元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

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7代目 14代目 青木久雄監督

2011年10月24日 16時41分17秒 | 日大三高校野球部 小球史
7代目、14代目 青木久雄監督
昭和39年―昭和41年
昭和59年―平成6年



日大三高野球部の球史の中で
2回に渡って監督を務められたのはこの青木久雄監督だけです

「人間青木」という代名詞が付くほど
人間教育にしっかりとした信念をお持ちになり人間味溢れる監督です

また
「ケースごとのテオリーと、その裏をかく・・・」と言う様な
「細やかな戦術」をお持ちの監督です

昭和41年に糸魚川商工への合宿遠征をされ糸魚川商工との交流を開始
この時の糸魚川商工のエース投手は関本四十四投手(元読売ジャイアンツ)でした

{青木監督には非常に感謝している}と、関本さんも述べておられます。


糸魚川商工の選手との記念写真


糸魚川商工での合宿練習の合間

そして、青木久雄監督の第1期時代には・・・
昭和40年卒の佐藤道郎先輩(元南海ホークス・他)


昭和42年卒の古賀正明先輩(元読売ジャイアンツ・大洋ホエールズ・他)


また、第2期時代には・・・
昭和62年卒の野林大樹(写真後列右端/元近鉄バッファローズ・広島東洋カープ・ヤクルトスワローズ)


昭和63年卒の桑 認 (写真後列右端/元近鉄バッファローズ)

・・・などの選手が輩出されています

尚、青木久雄監督は
第1期と第2期の途中に「二松学舎大付属高校」をも指揮され昭和57年のセンバツで準優勝をされておられます



自分たちが現役の時は
丁度、二松学舎高校の監督をされていて
西東京と東東京とで分かれてはいるのですが
「敵」という感覚でしかなかったのが正直なところです

二松学舎高校との練習試合が日大三高のグランドであり
試合後に送球動作についてアドバイスを頂いた記憶があります

その後
日大野球部のOB会で1度だけご一緒させて頂いたのみで
やはり、現役当時の「敵将」というイメージが強く自分にとっては
日大三高の先輩なのですが近寄りにくい監督さんです・・・(大笑)



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10代目 鈴木康夫監督

2011年10月24日 15時14分24秒 | 日大三高校野球部 小球史
10代目 鈴木康夫監督
昭和47年―昭和48年


前年の昭和46年
センバツを制した日大三高は翌昭和47年センバツにも出場した

まっしぐらに
センバツ連続制覇(連覇)を目指し快進撃を見せたのだった

チームを牽引するのは熱血漢溢れる鈴木康夫監督である

鈴木康夫監督も前年度の萩原宏久監督と同様に
田口周監督によるセンバツ準優勝時の主将そして捕手であった

田口周三高野球を
最も熟知しているのが
この鈴木康夫監督だったのである





連続制覇を掛けた決勝戦翌日の新聞記事は・・・

{準優勝チームへの惜しみない拍手がスタンドから沸き起こった時
マウンドに整列する選手たちをベンチの前で見守る準優勝監督は目からか流れる涙を溢れさせていた
それは悔し涙以外の何ものでもなく彼にとって、この準優勝はそれまでに経験した試合の中でも
もっとも屈辱的な敗戦でしかなかった}







また
ある本にはこんな書き出しもある・・・

{普段は練習に口を出したことのない桑野卓部長が
グランドに駆け降りてきて鈴木からノックバットを奪いように立はかだった
「鈴木やめろ!選手が死んでしまう!もうやめろ!」 
鈴木は桑野卓部長を押し返した
「先生、大丈夫です
僕が信念を持ってやっていることですから大丈夫です!
先生、僕は僕が倒れるまでノックを放ちます!」
選手が倒れたところへ水を浴びさせ、起き上がるとまた容赦のないノックを放った}


ー生羽津先輩、吉澤先輩、待井先輩ー

{既に出来上がっていたチーム力
このチームは技術的にも、精神的にも頭脳的にも出来上がっていた
それ以上の力を望むには「原点」に返るしかないと思った
頭の中をからっぽにして無心になってプレーをする
それには猛ノックしかないと思った}


