング、カットプレーでの動き
投手起用でのリリーフ、ストッパーなどの分業制など・・・

突起したサインではカウントによる自動的ヒット&ランのサイン
捕手からの守備体型サイン、トリックプレイなどで、当時の日大三高は攻撃と守備のサイン数が80を超えていたのです。
以上の全てが田口周監督によって導入されたドジャース戦法です

※実際「80個」を超えるサインを完璧に覚えるのは至難の業です。
 特にキャッチャーにとってはキツイものです。自分達の時代(1979年)でも「80」という数字を追った記憶はありません
 さぞかし、田口周監督の時代とその下の数代の先輩方々は大変だったと思います


第34回センバツ大会準優勝 
先頭が鈴木康夫先輩、2番目が萩原宏久先輩、3番目が賠償晃先輩


決勝では八木沢投手を擁する作新学院に「1-0」で惜敗

この全貌を屈指した結果が就任3年目の昭和37年、第34回春のセンバツでの準優勝になります。
このセンバツ大会の試合でドジャース戦法の新しいフォーメーションをはじめとした「田口周三高野球」を甲子園で披露したのです



田口周監督の3年計画の初年度にあたるチームで
1年の秋の新人チームの時から7人がレギュラーをもらい「勝たねばならない」という
伝統校使命から田口周監督による非常な選択を施したのだった


3番打者の賠償晃先輩は甲子園では4割9分の高打率をマークした。

また、賠償晃先輩は女優の賠償千恵子さん・美津子さんの弟さんです。
センバツ大会では賠償千恵子さんが日大三高の宿舎「小西旅館」に激励に訪れたのですが
マスコミが殺到したため姉弟の対面はかなわなかったというエピソードもあります

このセンバツ出場をかけた前年秋の東京都秋季大会準決勝でも宿敵早実とガチンコの激突をしているのです
8回裏まで「3-0」と早実にリードされていたのですが、同点にもちこみ日没再試合で勝利・・・

どうして何時も早実とはこうなるんだろう(冷汗”)


続く夏の甲子園にも出場をし、ベスト8進出を果たしている。



日大三高の球史を分析すると
藤田省三監督が基礎を作り、星川恒雄監督が追求に努め、田口周監督によって実を成した流れになります

ある意味
この田口周監督時代をもって
既に完成要素の注入が完了し近代野球の基本的部分が構築されたと言えます。
言葉を変えれば、今日の野球の形が形成されたと言っても過言ではありません

そして
驚くべき点は
その時期が昭和30年代前半の早期段階でだったと言うことです

更に
その後の野球界を動かす根本陸夫先輩、田口周先輩という2大巨頭がいらしたことも・・・

田口周監督時代での有名な選手は
昭和37年度卒の萩原宏久先輩(元日大三高監督・読売ジャイアンツチーフトレーナー)と鈴木康夫先輩(元日大三高監督)


そして
昭和39年度卒の大橋穣先輩(元東映・阪急・中日・ヤクルト)の諸先輩方々になります





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早実 王貞治投手と日大三高

2011年10月17日 13時09分40秒 | 日大三高校野球部 小球史

   早実 王貞治投手

昭和30年の夏
和智郷司先輩、並木輝男先輩(元阪神タイガース)の
両左腕で継投を施す日大三高は東京都大会の準決勝で宿敵早実と激突したのだった

この時代の早実には
和田(元早実監督)さん、徳武さん、醍醐さんなどの有名選手が揃っており優勝候補筆頭に挙げられていた
また、早実としては昭和28年のセンバツ、昭和29年のセンバツ、昭和29年の夏とこの2年間で実に3回もの甲子園
出場を果たしていたのであった

そして、昭和30年8月1日、東京都大会準決勝・・・
中盤に4点を奪われた日大三高は、7回の裏に3点をあげて「4-3」とくらいつく
そして迎えた9回裏の最後の攻撃、ショート名手、和田さんの落球を誘うショート後方へのフライ安打と送りバント
そしてレフト前ヒットで同点に追いついたのだった

ここから一世一代のプレーが出たのだ・・・
場面は2死ランナー1,3塁、2ストライクを取られ、誰もが延長戦へ投入か?と思ったその時
1塁ランナーがスルスルっと飛び出して行く

