








来る9月初旬に•••
台湾でU18アジア•••
選手権大会が開催されます•••
ご存知の方も•••
いらっしゃると思いますが•••
日本代表•••
侍ジャパンは小倉全由監督です•••
小倉監督は•••
自分らが日大三高•••
現役時代のコーチだったんです•••
そして先日•••
スリランカ野球連盟から•••
このU18アジア選手権大会に•••
出場をする•••
スリランカ代表•••
U18ナショナルチーム•••
監督要請の連絡来ました•••
しかし!•••
佐賀インドネシアドリームズ•••
ヘッドコーチの任務が9月末迄•••
泣く泣く•••
見送りとなりました•••
2016年には•••
日大三高野球部恩師•••
小枝U18侍ジャパンと•••
対戦をさせて•••
いただいた経緯があり•••
今回は•••
小倉U18侍ジャパンと•••
対戦できたのに残念です•••
この様な恵まれた立場に居させてもらっていることに感謝しかありません
今回は•••
ペテン帽事件のお話しです•••
学生服の帽子の•••
内部周囲の芯を取り払い•••
帽子の左右のツバを•••
切ってツバを平らにし•••
校章の上部を•••
少々前に折り方向けて•••
火で炙って黒く燻ませる•••
帽子全体を徹底的に•••
ペシャンコに潰して完成•••
これがペテン帽です
このペテン帽をかぶり•••
詰襟は前後通しの5cmにして•••
ハイウエスト付きのズンドー•••
三中野球部の•••
同期の奴が上級生に•••
なった時にこの姿で登校•••
そしたら•••
校舎の手前で後方から•••
“おございます”との大声が連呼•••💥
振り返ると•••
三高野球部の下級生の方々が•••
上級生野球部の先輩と間違えて•••
直立不動で挨拶をしていたんです•••
挨拶した相手が•••
三中野球部の中坊だと分かった瞬間•••
ドスの効いた声で•••
てめぇ❗️まぎらわしい
格好なんかしてんじゃねえぞ❗️
というエピソードがありました•••😱
この怖い方は前項でも•••
お名前があるお方で〜す•••
赤坂の校舎は•••
三高と三中が左右に分かれ•••
校庭はアスファルト敷きでした•••
しかも傾斜があって平らじゃない•••
三中野球部の練習は•••
三高の校舎前の校庭で•••
真夏は•••
太陽とアスファルトの•••
サンドイッチ状態でクソ暑く•••🥵
同期の奴が•••
帽子を忘れて練習したら•••
頭皮が日焼けしちゃって•••
数日後に見事に皮が剥けたり•••
練習中には三高応援団の•••
先輩方々が練習をされていて•••
我々1年坊はおのずと•••
ノックアウトマーチを•••
口ずさみながら•••
左右前後にボール拾い•••
校内には•••
パン屋さんがあって•••
昼時に•••
パン屋に出向き•••
粋がって•••
ババア〜メロンパン•••
って言い放った•••
三中野球部の同期がいた•••
そしたら•••
後に三高野球部に方々がいて•••
数年後に•••
三高野球部に入部したら•••
そいつのあだ名は•••
即にメロンパンになってた•••(続く)
年末の•••
荷物整理を•••
していたら何と何と•••
日大三高野球部の•••
部員バッチが出てきました•••
通称•••
“NSBバッチ”
日大三高在学中は•••
ピィッカピカに磨いて•••
学ランの詰襟に付けてた•••
“俺らは”
“三高野球部だぞぉ〜”
みたいな感じで•••
肩で風を切りながら•••
思いっきり•••
意気がってたんです•••(大笑)
自分かの何代上から•••
このNSBバッチが存在したのか•••
はたまた•••
自分らの何代下まで•••
付けていたのかは不明で•••
凄〜く•••
気になるんですが•••
🤔🤔🤔🤔🤔🤔🤔🤔
日大三高と•••
二松学舎大付とで監督を務め•••
6月に亡くなった•••
