4代目 星川恒雄監督
昭和25年ー昭和33年

前列左端が星川恒雄監督
根本陸夫先輩と関根潤三先輩の話から日大三高校歴代監督の話に戻ります
日大三高野球部2つめの工程は
この4代目の星川恒雄先輩によって行なわれました
初代、藤田省三監督の教えを継承し「近代野球論の研究と実施」を注入されたのです
この成果として昭和26年には独自の野球指導書を発行されました
また、この野球指導書は何代かにわたって改良が加えられ、後に東大野球部部長をされた神田順治先生の監修により
「学生野球」という本になったのです。「学生野球」はベースボールマガジン社から発行され、当時の「野球理論のバイブル」と
称された書物です
星川恒雄先輩は昭和25年に監督に就任され甲子園出場を目指し長期計画を描かれたのでした
その中で、技術の向上には基本理論の習得が必要と考えられ指導書を作成し理論を学ぶことで
考える野球をテーマとし全員野球を施したのです。また、ミーティングでは筆記試験なども行いました

星川恒雄監督著「野球の理論書」ガリ版刷の原本
その「まえがき」の1部を引用してみると・・・
「実践と理論が一致しても、それに精神が伴わなくてはならない
ボールは己の魂である。ボールを魂として取り扱わないと諸君達は野球を通して何らかの体験を得
諸君達の人格を磨き、向上完成させる修行の道場が練習場であることを、又、野球部ははかなる目的のためにあることを承認されたい
三高野球を球遊びの場として考えてはならない。修行の場となるが故に楽はない。苦難の道である
しかしその苦難の道にこそ勝利に通じる道があることを知れ、苦難の道をいとうものは三高野球部から立ち去るがよい」
とあり指導書は「打撃、走塁、バント、作戦、コーチング」によって構成されています
また
昭和28年ころからコーチとして田口周先輩(昭和26年度卒、元ヤクルト球団社長)が参謀として
コーチに加わったことも大きく、試合での戦略、また先に記した学生野球書の改良等にも田口周先輩の
お力が多大に加わっていたのです
この様に、星川恒雄先輩から田口周先輩へと受け繋がれながら徹底的に野球の理論が追及されて行ったのです
星川恒雄監督談
「藤田さんは、近代野球というか新しい理論や技術を持ち込んできたけれど、昔習った野球とはちがっていました
理論面が先行しているから難解なところがあって、理解するには苦労しました。打球が全然前に飛ばないのだから・・・
雑誌に出ていたルーゲーリックやベーブルースなどの連続写真を集めて毎日のように田口や榎本(昭和27年度卒)と論議しました
そこで気が付いたのは、一人一人のフォームは個性的でそれぞれ違うように見えるけど、連続写真を重ねていくと必ず共通点があることです
その共通点が理論であり、基本につながるということに気が付いたんです。これで藤田さんの言う理屈(理論)が、ある程度理解できたのです}
この星川恒雄監督時代の有名な先輩と言えば、やはり筆頭に挙げられるのが根本陸夫先輩と同様に後のプロ野球界を動かすカリスマ的存在となる
田口周先輩(昭和26年度卒、元日大三高監督・ヤクルト二軍監督・ヤクルト球団社長)です

中央が田口周先輩
そして、戦後初の春夏連続甲子園出場を果たした昭和27年度卒の若林輝明先輩(元近鉄・日大三高監督)

若林輝明先輩ー甲子園にて
また、昭和32年度卒で阪神タイガースへ入団された並木輝男先輩(元阪神、ロッテ)です。

写真中央が並木輝男先輩ー甲子園にて

阪神タイガース時代の並木輝男先輩
並木輝男先輩の在学中での星川恒雄監督による
1点差の攻防を重視した練習、藤田省三初代監督同様にミーティングを重要視した
理論やフォーメーションの研究知的頭脳野球等が開花したのです
この成果は日大三高にとって名門校として名を高めた重要な要素を含む2つめの工程だったのです

コーチ時代の田口周先輩(スーツ姿)、田口周先輩の右お隣が並木輝男先輩です

昭和30年の夏、昭和31年のセンバツと甲子園へ出場
そして、昭和31年には念願の自校グランドが調布市菊野台)に創設され、鎌田彦一先生のお名前から「鎌田球場」と命名されたのでした


グランド脇の野球部合宿所、2階の左部分(部屋)が鎌田彦一先生専用のお部屋

2階の専用のお部屋から毎日、練習を見届けられた鎌田彦一先生

しかし
昭和31年のセンバツ出場後
東京に、日本プロ野球史、いや、世界にまでその名声をとどろかせた
1人の選手が高校に入学して来ました
この選手の出現によって
昭和34年のセンバツまで
日大三高は甲子園出場の道を閉ざされてしまったのです””
その野球選手とは
・・・早実1年生「王貞治投手」だったのです
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昭和25年ー昭和33年