ピッチャーが1塁へ送球、ランナーは2塁ベースへ向って猛然と走る
カバーに入ったショートへボールが投げられた瞬間にサードランナーがホームへ突入
・・・猛然のヘッドスライディングを決めたのだった

“ディレートスティール”で「5-4」の劇的な逆転サヨナラ勝ちを決めたのである


昭和30年夏、東京都大会を制し甲子園に出場。準決勝で早実に大逆転を演じた強者たち

決勝でも日大二高を破って4回目の甲子園に出場
神戸商を1-0、桐生を10-4と破ったが、坂出に1-10で敗戦

しかし「巧みな奇襲作戦を得意とする緻密なチーム」と高い評価を受けた


昭和30年 夏の甲子園

そして
この同年秋の東京都秋季大会でも1回戦で早実を「6-0」と破り
続く翌31年の春のセンバツにも並木輝男先輩(元阪神タイガース)を中心に出場、準々決勝まで進んだ


昭和31年 春のセンバツ

ところが・・・
昭和31年のセンバツ後の東京春季大会での決勝で
昨年から勝ち越している宿敵早実とまたしても激突を迎えたのだが

この試合
早実に入学して間もない1年生投手が先発をしたのだった

この1年生投手こそ
“世界に名をとどろかすスーパースターとなる”王貞治選手だったのです


日大三高は、早実の1先生、王貞治投手に敗れるのだった

王貞治選手談(早実OB・福岡ダイエーホークス前監督・現会長)

「昭和31年5月、東京都の春季大会
東大の野球グランドで日大三高と早実が決勝戦を戦った
そんな大事な試合の投手を入部して間もない私が命じられた
下町育ちで中華そば屋の息子として育ったこわいもの知らずの少年は
投げさせてもらえることが嬉しくて無我夢中で投げた
捕手の醍醐さんのサインどおりミットめがけて力いっぱい投げ込んだ
火事場の馬鹿力ではないが、無欲の投球で、あれよあれよという間に試合は進み
結果的には「4-0」という一方的な試合になってしまった
卒業後、阪神タイガースに入団された並木さんをはじめ、日大三高の選手達は
一年生なんかに負けられるものかと思っていたことでしょう
それが回を追うごとに点が取れず、だんだんと煮詰まりにとなったのではないでしょうか
この時のピッチングが、その後の私の野球人生を大きく変えたといえるでしょう

その年の夏の大会では、準決勝で日大三高は成蹊高校と、我が早実は明治高校と対戦しましたが
当然、決勝戦は日大三高と戦うことと思っていたのですが大番狂わせで日大三高は敗れてしまいました
試合中、ベンチにかえって来ては酸素吸入をしていた並木さんの姿を今でもはっきり覚えています
名門で伝統のある日大三高との戦いは今でもとてもよい思い出となっています 
何時の日か早実と日大三高が甲子園出場権をかけて神宮球場で決勝戦を戦うことを期待しています
永遠のライバル・・・日大三高かんばれ!」
ー日本大学第三高等学校野球倶楽部七十年史よりー

※早実は王貞治選手の活躍で
4季連続の甲子園出場を果たし王貞治選手高校2年のセンバツでは全国制覇を達成している

戦前より早実と日大三高は共に伝統を誇る名門・古豪としてお互いに切磋琢磨してきたのです
近年では、東京(西東京、東東京)を代表する強豪高も多くなり、全国にその強さを知らしめています
高校野球の発展と向上にとって非常に喜ばしいことです

しかし日大三高OBだから言うのではなく東京の高校野球の歴史を見ても
やはり東京での名門・古豪と呼ばれるのは「早実」と「日大三高」であると言えるのではないでしょうか・・・


2世紀に渡り西東京都大会決勝で激突する「早実」と「日大三高」

近年では2006年の夏の西東京都大会決勝戦で激突!
延長11回の末、斉藤祐樹投手を擁する早実が優勝。その後の甲子園で全国制覇を成し遂げている


また、2011年の夏も同様に、西東京都大会決勝戦で激突!
「2-1」で日大三高が2006年の屈辱を果たし甲子園へ出場。そして甲子園で全国制覇を達成している


王貞治福岡ダイエーホークス会長のお言葉が印象的です

・・・永遠のライバル 早実がんばれ!