ーセンバツ2季連続の連覇を掛けて決勝へ進出した日大三高だが
 日大櫻ヶ丘高校の仲根投手(ジャンボ仲根、元近鉄バッファローズ)の前に敗戦、準優勝に終わるー

徹底した管理野球と長所を伸ばす野球という2つの野球の形態の中で
日大三高は「出来ないことを出来るようにするには徹底的な管理」という前者の形態をとってきた
この管理野球が支配する中において、当時の鈴木康夫監督の心情には計り知れないものがあったと感じます

「勝たねばならない」

ましてや「連覇」という多き過ぎるプレッシャーの中
日大三高の監督としての使命が特にこの昭和47年度においては濃いです

いや
濃すぎます!



そして
鈴木康夫監督は
元千葉商監督としても甲子園出場をされ
「田口周三高野球」を後世に継承すべく「新高校野球心得帖」「野球心得書」をご出版されていらっしゃいます

「あたり前のことを、当たり前にやれ!」

基本中の基本部分が組み込まれている「野球バイブル書」に値する内容です







また
何を隠そう
たいそうに隠すほどのことではないのですが(笑う)
自分が日大三高へ進学したきっかけはこの鈴木康夫監督の「お口添え」があったからなのです

以前
準優勝に際する各メディアの記事を読んだ時と異なり
インドネシア代表ナショナルチームと言う「1国の旗」を背負う立場の監督・指導者としての
経験をさせて頂いた自分には当時の鈴木康夫監督の「指揮官」としての「非常に苦しいご心情」が手に取る様に分かります

更に
このセンバツ準優勝時の捕手は小杉治先輩という2年生のレギュラー捕手です

自分も同じ捕手というポジションだったので分かるのですが
日大三高の2年でレギュラーを獲得するのは「至難の業」です
当時は年功序列のシキタリの風潮も今よりも強かった時代

1学年上には吉澤先輩を筆頭に凄い先輩方々がいらした訳で
その中で司令塔として数々のサインプレーを2年生でこなした
小杉先輩の頭脳と度胸には尊敬の言葉しかありません(自分の憧れの先輩です)

・・・捕手って大変なんです

・・・監督って孤独で辛いものです


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幻の・・・「日大三高 江川卓投手誕生」

2011年10月24日 14時39分32秒 | 日大三高校野球部 小球史


実は
この時期に江川卓投手が日大三高進学を検討していたと言う
事実があり、ほぼ進学決定というような噂も流れていたようです

「日大三高 江川卓投手誕生!」
・・・に向け、萩原宏久監督は中学時代の江川卓投手を何度と無く訪ねている

この時、江川卓投手の「日大三高進学に際する希望」は「六大学への進学」であった
萩原宏久監督からの返答は、江川卓投手に曖昧な口約束はしなかったのだった

当時の江川卓投手の力量から言えば六大学進学への保障的な返答を即答する指導者もいたであろう・・・

しかし
日大三高野球部の監督として安易な返答が許されなかったと判断します

そして江川卓投手は作新学院進学へ・・・

「日大三高 江川卓投手誕生!」は「幻」と消えたのでした



この後
昭和46年度センバツ優勝、昭和47年度センバツ準優勝のメンバーで
甲子園で大活躍をした吉澤俊幸先輩(元阪急ブレーブス・阪神タイガースコーチ)が早稲田大学への進学を決めたのでした

・・・そうです””
江川卓投手の希望であった六大学への進学です



甲子園で大活躍の吉澤俊幸先輩は早稲田大学へ進学



東京六大学リーグ戦
「法政大学対早稲田大学」

そこには
法政大学のエース江川卓投手
そして早稲田大学の中心打者、吉澤俊幸先輩の姿があった


法大 江川卓投手   早大 吉澤俊幸先輩   

萩原宏久監督と江川卓投手も
その数年後に・・・

萩原宏久監督はトレーナーとして
江川卓投手は選手として

・・・読売ジャイアンツへ入団するのでした。


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