前列左端が星川恒雄監督
根本陸夫先輩と関根潤三先輩の話から日大三高校歴代監督の話に戻ります
日大三高野球部2つめの工程は
この4代目の星川恒雄先輩によって行なわれました
初代、藤田省三監督の教えを継承し「近代野球論の研究と実施」を注入されたのです
この成果として昭和26年には独自の野球指導書を発行されました
また、この野球指導書は何代かにわたって改良が加えられ、後に東大野球部部長をされた神田順治先生の監修により
「学生野球」という本になったのです。「学生野球」はベースボールマガジン社から発行され、当時の「野球理論のバイブル」と
称された書物です
星川恒雄先輩は昭和25年に監督に就任され甲子園出場を目指し長期計画を描かれたのでした
その中で、技術の向上には基本理論の習得が必要と考えられ指導書を作成し理論を学ぶことで
考える野球をテーマとし全員野球を施したのです。また、ミーティングでは筆記試験なども行いました

星川恒雄監督著「野球の理論書」ガリ版刷の原本
その「まえがき」の1部を引用してみると・・・
「実践と理論が一致しても、それに精神が伴わなくてはならない
ボールは己の魂である。ボールを魂として取り扱わないと諸君達は野球を通して何らかの体験を得
諸君達の人格を磨き、向上完成させる修行の道場が練習場であることを、又、野球部ははかなる目的のためにあることを承認されたい
三高野球を球遊びの場として考えてはならない。修行の場となるが故に楽はない。苦難の道である
しかしその苦難の道にこそ勝利に通じる道があることを知れ、苦難の道をいとうものは三高野球部から立ち去るがよい」
とあり指導書は「打撃、走塁、バント、作戦、コーチング」によって構成されています
また
昭和28年ころからコーチとして田口周先輩(昭和26年度卒、元ヤクルト球団社長)が参謀として
コーチに加わったことも大きく、試合での戦略、また先に記した学生野球書の改良等にも田口周先輩の
お力が多大に加わっていたのです
この様に、星川恒雄先輩から田口周先輩へと受け繋がれながら徹底的に野球の理論が追及されて行ったのです
星川恒雄監督談
「藤田さんは、近代野球というか新しい理論や技術を持ち込んできたけれど、昔習った野球とはちがっていました
理論面が先行しているから難解なところがあって、理解するには苦労しました。打球が全然前に飛ばないのだから・・・
雑誌に出ていたルーゲーリックやベーブルースなどの連続写真を集めて毎日のように田口や榎本(昭和27年度卒)と論議しました
そこで気が付いたのは、一人一人のフォームは個性的でそれぞれ違うように見えるけど、連続写真を重ねていくと必ず共通点があることです
その共通点が理論であり、基本につながるということに気が付いたんです。これで藤田さんの言う理屈(理論)が、ある程度理解できたのです}
この星川恒雄監督時代の有名な先輩と言えば、やはり筆頭に挙げられるのが根本陸夫先輩と同様に後のプロ野球界を動かすカリスマ的存在となる
田口周先輩(昭和26年度卒、元日大三高監督・ヤクルト二軍監督・ヤクルト球団社長)です

中央が田口周先輩
そして、戦後初の春夏連続甲子園出場を果たした昭和27年度卒の若林輝明先輩(元近鉄・日大三高監督)

若林輝明先輩ー甲子園にて
また、昭和32年度卒で阪神タイガースへ入団された並木輝男先輩(元阪神、ロッテ)です。

写真中央が並木輝男先輩ー甲子園にて

阪神タイガース時代の並木輝男先輩
並木輝男先輩の在学中での星川恒雄監督による
1点差の攻防を重視した練習、藤田省三初代監督同様にミーティングを重要視した
理論やフォーメーションの研究知的頭脳野球等が開花したのです
この成果は日大三高にとって名門校として名を高めた重要な要素を含む2つめの工程だったのです

コーチ時代の田口周先輩(スーツ姿)、田口周先輩の右お隣が並木輝男先輩です

昭和30年の夏、昭和31年のセンバツと甲子園へ出場
そして、昭和31年には念願の自校グランドが調布市菊野台)に創設され、鎌田彦一先生のお名前から「鎌田球場」と命名されたのでした


グランド脇の野球部合宿所、2階の左部分(部屋)が鎌田彦一先生専用のお部屋

2階の専用のお部屋から毎日、練習を見届けられた鎌田彦一先生

しかし
昭和31年のセンバツ出場後
東京に、日本プロ野球史、いや、世界にまでその名声をとどろかせた
1人の選手が高校に入学して来ました
この選手の出現によって
昭和34年のセンバツまで
日大三高は甲子園出場の道を閉ざされてしまったのです””
その野球選手とは
・・・早実1年生「王貞治投手」だったのです