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4代目 星川恒雄監督

2011年10月16日 17時37分32秒 | 日大三高校野球部 小球史
4代目 星川恒雄監督
昭和25年ー昭和33年


前列左端が星川恒雄監督

根本陸夫先輩と関根潤三先輩の話から日大三高校歴代監督の話に戻ります

日大三高野球部2つめの工程は
この4代目の星川恒雄先輩によって行なわれました

初代、藤田省三監督の教えを継承し「近代野球論の研究と実施」を注入されたのです

この成果として昭和26年には独自の野球指導書を発行されました
また、この野球指導書は何代かにわたって改良が加えられ、後に東大野球部部長をされた神田順治先生の監修により
「学生野球」という本になったのです。「学生野球」はベースボールマガジン社から発行され、当時の「野球理論のバイブル」と
称された書物です

星川恒雄先輩は昭和25年に監督に就任され甲子園出場を目指し長期計画を描かれたのでした
その中で、技術の向上には基本理論の習得が必要と考えられ指導書を作成し理論を学ぶことで
考える野球をテーマとし全員野球を施したのです。また、ミーティングでは筆記試験なども行いました


星川恒雄監督著「野球の理論書」ガリ版刷の原本

その「まえがき」の1部を引用してみると・・・

「実践と理論が一致しても、それに精神が伴わなくてはならない
ボールは己の魂である。ボールを魂として取り扱わないと諸君達は野球を通して何らかの体験を得
諸君達の人格を磨き、向上完成させる修行の道場が練習場であることを、又、野球部ははかなる目的のためにあることを承認されたい
三高野球を球遊びの場として考えてはならない。修行の場となるが故に楽はない。苦難の道である
しかしその苦難の道にこそ勝利に通じる道があることを知れ、苦難の道をいとうものは三高野球部から立ち去るがよい」
とあり指導書は「打撃、走塁、バント、作戦、コーチング」によって構成されています

また
昭和28年ころからコーチとして田口周先輩(昭和26年度卒、元ヤクルト球団社長)が参謀として
コーチに加わったことも大きく、試合での戦略、また先に記した学生野球書の改良等にも田口周先輩の
お力が多大に加わっていたのです

この様に、星川恒雄先輩から田口周先輩へと受け繋がれながら徹底的に野球の理論が追及されて行ったのです

星川恒雄監督談
「藤田さんは、近代野球というか新しい理論や技術を持ち込んできたけれど、昔習った野球とはちがっていました
理論面が先行しているから難解なところがあって、理解するには苦労しました。打球が全然前に飛ばないのだから・・・
雑誌に出ていたルーゲーリックやベーブルースなどの連続写真を集めて毎日のように田口や榎本(昭和27年度卒)と論議しました
そこで気が付いたのは、一人一人のフォームは個性的でそれぞれ違うように見えるけど、連続写真を重ねていくと必ず共通点があることです
その共通点が理論であり、基本につながるということに気が付いたんです。これで藤田さんの言う理屈(理論)が、ある程度理解できたのです}

この星川恒雄監督時代の有名な先輩と言えば、やはり筆頭に挙げられるのが根本陸夫先輩と同様に後のプロ野球界を動かすカリスマ的存在となる
田口周先輩(昭和26年度卒、元日大三高監督・ヤクルト二軍監督・ヤクルト球団社長)です


中央が田口周先輩

そして、戦後初の春夏連続甲子園出場を果たした昭和27年度卒の若林輝明先輩(元近鉄・日大三高監督)

若林輝明先輩ー甲子園にて

また、昭和32年度卒で阪神タイガースへ入団された並木輝男先輩(元阪神、ロッテ)です。

写真中央が並木輝男先輩ー甲子園にて


阪神タイガース時代の並木輝男先輩

並木輝男先輩の在学中での星川恒雄監督による
1点差の攻防を重視した練習、藤田省三初代監督同様にミーティングを重要視した
理論やフォーメーションの研究知的頭脳野球等が開花したのです
この成果は日大三高にとって名門校として名を高めた重要な要素を含む2つめの工程だったのです


