7代目、14代目 青木久雄監督
昭和39年―昭和41年
昭和59年―平成6年
日大三高野球部の球史の中で
2回に渡って監督を務められたのはこの青木久雄監督だけです
「人間青木」という代名詞が付くほど
人間教育にしっかりとした信念をお持ちになり人間味溢れる監督です
また
「ケースごとのテオリーと、その裏をかく・・・」と言う様な
「細やかな戦術」をお持ちの監督です
昭和41年に糸魚川商工への合宿遠征をされ糸魚川商工との交流を開始
この時の糸魚川商工のエース投手は関本四十四投手(元読売ジャイアンツ)でした
{青木監督には非常に感謝している}と、関本さんも述べておられます。
糸魚川商工の選手との記念写真
糸魚川商工での合宿練習の合間
そして、青木久雄監督の第1期時代には・・・
昭和40年卒の佐藤道郎先輩(元南海ホークス・他)
昭和42年卒の古賀正明先輩(元読売ジャイアンツ・大洋ホエールズ・他)
また、第2期時代には・・・
昭和62年卒の野林大樹(写真後列右端/元近鉄バッファローズ・広島東洋カープ・ヤクルトスワローズ)
昭和63年卒の桑 認 (写真後列右端/元近鉄バッファローズ)
・・・などの選手が輩出されています
尚、青木久雄監督は
第1期と第2期の途中に「二松学舎大付属高校」をも指揮され昭和57年のセンバツで準優勝をされておられます
自分たちが現役の時は
丁度、二松学舎高校の監督をされていて
西東京と東東京とで分かれてはいるのですが
「敵」という感覚でしかなかったのが正直なところです
二松学舎高校との練習試合が日大三高のグランドであり
試合後に送球動作についてアドバイスを頂いた記憶があります
その後
日大野球部のOB会で1度だけご一緒させて頂いたのみで
やはり、現役当時の「敵将」というイメージが強く自分にとっては
日大三高の先輩なのですが近寄りにくい監督さんです・・・(大笑)
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昭和39年―昭和41年
昭和59年―平成6年
日大三高野球部の球史の中で
2回に渡って監督を務められたのはこの青木久雄監督だけです
「人間青木」という代名詞が付くほど
人間教育にしっかりとした信念をお持ちになり人間味溢れる監督です
また
「ケースごとのテオリーと、その裏をかく・・・」と言う様な
「細やかな戦術」をお持ちの監督です
昭和41年に糸魚川商工への合宿遠征をされ糸魚川商工との交流を開始
この時の糸魚川商工のエース投手は関本四十四投手(元読売ジャイアンツ)でした
{青木監督には非常に感謝している}と、関本さんも述べておられます。
糸魚川商工の選手との記念写真
糸魚川商工での合宿練習の合間
そして、青木久雄監督の第1期時代には・・・
昭和40年卒の佐藤道郎先輩(元南海ホークス・他)
昭和42年卒の古賀正明先輩(元読売ジャイアンツ・大洋ホエールズ・他)
また、第2期時代には・・・
昭和62年卒の野林大樹(写真後列右端/元近鉄バッファローズ・広島東洋カープ・ヤクルトスワローズ)
昭和63年卒の桑 認 (写真後列右端/元近鉄バッファローズ)
・・・などの選手が輩出されています
尚、青木久雄監督は
第1期と第2期の途中に「二松学舎大付属高校」をも指揮され昭和57年のセンバツで準優勝をされておられます
自分たちが現役の時は
丁度、二松学舎高校の監督をされていて
西東京と東東京とで分かれてはいるのですが
「敵」という感覚でしかなかったのが正直なところです
二松学舎高校との練習試合が日大三高のグランドであり
試合後に送球動作についてアドバイスを頂いた記憶があります
その後
日大野球部のOB会で1度だけご一緒させて頂いたのみで
やはり、現役当時の「敵将」というイメージが強く自分にとっては
日大三高の先輩なのですが近寄りにくい監督さんです・・・(大笑)
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