元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

インドネシア野球、アジア途上国の野球、国際大会、日本のアマチュア野球、プロ野球情報、日大三高時代の面白エピソードを発信

日大三高野球部史 甲子園出場辞退?

2011年10月12日 20時52分05秒 | 日大三高校野球部 小球史
藤田監督の指導のもと
昭和13年の春夏連続甲子園出場を果たし
翌年、昭和14年の春のセンバツにも2季連続出場を果たした

しかし
甲子園での初戦突破は未だに出来ず
この年も海南中に惜敗

昭和14年 春のセンバツ
日大三中 2-3 海南中

そして、6月から行なわれた夏の予選大会では順調に勝ち進み、決勝戦で帝京商と対戦したが6-9で敗退した
しかし、優勝した帝京商が選手登録の件で東京代表を辞退するということになり、日大三中が東京代表として甲子園に
出場すること決定したのであった

このビックニュースに当時のメンバーであった鬼頭先輩(元西鉄監督)をはじめ全員が手を取り合い肩を叩き合って喜んだ
しかし藤田監督だけは険しい表情をされていたのだ

そして、この時の藤田監督のお言葉は・・・
「せっかくだが今回の甲子園行きは辞退しようと思う
君たちには残念なことだろうが、いま、甲子園へ出たところで何になろう
何年かかってもいいから自力で甲子園出場を果たそうではないか!借り物の優勝旗で甲子園に出場したくない
甲子園に出場することだけに野球部を作ったのではない!」・・・と
当時、日大三中2年に在学をされていた関根潤三先輩(元ヤクルト監督、大洋監督、現野球解説者)などがお聞きになっておられる

そして、この年の東京代表は早実が代わりに出場をしたのであった

甲子園出場の資格を得ながら、辞退する・・・
「自力で、なしとげろ!」

この時の藤田監督のお言葉は、野球を介した人間形成を意味し三高野球の奥の深い真髄として受け継がれるのである
そして、翌昭和15年夏、東京都代表決定戦で豊島商を破り夏の甲子園に出場している


後列左端が鬼頭先輩(元西鉄監督)、後列左から4番目が坂本先輩(元巨人)


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日大三高野球部史 初代 藤田省三監督

2011年10月12日 20時39分00秒 | 日大三高校野球部 小球史
日大三高野球部の球史の中で最も斬新、かつ先見性をも含み
今日の日大三高野球部の基礎を確立したのが昭和10年(球史記録上)に
鎌田彦一先生が招聘された藤田省三監督である

藤田監督の簡単なプロフィールとしては・・・

明治4年4月25日、中国天津で生まれる
小学校2年の時に神戸に住み西宮の甲南中学出身
その後、法政大学へ、法政大学時代には主将でキャッチャーを務められ
日大三中野球監督に就任される前は六大学野球の審判をされていた
27歳で日大三中監督に就任

当時の早大、飛田先生の野球道を伝承され理論と精神を説かれた


日大三中監督の後は昭和16年春より法政大学の監督に就任
昭和23年秋には関根潤三投手を擁して戦後初のリーグ優勝を遂げた

昭和25年春に新しく発足した新リーグ近鉄パールズ球団初代監督に就任
関根潤三先輩、坂本茂先輩、山下譲先輩、根本陸夫先輩、鬼頭政一先輩、若林輝明先輩など日大三中ファミリーが入団

昭和28年、近鉄パールズ球団退団後は広島東洋カープ非常勤コーチを務め、日大三高、法政大学、甲南高校、堀越高校
などをも指導された、後年、元読売ジャイアンツの江川卓投手の陰のコーチとして法政大学時代より指導をされた・・・


(昭和13年度卒業の先輩方々、中段左端のスーツを着ておられるのが藤田省三監督)

その藤田監督が日大三中野球部に注入された教えが「精神野球」と「近代野球」である

精神野球は
当時は学生野球が全盛の時代で「学生の純粋なプレーの中に野球の真髄がある」と言う
日本人に合った精神論が支配していた時代であり、この精神を日大三中に注入していったのである

藤田監督に代表する有名台紙は・・・
「優勝を独占している早実や慶応に勝つためには、3倍の練習が必要である」
「体で捕れなければ、口で捕れ!」この言葉とおり、すざまじい練習だった

近代野球については
野球の理論を熱心に探求され、それまで体の前で叩くような打法では無く
現在の元となる「腰を軸とした打撃」に変貌させた。野球に理論を持ち込んだのである

そして
あらゆる理論を試したのが日大三中だったのです

当時は専用グランドも無く
練習場所は月島の東京市営球場、多摩川河原のグランド、新井薬師の法大グランドなどを転々としていた

そして、昭和13年には悲願の春のセンバツに出場、この夏も甲子園に出場をし、春夏連続出場を果たすのであった
早実、慶応に次ぐ「東京第3の顔」として日大三中に注目が集りだしたのである

昭和13年 春のセンバツ
日大三中 7-8 滝川中(
滝川中のエースは元巨人の別所投手)

昭和13年 夏の甲子園
日大三中 1-7 下関商


↑昭和13年センバツ大会↓


※この頃の春のセンバツ出場については、前年秋の練習試合の勝敗成績と学校の品位等が選考の対象となっていた
 この年の秋の成績は13勝0敗

※現在に至るユニフォームのデザインも、昭和10年ころまで「SANCHU」と言う花文字、また「N」の花文字だったものを
 現在の「校章をあしらった胸マーク」「帽子」「3本ラインのストッキング」に変更したのも藤田監督であった


