6代目 田口周監督
昭和35年-昭和38年
田口周監督(前列右下)-あたリ前のことを あたり前にやれ!
藤田省三監督による1つめの工程
そして星川恒雄監督による2つめの工程に次いで
6代目の田口周先輩が3つめの工程として注入されたのが「緻密なデータ野球」になります
今でこそ「ID(インポートデータ)」と言う言葉が有名になっていますが
掻い摘んでいってしまうと昭和30年前半の時代に日大三高は田口周監督によって
「ID野球」を取り入れていたのです
また驚くことにV9を達成した
川上哲治監督率いる巨人軍より数年前に田口周監督は
既に「ドジャース戦法」を取り入れたのである
更には
トレーニング関係では「サーキットトレーニング」をも取り入れて
日本で1番最初に高校野球に画期的な野球を取り入れた凄い方なのです
守備におけるフォーメーション
攻撃方法及び作戦、試合での投手起用法
精神面を含めた心理的要素、データ面から見た分析論など
緻密な過ぎるくらいの内容で、サインに至っては当時、やはり、まだプロ野球でも
あまり使われていない全く新しい「ブロックサイン」に変更されていたのです
これらドジャース戦法の例を挙げて簡単に纏めると
現在、守備体型のフォーメーションで使用している1塁手のカバーリング、カットプレーでの動き
投手起用でのリリーフ、ストッパーなどの分業制など・・・
突起したサインではカウントによる自動的ヒット&ランのサイン
捕手からの守備体型サイン、トリックプレイなどで、当時の日大三高は攻撃と守備のサイン数が80を超えていたのです。
以上の全てが田口周監督によって導入されたドジャース戦法です
※実際「80個」を超えるサインを完璧に覚えるのは至難の業です。
特にキャッチャーにとってはキツイものです。自分達の時代(1979年)でも「80」という数字を追った記憶はありません
さぞかし、田口周監督の時代とその下の数代の先輩方々は大変だったと思います
第34回センバツ大会準優勝
先頭が鈴木康夫先輩、2番目が萩原宏久先輩、3番目が賠償晃先輩
決勝では八木沢投手を擁する作新学院に「1-0」で惜敗
この全貌を屈指した結果が就任3年目の昭和37年、第34回春のセンバツでの準優勝になります。
このセンバツ大会の試合でドジャース戦法の新しいフォーメーションをはじめとした「田口周三高野球」を甲子園で披露したのです
田口周監督の3年計画の初年度にあたるチームで
1年の秋の新人チームの時から7人がレギュラーをもらい「勝たねばならない」という
伝統校使命から田口周監督による非常な選択を施したのだった
3番打者の賠償晃先輩は甲子園では4割9分の高打率をマークした。
また、賠償晃先輩は女優の賠償千恵子さん・美津子さんの弟さんです。
センバツ大会では賠償千恵子さんが日大三高の宿舎「小西旅館」に激励に訪れたのですが
マスコミが殺到したため姉弟の対面はかなわなかったというエピソードもあります
このセンバツ出場をかけた前年秋の東京都秋季大会準決勝でも宿敵早実とガチンコの激突をしているのです
8回裏まで「3-0」と早実にリードされていたのですが、同点にもちこみ日没再試合で勝利・・・
どうして何時も早実とはこうなるんだろう(冷汗”)
続く夏の甲子園にも出場をし、ベスト8進出を果たしている。
日大三高の球史を分析すると
藤田省三監督が基礎を作り、星川恒雄監督が追求に努め、田口周監督によって実を成した流れになります
ある意味
この田口周監督時代をもって
既に完成要素の注入が完了し近代野球の基本的部分が構築されたと言えます。
言葉を変えれば、今日の野球の形が形成されたと言っても過言ではありません
そして
驚くべき点は
その時期が昭和30年代前半の早期段階でだったと言うことです
更に
その後の野球界を動かす根本陸夫先輩、田口周先輩という2大巨頭がいらしたことも・・・
田口周監督時代での有名な選手は
昭和37年度卒の萩原宏久先輩(元日大三高監督・読売ジャイアンツチーフトレーナー)と鈴木康夫先輩(元日大三高監督)
そして
昭和39年度卒の大橋穣先輩(元東映・阪急・中日・ヤクルト)の諸先輩方々になります
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昭和35年-昭和38年
田口周監督(前列右下)-あたリ前のことを あたり前にやれ!