コーチ時代の田口周先輩(スーツ姿)、田口周先輩の右お隣が並木輝男先輩です


昭和30年の夏、昭和31年のセンバツと甲子園へ出場

そして、昭和31年には念願の自校グランドが調布市菊野台)に創設され、鎌田彦一先生のお名前から「鎌田球場」と命名されたのでした




グランド脇の野球部合宿所、2階の左部分(部屋)が鎌田彦一先生専用のお部屋


2階の専用のお部屋から毎日、練習を見届けられた鎌田彦一先生


しかし
昭和31年のセンバツ出場後
東京に、日本プロ野球史、いや、世界にまでその名声をとどろかせた
1人の選手が高校に入学して来ました

この選手の出現によって
昭和34年のセンバツまで
日大三高は甲子園出場の道を閉ざされてしまったのです””

その野球選手とは
・・・早実1年生「王貞治投手」だったのです


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関根潤三先輩 おもしろ話

2011年10月15日 18時17分17秒 | 日大三高校野球部 小球史

巨人軍時代の関根潤三先輩

関根潤三先輩が広島東洋カープヘッドコーチ時代に夜遅く合宿所に帰ってきた衣笠選手に対して
「さあキヌ、素振りでアルコールを抜くか」と言って、合宿所前の道路で素振りをさせたというエピソードは
前項で記しましたが、他のエピソードや面白い話満載の「関根潤三先輩談」を幾つかご紹介しようと思います

三中野球部入部のころ
入学して直ぐに野球部に集合した関根潤三先輩
しかし藤田省三監督からは{おまえは、1年たってからこい}と追い払われてしまったエピソードをお持ちです
・・・原因は「体が小さかったら“”」
1年後に晴れて三中野球部に入れた関根潤三先輩
日々、ボール箱との戦いには泣かされた思い出が・・・
「俺は前に抱えて持ったからねぇ~、あの皮の重いボール箱の当番の時がたまったもんじゃない“”わしゃぁ参ったよ」

野球で初めて泣いた
「三中野球部2年のとき、鬼頭さんたちが東京都代表決定戦(決勝)で負けてね。鬼頭さんが肋間神経痛で投げれる状態じゃないんだよ
それで打たれて負けたんだ。その時に悔しくてスタンドで泣いてね。その時のことが野球人生にうんと影響したんだ・・・
{よし、甲子園に行こう}ってね
ところが2年生だから野球の苦しさを何もしらないんだよ
上級生はおっかないおじさんばっかりで、球拾いだけやってれいばよかったんだ
だけど、キャッチボールだけしかやらせてくれないで1年間というのはつらくて・・・
えらいところに入っちゃったなぁ~と思ったよ」

藤田省三監督のノック
「ノック・・・!うまかったねぇ~芸術的だったね
あのノックには参った“”俺は本当にやられたのは大学に行ってからだけど、
木村さん(15年度卒)、鬼頭さん(14年度卒)、鈴木さん(14年度卒)、本田さん(14年度卒)を2年間見てて
すげぇぇぇなぁぁぁと思った
みんなぶっ倒れていくからね
俺たちはそのぶっ倒れたのに水をかけるバケツ係だぁ(大笑)
藤田さん一人でノシて倒すやつは何十人
一人でいくんだ!
藤田さんのノックバットには手の跡がついていたよ
木は人間の手で形が変わるんだ・・・
先輩がノサれるのを見ていたからピッチャーになった時に当たり前のつもりですごく走りこんで投げ込みもした
大学時代、毎日500くらい投げていた
何もしないで投げていた」

赤坂応援団
「三中4年か5年の時だったなぁ・・朝、赤坂の花町を抜けて登校していると冬なのに半玉が素足で待合の格子戸を水で掃除してるんだ
足はべしゃべしゃ
たすきがけで裾をはじょっちゃってねぇ・・・
15歳か16歳だよ
あの厳しさを見て人生勉強になったな
世の中の厳しさを赤坂の半玉から教わったよ
それがさ、法政に行ってから神宮の一塁側のベンチの上にずらぁぁーと並んでいたのには、わしゃぁぁー参ったぜ・・・(笑)。
どこでわかったのかね?あれは励みになるんだよね(笑)」

