元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

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偉大なる大先輩 「関根潤三先輩」と「根本陸夫先輩」

2011年10月14日 21時04分45秒 | 日大三高校野球部 小球史
「2代目 根本陸夫監督」と
題して根本陸夫先輩に触れさせて頂いたのですが

根本陸夫先輩のお名前が出ますと
どうしても日大三高野球部OBとしては関根潤三先輩のお名前が浮かんでしまうのです

「次代の監督」に移行する前に
先に、この場をお借りして、関根潤三先輩と根本陸夫先輩のご関係ついて触れてみたいと思います

我々後輩として
後々のプロ野球界を牽引される偉大なる関根潤三先輩と根本陸夫先輩が
日大三中野球部をご卒業なさられていらっしゃられることに大変な誇りを感じると共に、
藤田省三初代監督、関根順三先輩、根本陸夫先輩という3人の巨頭のめぐり合わせに驚きを隠せません

このめぐり合わせは日大三中から法政大学
そして近鉄パールズまでご一緒だった・・・と言うことにも驚くばかりです


日大三中時代からバッテリーを組んでおられた関根潤三先輩と根本陸夫先輩は、共に野球殿堂入りなされていらっしゃいます。


我が日大三高校野球部は野球部OB会による
「新年総会」というものが毎年行なわれています。
開催日も毎年「1月の第4週目の土曜日」に固定れています

この新年総会での1番の楽しみは
関根潤三先輩と根本陸夫先輩による「漫談」に近い「トークショー」です・・・

「そう言えば 根本~ 昔さぁ・・・」と、言う関根順三先輩の出だしから始まり、
「いやぁ~ 関根先輩~・・・」と、根本陸夫先輩からの合い返しが繰り広げられるのです。
息の合ったお二人の絶妙な「トーク」に会場は爆笑の渦に包まれたものです

特に自分達の1980年度卒業組みは
1学年上と1学年下に根本陸夫先輩のご子息様が在籍しており
日大三高へ頻繁にお顔を出して頂きました

そんな根本陸夫先輩からは1年生の時に
「あのキャッチャーは誰だ?なかなか良いじゃないか」と
当時の首脳陣に話されたことを覚えています・・・
{うひゃぁ~ この時は、嬉しくて心の中で叫んでいました(大笑)}



関根潤三先輩に至られては
夏の西東京都大会前の壮行会に来て頂き激励のスピーチを頂き
また西東京都大会で桜美林戦の後だったと記憶してますが試合後に
「このチームは甲子園でベスト8まで行く力をもっているから、頑張れ!」
と突拍子もないお言葉を頂いたことを覚えています。
・・・{そのお言葉に調子づいて甲子園出場です(大笑)}

でわ、簡単ですが、関根潤三先輩と根本陸夫先輩について記させて頂きます。



「関根潤三先輩」
日大三中では球界の仕掛け人と呼ばれることになる2年後輩の根本陸夫先輩とバッテリーを組み
藤田省三監督に指導を受けた。法政大学でも日大から編入された根本陸夫先輩とバッテリーを組み
史上5位の41勝30敗を記録し、打者としても4番を打った
3年秋には9勝1敗を記録して法政大学を戦後初優勝に導く。4年秋には六大学史上最多の133.1投球回を記録している

法政大を卒業後は八幡製鉄に入社予定でプロには興味がなかった
だが日大三中、法政大と指導を受けた藤田省三監督が近鉄パールズの初代監督に決まり
藤田省三監督から「お前はまだ人間が出来ておらん。俺はプロへ行くから、お前も来い」と誘われ
藤田省三督に心酔していた関根潤三先輩は「藤田省三監督に言われちゃ、しょうがねえな」と近鉄パールズ入りを決めた
(根本陸夫先輩も2年後に近鉄パールズに入団されている)

プロ野球をなめていたという関根潤三先輩はキャンプを10日ほどしか行なわずシーズンインした
すると開幕直後に肩を痛めてストレートが走らなくなった
変化球投手となった関根潤三先輩は期待された初年度を4勝12敗で終えることになる
だがその一方で129打数32安打で4本塁打、21打点を記録するなど打撃が認められて投手として26試合に登板する一方で
一塁手としても13試合に出場した。1953年には初の二桁となる10勝15敗を記録しオールスターにも選ばれた

翌1954年には自己最多の16勝12敗で防御率2.44を記録。55年にも14勝16敗を記録し、1956年も9勝11敗と結果を残したが
1957年の開幕2戦目で自分の信じていた内角低めのストレートを完璧に打たれた関根潤三先輩は投手に限界を感じてかねてから
首脳陣から要請されていた打者転向を決意

