藤田監督の指導のもと
昭和13年の春夏連続甲子園出場を果たし
翌年、昭和14年の春のセンバツにも2季連続出場を果たした
しかし
甲子園での初戦突破は未だに出来ず
この年も海南中に惜敗
昭和14年 春のセンバツ
日大三中 2-3 海南中
そして、6月から行なわれた夏の予選大会では順調に勝ち進み、決勝戦で帝京商と対戦したが6-9で敗退した
しかし、優勝した帝京商が選手登録の件で東京代表を辞退するということになり、日大三中が東京代表として甲子園に
出場すること決定したのであった
このビックニュースに当時のメンバーであった鬼頭先輩(元西鉄監督)をはじめ全員が手を取り合い肩を叩き合って喜んだ
しかし藤田監督だけは険しい表情をされていたのだ
そして、この時の藤田監督のお言葉は・・・
「せっかくだが今回の甲子園行きは辞退しようと思う
君たちには残念なことだろうが、いま、甲子園へ出たところで何になろう
何年かかってもいいから自力で甲子園出場を果たそうではないか!借り物の優勝旗で甲子園に出場したくない
甲子園に出場することだけに野球部を作ったのではない!」・・・と
当時、日大三中2年に在学をされていた関根潤三先輩(元ヤクルト監督、大洋監督、現野球解説者)などがお聞きになっておられる
そして、この年の東京代表は早実が代わりに出場をしたのであった
甲子園出場の資格を得ながら、辞退する・・・
「自力で、なしとげろ!」
この時の藤田監督のお言葉は、野球を介した人間形成を意味し三高野球の奥の深い真髄として受け継がれるのである
そして、翌昭和15年夏、東京都代表決定戦で豊島商を破り夏の甲子園に出場している
後列左端が鬼頭先輩(元西鉄監督)、後列左から4番目が坂本先輩(元巨人)
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昭和13年の春夏連続甲子園出場を果たし
翌年、昭和14年の春のセンバツにも2季連続出場を果たした
しかし
甲子園での初戦突破は未だに出来ず
この年も海南中に惜敗
昭和14年 春のセンバツ
日大三中 2-3 海南中
そして、6月から行なわれた夏の予選大会では順調に勝ち進み、決勝戦で帝京商と対戦したが6-9で敗退した
しかし、優勝した帝京商が選手登録の件で東京代表を辞退するということになり、日大三中が東京代表として甲子園に
出場すること決定したのであった
このビックニュースに当時のメンバーであった鬼頭先輩(元西鉄監督)をはじめ全員が手を取り合い肩を叩き合って喜んだ
しかし藤田監督だけは険しい表情をされていたのだ
そして、この時の藤田監督のお言葉は・・・
「せっかくだが今回の甲子園行きは辞退しようと思う
君たちには残念なことだろうが、いま、甲子園へ出たところで何になろう
何年かかってもいいから自力で甲子園出場を果たそうではないか!借り物の優勝旗で甲子園に出場したくない
甲子園に出場することだけに野球部を作ったのではない!」・・・と
当時、日大三中2年に在学をされていた関根潤三先輩(元ヤクルト監督、大洋監督、現野球解説者)などがお聞きになっておられる
そして、この年の東京代表は早実が代わりに出場をしたのであった
甲子園出場の資格を得ながら、辞退する・・・
「自力で、なしとげろ!」
この時の藤田監督のお言葉は、野球を介した人間形成を意味し三高野球の奥の深い真髄として受け継がれるのである
そして、翌昭和15年夏、東京都代表決定戦で豊島商を破り夏の甲子園に出場している
後列左端が鬼頭先輩(元西鉄監督)、後列左から4番目が坂本先輩(元巨人)
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