藤田省三監督と近鉄に
プロに入る時、ちょうどサンフランシスコシールズが来て、よく投げたんで、契約金がどんどん上がってしまった
藤田さんに悪いことしてしまったよ“”
プロなんてたいしたことないと思ってた
ほとんど練習しないで東京で遊んでたの。卒業試験だとか卒業式ということで行かなかったの
“はよう来い”と電報が来た
開幕の1週間か10日前に行って急にやったわけ
1年目にして肩こわしちゃった
ボールがキャッチャーに届かない
ひどかった
練習不足でね
それで連投しちゃって翌日にアウト・・・またまた、悪いことしちゃってさぁ~」

巨人軍
「巨人ではもう1年やれ・・・って言われたんだけど、1年でやめた・・・もう結構(笑)
しかし、良い勉強になったよ
ONがいい時だもの
主力選手の心構えが違った
反省したよ(笑)」

契約金での話し
またまた、舞台は広島東洋カープ。舞台と言ってもコーチ就任時の契約金でのお話・・・
「広島にコーチで行った時、藤田さんに報告したら
{契約金がこれでは高すぎる
選手の時は幾ら取ってもよいが、コーチは新米だし自分が勉強するのだから返してこい・・・!}と言われて、
{それもそうだなぁ~}と、“のこのこ”とオーナーのところに返しに行ったら、向こうもあっさり受け取ったよ“”」

藤田さんのジャンバー
ヤクルトの監督になった年に藤田さんが亡くなった
お葬式の後に、藤田さんのお気に入りの茶色の革のジャンパーを{形見です}っていって奥さんから戴いた
負けて(ヤクルト)困っちゃってどうしようかって時に{おやじぃ、何とか助けてくれよ}だなんて言って
そのジャンバーを触ったりしたもんだ・・・」

最後に、根本陸夫先輩について・・・
「中学5年の時に根本が3年生に編入してきたんだ
入ってくる前から評判になっていて{どんな野郎だって}言ってたら、こんな戦闘帽かぶってさぁ(大笑)
しかし、これはいいバッティングしてたね!
法政に行ってから、キャッチャーがいなくなって、藤田さんに{おまえ、キャッチャーだれがいい?}って聞かれた。
{だれがあいいって・・・根本がいいですね}って
根本は日大に行って、星川さん(星川恒雄/日大三中17年度卒、日大、日大三高監督)
のところにいた
{あれが一番いいですよ}って言ったら{そうか、じゃぁ連れて来い!}って(笑)
それで法政に来た
肩もバッティングもよくて、たしか東都でリーディングヒッターになったね・・・

日大三中で野球の心を学んで、法政で技術を学んだ
根本とよく話すんだけど{俺たちの原点は日大三中と法政だよな}というくらい
今でも、あの時に仕入れたものを{ちょぼちょぼ}小出しにしているようなものだ
今でも通じるということは、この2つの学校は進んでいたんだよなぁ~
それに日大三中、法政、近鉄と藤田さんに教わっていたからね
ー平成6年11月16日収録/日本大学第三高等学校野球倶楽部七十年史よりー


関根潤三先輩がご卒業になられた昭和18年度卒業アルバム


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偉大なる大先輩 「関根潤三先輩」と「根本陸夫先輩」

2011年10月14日 21時04分45秒 | 日大三高校野球部 小球史
「2代目 根本陸夫監督」と
題して根本陸夫先輩に触れさせて頂いたのですが

根本陸夫先輩のお名前が出ますと
どうしても日大三高野球部OBとしては関根潤三先輩のお名前が浮かんでしまうのです

「次代の監督」に移行する前に
先に、この場をお借りして、関根潤三先輩と根本陸夫先輩のご関係ついて触れてみたいと思います

我々後輩として
後々のプロ野球界を牽引される偉大なる関根潤三先輩と根本陸夫先輩が
日大三中野球部をご卒業なさられていらっしゃられることに大変な誇りを感じると共に、
藤田省三初代監督、関根順三先輩、根本陸夫先輩という3人の巨頭のめぐり合わせに驚きを隠せません