藤田省三監督による1つめの工程
そして星川恒雄監督による2つめの工程に次いで
6代目の田口周先輩が3つめの工程として注入されたのが「緻密なデータ野球」になります
今でこそ「ID(インポートデータ)」と言う言葉が有名になっていますが
掻い摘んでいってしまうと昭和30年前半の時代に日大三高は田口周監督によって
「ID野球」を取り入れていたのです
また驚くことにV9を達成した
川上哲治監督率いる巨人軍より数年前に田口周監督は
既に「ドジャース戦法」を取り入れたのである
更には
トレーニング関係では「サーキットトレーニング」をも取り入れて
日本で1番最初に高校野球に画期的な野球を取り入れた凄い方なのです
守備におけるフォーメーション
攻撃方法及び作戦、試合での投手起用法
精神面を含めた心理的要素、データ面から見た分析論など
緻密な過ぎるくらいの内容で、サインに至っては当時、やはり、まだプロ野球でも
あまり使われていない全く新しい「ブロックサイン」に変更されていたのです
これらドジャース戦法の例を挙げて簡単に纏めると
現在、守備体型のフォーメーションで使用している1塁手のカバーリング、カットプレーでの動き
投手起用でのリリーフ、ストッパーなどの分業制など・・・
突起したサインではカウントによる自動的ヒット&ランのサイン
捕手からの守備体型サイン、トリックプレイなどで、当時の日大三高は攻撃と守備のサイン数が80を超えていたのです。
以上の全てが田口周監督によって導入されたドジャース戦法です
※実際「80個」を超えるサインを完璧に覚えるのは至難の業です。
特にキャッチャーにとってはキツイものです。自分達の時代(1979年)でも「80」という数字を追った記憶はありません
さぞかし、田口周監督の時代とその下の数代の先輩方々は大変だったと思います
第34回センバツ大会準優勝
先頭が鈴木康夫先輩、2番目が萩原宏久先輩、3番目が賠償晃先輩
決勝では八木沢投手を擁する作新学院に「1-0」で惜敗
この全貌を屈指した結果が就任3年目の昭和37年、第34回春のセンバツでの準優勝になります。
このセンバツ大会の試合でドジャース戦法の新しいフォーメーションをはじめとした「田口周三高野球」を甲子園で披露したのです
田口周監督の3年計画の初年度にあたるチームで
1年の秋の新人チームの時から7人がレギュラーをもらい「勝たねばならない」という
伝統校使命から田口周監督による非常な選択を施したのだった
3番打者の賠償晃先輩は甲子園では4割9分の高打率をマークした。
また、賠償晃先輩は女優の賠償千恵子さん・美津子さんの弟さんです。
センバツ大会では賠償千恵子さんが日大三高の宿舎「小西旅館」に激励に訪れたのですが
マスコミが殺到したため姉弟の対面はかなわなかったというエピソードもあります
このセンバツ出場をかけた前年秋の東京都秋季大会準決勝でも宿敵早実とガチンコの激突をしているのです
8回裏まで「3-0」と早実にリードされていたのですが、同点にもちこみ日没再試合で勝利・・・
どうして何時も早実とはこうなるんだろう(冷汗”)
続く夏の甲子園にも出場をし、ベスト8進出を果たしている。
日大三高の球史を分析すると
藤田省三監督が基礎を作り、星川恒雄監督が追求に努め、田口周監督によって実を成した流れになります
ある意味
この田口周監督時代をもって
既に完成要素の注入が完了し近代野球の基本的部分が構築されたと言えます。
言葉を変えれば、今日の野球の形が形成されたと言っても過言ではありません
そして
驚くべき点は
その時期が昭和30年代前半の早期段階でだったと言うことです
更に
その後の野球界を動かす根本陸夫先輩、田口周先輩という2大巨頭がいらしたことも・・・
田口周監督時代での有名な選手は
昭和37年度卒の萩原宏久先輩(元日大三高監督・読売ジャイアンツチーフトレーナー)と鈴木康夫先輩(元日大三高監督)
そして
昭和39年度卒の大橋穣先輩(元東映・阪急・中日・ヤクルト)の諸先輩方々になります
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