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日大三高野球部史 三高野球の父 鎌田彦一先生

2011年10月12日 20時08分11秒 | 日大三高校野球部 小球史
日大三高野球部を語るにあたって、
まず最初にご紹介しなければならないお方が・・・

「鎌田彦一先生」です


鎌田彦一先生は、大学野球や職業野球には見事なまでに無関心で、
日大三高の野球だけを愛し、育て続けた「三高野球の父」であられます

明治19年1月21日、弘前市在府町にて出生
津軽藩士の家にお生まれになった鎌田彦一先生は、祖母から厳しいしつけを受けられ
古武士の痛覚をお持ちの方でした

そして一面では純粋で天真爛漫な性格
しかし、勝負に対する「勝つか負けるか」と言う気迫はもの凄かったお方です

偉大な鎌田彦一先生について、これ以上、自分がものを言うような資格はありません。

その鎌田彦一先生の「忘れえぬお言葉」として
大先輩である関根潤三先輩が次のようなお話をされていらっしゃいます・・・

「昭和18年頃から大東亜戦争も日一日と激しさを加え、5年生になった時には全国野球大会も中止になってしまった
最大の目的を失って呆然となっている我々に例年通り合宿練習をさせてくれたのは我が日大三中だけで
他校は敵性スポーツと言うことと用具不足で殆ど解散をしていた
その合宿練習の時の鎌田先生の訓示が今でも忘れなれないのである

{全国大会がなくなったが合宿練習はやらせる
甲子園に出場するのが野球部の1つの目的ではあるけれども、ただそれだけではない!
大目的は野球を通じて人間を造ることにある
勉強の延長として諸君はこの暑い真夏のグランドで心身を鍛えてもらいたい
そして、この合宿練習を最後として野球部は一時休部するが、これは決して解散ではない!
できるようになればただちに復活させる
いいか!解散じゃないぞ!我が日大三中野球部に解散はない。間違うな!}

野球をやるも者を国賊扱いしていたあの頃
この訓示は心から野球を愛しつづけた鎌田彦一先生の面目躍如たるものがあった」



選手諸子よ毎回の試合に無念無想
全力を傾注し玉砕的三高精神を発揮し
最後の五分間まで検討せよ
(昭和27年3月末日 鎌田彦一/甲子園にて)

そして
三高野球の父である鎌田彦一先生の野球に対する情熱と教育の一環としての野球理念を
理解され鎌田イズムとしてとらえ継承された

長年にわたって野球部長として部の運営と選手の育成にあたられたのが「桑野卓先生」です

この方も三高野球の球史の中でお忘れすることは出来ません
三高野球の母と位置つけられているお方です

明治35年、久留米市出身。



「三高野球部よ 永遠に栄光あれ」
(桑野卓)


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日大三高野球部小球史 創成期

2011年10月12日 18時47分16秒 | 日大三高校野球部 小球史
2011年
日大三高の3冠達成と言う素晴らしい偉業に際し
この機に日大三高野球部の歴史に触れて見たいと思います

高校で野球をしていた方は
誰でもご自分の母校に1番の愛着があるものです

・・・自分もそんな一人なのですが(笑)

そんなことから少々
母校ビイキな部分があるかと思いますがその辺はお許し下さい


ー日大三高野球部史 創成期ー

昭和4年、現在の日大三高の前身である赤坂中学校の野球部が創設されました。


当時、東京の中学校球界は、東京中等校野球連盟の加盟校も8校で甲子園出場はリーグ戦にて決定しており、
この時代の東京代表は「早実」と「慶応普通部」が交互に甲子園へ出表をしていたのです

また、8校以外の新設校は連盟への加盟が出来ず、赤坂中学、攻玉社などが主となり東都中等校野球連盟が発足
翌年の昭和5年には両連盟の優勝校が甲子園出場をかけて試合を行い、勝った方が甲子園に出場をしたのです

昭和6年には両連盟が合併されて東京府中等学校連盟が設立されたのでした


当初、赤坂中学時代の成績は、昭和4年の東都中学校野球大会で準優勝しています
また、この時の試合は早大の戸塚球場で行なわれいます

昭和5年には日本大学第三中学に改称
そして昭和6年に日本大学から鎌田彦一先生が日本大学第三中学に着任され、日大三中野球部が創部されました


昭和6年から昭和12年までの日大三中の夏の予選成績は下記になります
昭和6年 準決勝 早実 0-10
昭和7年 準決勝 慶応商工 2-7
昭和8年 決勝  慶応商工 0-3
昭和9年 決勝  早実 2-8
昭和10年 決勝 早実 2-7
昭和11年 準々決勝 日大一 2-6
昭和12年 準々決勝 慶応商工 2-3


この写真は昭和6年頃のもので場所は田園調布グランドになります
左端はコーチをされていた小島さんです
そして胸のマークは花文字の「SANCHU」になります


昭和9年9月、第2回関東大会出場時の新聞記事


昭和10年度卒業の先輩部員の方々。後列の中央が安達部長先生
胸のマークは「N」の花文字に変更されています

また創成期の首脳陣は次のとおりです
昭和6年 部長 直井、辻川/コーチ 小島 
昭和7年 部長 安達/コーチ 小島
昭和8年 部長 安達/コーチ 小島
昭和9年 部長 安達/コーチ 小島、阿部
昭和10年 部長 安達/監督 藤田/コーチ 小島、阿部
昭和11年 部長 鮎澤/監督 藤田
昭和12年 部長 鮎澤/監督 藤田/コーチ 小島


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