このめぐり合わせは日大三中から法政大学
そして近鉄パールズまでご一緒だった・・・と言うことにも驚くばかりです


日大三中時代からバッテリーを組んでおられた関根潤三先輩と根本陸夫先輩は、共に野球殿堂入りなされていらっしゃいます。


我が日大三高校野球部は野球部OB会による
「新年総会」というものが毎年行なわれています。
開催日も毎年「1月の第4週目の土曜日」に固定れています

この新年総会での1番の楽しみは
関根潤三先輩と根本陸夫先輩による「漫談」に近い「トークショー」です・・・

「そう言えば 根本~ 昔さぁ・・・」と、言う関根順三先輩の出だしから始まり、
「いやぁ~ 関根先輩~・・・」と、根本陸夫先輩からの合い返しが繰り広げられるのです。
息の合ったお二人の絶妙な「トーク」に会場は爆笑の渦に包まれたものです

特に自分達の1980年度卒業組みは
1学年上と1学年下に根本陸夫先輩のご子息様が在籍しており
日大三高へ頻繁にお顔を出して頂きました

そんな根本陸夫先輩からは1年生の時に
「あのキャッチャーは誰だ?なかなか良いじゃないか」と
当時の首脳陣に話されたことを覚えています・・・
{うひゃぁ~ この時は、嬉しくて心の中で叫んでいました(大笑)}



関根潤三先輩に至られては
夏の西東京都大会前の壮行会に来て頂き激励のスピーチを頂き
また西東京都大会で桜美林戦の後だったと記憶してますが試合後に
「このチームは甲子園でベスト8まで行く力をもっているから、頑張れ!」
と突拍子もないお言葉を頂いたことを覚えています。
・・・{そのお言葉に調子づいて甲子園出場です(大笑)}

でわ、簡単ですが、関根潤三先輩と根本陸夫先輩について記させて頂きます。



「関根潤三先輩」
日大三中では球界の仕掛け人と呼ばれることになる2年後輩の根本陸夫先輩とバッテリーを組み
藤田省三監督に指導を受けた。法政大学でも日大から編入された根本陸夫先輩とバッテリーを組み
史上5位の41勝30敗を記録し、打者としても4番を打った
3年秋には9勝1敗を記録して法政大学を戦後初優勝に導く。4年秋には六大学史上最多の133.1投球回を記録している

法政大を卒業後は八幡製鉄に入社予定でプロには興味がなかった
だが日大三中、法政大と指導を受けた藤田省三監督が近鉄パールズの初代監督に決まり
藤田省三監督から「お前はまだ人間が出来ておらん。俺はプロへ行くから、お前も来い」と誘われ
藤田省三督に心酔していた関根潤三先輩は「藤田省三監督に言われちゃ、しょうがねえな」と近鉄パールズ入りを決めた
(根本陸夫先輩も2年後に近鉄パールズに入団されている)

プロ野球をなめていたという関根潤三先輩はキャンプを10日ほどしか行なわずシーズンインした
すると開幕直後に肩を痛めてストレートが走らなくなった
変化球投手となった関根潤三先輩は期待された初年度を4勝12敗で終えることになる
だがその一方で129打数32安打で4本塁打、21打点を記録するなど打撃が認められて投手として26試合に登板する一方で
一塁手としても13試合に出場した。1953年には初の二桁となる10勝15敗を記録しオールスターにも選ばれた

翌1954年には自己最多の16勝12敗で防御率2.44を記録。55年にも14勝16敗を記録し、1956年も9勝11敗と結果を残したが
1957年の開幕2戦目で自分の信じていた内角低めのストレートを完璧に打たれた関根潤三先輩は投手に限界を感じてかねてから
首脳陣から要請されていた打者転向を決意

転向の条件として「クリーンナップでの起用」を上げた関根潤三先輩は、翌日の試合に5番で起用されて3安打を放つと
その後も2安打、3安打と快打を続けて一時はリーグトップの打率も記録した

1959年には打率.291を記録して野手としてオールスターに選出され
投手、野手の両方でオールスターに選ばれた唯一の選手になった(投手1回、野手4回)