青木久雄先輩(享年82)を•••
偲ぶ会が27日に•••
千代田区の二松学舎大学•••
中洲講堂で営まれました•••
青木先輩さんは•••
両校で通算約32年監督を務め•••
春夏合わせて4回甲子園に出場•••
1982年•••
春の選抜大会では•••
二松学舎大付を準優勝に導く•••
また•••
日大三高の監督を2回•••
務めたのは青木先輩さんだけです•••
大学卒業後•••
田口周監督の後に•••
(元ヤクルト球団社長)
日大三高の監督に就任されました•••
2015年には•••
高校野球の発展と•••
選手の育成貢献により•••
育成功労賞に選ばれました•••
青木先輩と•••
最後にお会いしたのは•••
2016年で•••
日大三高野球部合宿所でした•••
https://blog.goo.ne.jp/redsoxbali/e/c73fc5003f2c56a8c5d8288a779cac00
全国高校野球選手権•••
記念大会甲子園 1回戦•••
日大三高(西東京) 3 - 0 社 (兵庫)
母国•••
日大三高が•••
初戦を突破しました•••
三木監督•••
甲子園1勝そして•••
選手の皆さんおめでとう•••
対戦相手の•••
社も素晴らしいチームでしたね•••
2年生が目立ち•••
秋、春、来年夏へ期待度大です•••
チームカラーの•••
日大三高ではありますが•••
打撃は水もの•••
当てにはなりません•••
好球必打は分かりますが•••
それもケースbyケースです•••
OBとして•••
4回の無死1塁からの攻撃や•••
5回の攻撃が雑だったのが•••
目についた試合内容でした•••
2回戦に向けの•••
反省材料も多々ある内容でした•••
さぁ•••
次も頑張れ〜•••
応援してますよ〜•••
伝統校といえば•••
甲子園春夏通算•••
50回を誇る早稲田実業と•••
37回を誇る日大三高である•••
戦前の東京都は•••
慶応と早稲田実業が•••
甲子園出場を2分していたが•••
第3の顔として•••
日大三高が割って入った•••
その後•••
慶応が神奈川県へ移転した為•••
日大三高と•••
早稲田実業の2校が•••
東京都の伝統校となる•••
戦前からの•••
ライバル校である両校は•••
数々の名勝負を•••
繰り広げてきています•••
近年の両校の対戦で•••
強く印象に残っているのは•••
2006年
夏の西東京都大会決勝
早稲田実業 5-4 日大三高
(早稲田実業 斎藤佑樹投手)
2011年
夏の西東京都大会決勝
日大三高 2-1 早稲田実業
(日大三高 吉永健太郎投手)
2017年
春季大会決勝
早稲田実業 18-17 日大三高
(早稲田実業 清宮選手、野村選手)
(日大三高 桜井投手)
自分の中ではこの3試合•••
春季大会の決勝戦は•••
初のナイター開催と•••
となった注目の一戦で•••
試合は延長12回までもつれ込み•••
清宮選手や•••
野村選手を要する早実打線と•••
日大三高の投打の•••
中心であった桜井選手が•••
がっぷりと組み合った試合で•••
何と本塁打が7本も飛び出す•••
歴史的乱打戦は凄かったですね•••
日大三高と早実は夏の決勝戦では過去に4度対戦をし、34、35、06年に早実が勝ち、11年は日大三高が勝った。06年の早実は延長11回5-4で日大三高にサヨナラ勝ちをし斎藤佑樹投手(元日本ハム)は3時間48分の死闘で221球を力投。11年は高山俊(現阪神)横尾俊建(現東北楽天)らの日大三高が2-1で勝利
プレイバック
早実の連続甲子園出場が続いていた昭和30年夏、並木選手(元阪神)を有する日大三高は準決勝で早実に大逆転を演じ東京都大会を制し甲子園に出場し、翌昭和31年のセンバツにも出場した。しかし、その直後の春季大会で早実の王投手(1年)に敗退をし、その後は早実の甲子園4季連続出場へと続く