転向の条件として「クリーンナップでの起用」を上げた関根潤三先輩は、翌日の試合に5番で起用されて3安打を放つと
その後も2安打、3安打と快打を続けて一時はリーグトップの打率も記録した

1959年には打率.291を記録して野手としてオールスターに選出され
投手、野手の両方でオールスターに選ばれた唯一の選手になった(投手1回、野手4回)

その後、将来の希望として指導者となることを藤田省三監督に相談
藤田省三監督からは「良いところがあるぞ、指導者になるにあたって勉強になるから見てこい」
と言われ、65年に巨人に移籍し5番を打つ

1970年に広島東洋カープの監督を務めていた根本陸夫先輩に呼ばれて広島東洋カープのヘッドコーチに就任
山本浩二、衣笠を始めとした広島黄金時代の主力たちを育て上げた

単身赴任で合宿所に住んだ関根潤三先輩は
衣笠が夜遅く帰ってくると「さあキヌ、素振りでアルコールを抜くか」
と言って、合宿所前の道路で素振りをさせたというエピソードがある

1982年に大洋ホエールズの監督に就任すると現有戦力の掘り起こし
洗い直しをキーワードに1983年には優勝した巨人に勝ち越し4年ぶりにAクラス入りを果たす

1987年にヤクルトの球団社長を務めていた田口周先輩(日大三高野球部OB)の誘いで
ヤクルトスワローズの監督に就任し若手を育て上げ、その後、野村克也監督に受け渡す。

2003年に殿堂入りを果たす

“失敗しながら覚えさせる”“ゲーム中は怒らない”若手にチャンスを与える“が指導方針



「根本陸夫先輩」
日大三中から日大
そして法政大学に編入し
日本コロンビアを経て1952年に近鉄パールズに入団(捕手)
日大三中時代より2学年上の関根潤三先輩とバッテリーを組む

大学時代は銀座で暴れまくっていたという伝説もあるほど型破りであった

日大時代に痛めた肩が原因し1957年に近鉄パールズを退団
その後はスカウトを経て、1962年から1966年まで近鉄のコーチを務める
その後1967年広島東洋カープのコーチ、翌年の1968年に辞職した長谷川監督の公認として監督に就任
1972年で退任

1978年にクラウンライターライオンズの監督就任
真弓と田淵の交換トレードなどを行い
翌年1979年には西武鉄道がクラウンを買収し球団名が西武ライオンズに変更され同球団の初代監督となる

西武時代は他球団との大方トレード補強
また、森、松沼(兄)、松沼(弟)、石毛、杉本、秋山、などをドラフトで獲得し黄金期の基礎を築いた

1981年に監督を退任し翌年からは西武の管理部長に就任
ドラフトでは数々の有力選手を、そしてトレードでも、片平、高橋(直)、
江夏、田尾、鈴木(康)、平野、鹿取、中尾など、他球団でヤツ役した選手を獲得し西武黄金期を支えた

実質上球団経営にも携り、坂井球団代表(後のダイエー球団代表)と共に
1980年代の西武ライオンズを支える原動力ともなった

また、台湾の有名選手だった郭泰源を獲得し台湾球界とのパイプを作る

1993年福岡ドーム完成を機にダイエーの代表取締役兼監督に就任
監督として現場の指揮を執る一方、球団経営にも尽力
1994年で監督を退任し、王貞治を公認監督に招聘した

この間、小久保、城島、藤井、斉藤、井口、松中、などをドラフトで獲得しダイエー初優勝の土台を築いた
その後、1999年1月に球団社長に就任

しかし、就任3ヶ月後の4月30日に急性心筋梗塞のため死去(72歳)

パリーグ球団の人気実力の向上
日本シリーズでON対決、野球ワールドカップの実行などの実現を夢に抱き球界の仕掛け人と呼ばれた


関根潤三先輩(前列右から2番目)根本陸夫先輩(前列左から2番目)
ー昭和27年、戦後初のセンバツ出場の応援に駆け付けた時の写真ー

根本陸夫先輩におられましては
1999年に他界され我々日大三高野球部OBにとって
その悲しみは、とてつもなく大きいものであります

野球界全体にとっても・・・

そして、あの絶妙な新年総会での「漫談トークショー」も見られません

1番、悲しい思いをされていらっしゃるのは関根潤三先輩でおられるとお察し致します

偉大過ぎるほど素晴らしい
「関根潤三先輩」と「根本陸夫先輩」の後輩になれましたこと
心より誇りに思い、そして感謝致しております


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