その後、将来の希望として指導者となることを藤田省三監督に相談
藤田省三監督からは「良いところがあるぞ、指導者になるにあたって勉強になるから見てこい」
と言われ、65年に巨人に移籍し5番を打つ

1970年に広島東洋カープの監督を務めていた根本陸夫先輩に呼ばれて広島東洋カープのヘッドコーチに就任
山本浩二、衣笠を始めとした広島黄金時代の主力たちを育て上げた

単身赴任で合宿所に住んだ関根潤三先輩は
衣笠が夜遅く帰ってくると「さあキヌ、素振りでアルコールを抜くか」
と言って、合宿所前の道路で素振りをさせたというエピソードがある

1982年に大洋ホエールズの監督に就任すると現有戦力の掘り起こし
洗い直しをキーワードに1983年には優勝した巨人に勝ち越し4年ぶりにAクラス入りを果たす

1987年にヤクルトの球団社長を務めていた田口周先輩(日大三高野球部OB)の誘いで
ヤクルトスワローズの監督に就任し若手を育て上げ、その後、野村克也監督に受け渡す。

2003年に殿堂入りを果たす

“失敗しながら覚えさせる”“ゲーム中は怒らない”若手にチャンスを与える“が指導方針



「根本陸夫先輩」
日大三中から日大
そして法政大学に編入し
日本コロンビアを経て1952年に近鉄パールズに入団(捕手)
日大三中時代より2学年上の関根潤三先輩とバッテリーを組む

大学時代は銀座で暴れまくっていたという伝説もあるほど型破りであった

日大時代に痛めた肩が原因し1957年に近鉄パールズを退団
その後はスカウトを経て、1962年から1966年まで近鉄のコーチを務める
その後1967年広島東洋カープのコーチ、翌年の1968年に辞職した長谷川監督の公認として監督に就任
1972年で退任

1978年にクラウンライターライオンズの監督就任
真弓と田淵の交換トレードなどを行い
翌年1979年には西武鉄道がクラウンを買収し球団名が西武ライオンズに変更され同球団の初代監督となる

西武時代は他球団との大方トレード補強
また、森、松沼(兄)、松沼(弟)、石毛、杉本、秋山、などをドラフトで獲得し黄金期の基礎を築いた

1981年に監督を退任し翌年からは西武の管理部長に就任
ドラフトでは数々の有力選手を、そしてトレードでも、片平、高橋(直)、
江夏、田尾、鈴木(康)、平野、鹿取、中尾など、他球団でヤツ役した選手を獲得し西武黄金期を支えた

実質上球団経営にも携り、坂井球団代表(後のダイエー球団代表)と共に
1980年代の西武ライオンズを支える原動力ともなった

また、台湾の有名選手だった郭泰源を獲得し台湾球界とのパイプを作る

1993年福岡ドーム完成を機にダイエーの代表取締役兼監督に就任
監督として現場の指揮を執る一方、球団経営にも尽力
1994年で監督を退任し、王貞治を公認監督に招聘した

この間、小久保、城島、藤井、斉藤、井口、松中、などをドラフトで獲得しダイエー初優勝の土台を築いた
その後、1999年1月に球団社長に就任

しかし、就任3ヶ月後の4月30日に急性心筋梗塞のため死去(72歳)

パリーグ球団の人気実力の向上
日本シリーズでON対決、野球ワールドカップの実行などの実現を夢に抱き球界の仕掛け人と呼ばれた


関根潤三先輩(前列右から2番目)根本陸夫先輩(前列左から2番目)
ー昭和27年、戦後初のセンバツ出場の応援に駆け付けた時の写真ー

根本陸夫先輩におられましては
1999年に他界され我々日大三高野球部OBにとって
その悲しみは、とてつもなく大きいものであります

野球界全体にとっても・・・

そして、あの絶妙な新年総会での「漫談トークショー」も見られません

1番、悲しい思いをされていらっしゃるのは関根潤三先輩でおられるとお察し致します

偉大過ぎるほど素晴らしい
「関根潤三先輩」と「根本陸夫先輩」の後輩になれましたこと
心より誇りに思い、そして感謝致しております


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