早実は1915年に開催された第1回の甲子園(全国中等学校優勝野球大会)にも出場を果たしている(当時はたった10校で争われた)
日大三高は本来1918年に創部されているが当時は私立赤坂中学校という校名。日本大学へと経営が移されたのが1929年であることから1正式な創部は1929年とされており1938年の春夏と甲子園初出場
名将•••
小倉全由前監督から•••
三高野球を託された三木有造監督•••
26年間•••
小倉監督の下で•••
小倉野球を育んできた男•••
監督就任前まで•••
東京都高野連の理事を務め•••
海外活動をも•••
担当していた経緯から•••
インドネシアにも数回来訪•••
当時、三木監督は•••
“小倉を守り抜くと”
自分にも公言をして•••
いたほど男気がある人間です•••
日大三高の監督ともなれば•••
“勝たなくてならないていう”
もの凄い重圧が•••
のしかかってきます•••
しかし•••
26年間も小倉前監督と•••
一緒にやってきたという事は•••
小倉野球🟰三木野球が•••
基本部分となっていると察します•••
そして•••
三木監督自身の•••
色を加えていきながら•••
新しい日大三高の•••
野球を構築すればいい•••
OBとして•••
また三木有造•••
という人間を知る者として•••
三木監督そして•••
三木野球を全面的に応援します•••
でも•••
以前から自分が掲げる•••
木製バットでの•••
全国制覇に挑むという•••
最超次世代高校野球は•••
現状の高校野球を見渡しても•••
まだまだ•••
実現はしそうにないですね•••
今後の楽しみ•••
としてとっておきます•••
でも•••
墓場までは•••
持って行かせ•••
ないでくださいね•••
小倉前監督と一緒に「監督はより厳しく、選手はより忍耐強く」という姿勢で野球に向かい合い勝つための絶対条件としての管理野球、個性を抑え付け、チーム全体の底上げを最前提に掲げた指導方法から選手個々の「感性」を重視した三高野球を再建してきた三木監督に期待してます❕
ちょっと•••
自分たちの時を回想して•••
西東京都大会の•••
決勝戦が7月30日•••
優勝をした後•••
バスに乗り込んで•••
赤坂へ直行•••
6丁目の本通りを•••
パレードをしてから•••
旧校舎近くの氷川神社へ•••
そうなんです•••
学校が赤坂から町田移転して•••
まだ4年目だったこともあって•••
日大三高といえば•••
やはり赤坂だった時代•••
町田の•••
日大三高合宿時へ帰寮し•••
熱闘甲子園の•••
電話インタビューが•••
あったりと多忙な1日でした•••
翌日から甲子園へ•••
出発するまでの全体練習は•••
午前中が我々•••
甲子園出場組みの練習で•••
その後に下級生が•••
練習という感じでした•••
町田市役所への•••
優勝報告の訪問やら•••
メーカーさんと•••
ユニフォーム合わせやら•••
甲子園出発までの•••
日々はあっという間に過ぎ•••
あたふたしながら•••
新幹線に乗り込んだものです•••
我々の時は•••
夏の甲子園出場は•••
実に17年振りであり•••
センバツ出場からも•••
5年間遠ざかっていました•••
ですから•••
小枝監督はじめ•••
小倉コーチや川俣コーチ•••
段取りがかなり•••
大変だったと思います•••
我々の代は•••
秋にゴールド負け•••
春もあわやのゴールド負けで•••
三高野球部創設•••
以来の弱小チームと言われ•••
関根潤三先輩や•••
根本陸夫先輩らが•••
夏の大会まで頻繁に•••
三高のグランドに来られてました•••
弱小チームは•••
運とツキだけで•••
甲子園出場まで駆け上がった•••
それが我々1979年の日大三高です•••