振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

みちのく岩手の旅(3)世界遺産の橋野鉄鉱山は雪の中

2019-04-22 11:51:31 | 旅行
浄土ヶ浜を後にして国道45号線を南下、山田町や大槌町を通過。8年前の津波で甚大な被害を受けたエリアだ。

海岸線沿いには津波から街を守るために堤防を造る工事が目立つ。新しく建築された家屋も目立つ一方で空き地がまだまだ多くて復興は道半ばと言ったところか。まだ生活中と思える仮設住宅も何か所となく見える。

来年に迫った東京五輪関連の建設はどんどん進行しているのに震災被災地を見ると順序が逆に見える。復興五輪と言ったはずだが、膨らんだ五輪予算や競技開催場所の剪定を見ると、復興が五輪開催の口実にされただけのように思えた。

山田町にあった道の駅に寄ったが、自宅周辺のスーパーにはない海産物が安くてたくさんある。ワカメやメカブを持って帰れるだけ買ってしまった。


大槌町から県道35号釜石遠野線に入ると周辺はすっかり雪景色。車の通行量も少ないためか、標高が上がってくると路面にもシャーベット状の雪が残っていた。目的地の橋野鉄鉱山は35号線から外れた場所にあるので、積雪で進入できないのではと不安になる。



釜石市橋野鉄鉱山インフォメーションセンターは県道から約1km外れた場所にあったが、道路は除雪されていて心配はなかった。こんな天気のためか、来館者は自分達だけだ。

センターで案内ビデオとパネル展示を見ることができた。明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録された8つのエリアを紹介しながら、その中のの一つがここになることから説明が始まる。

幕末の安政年間、この場所に南部藩が製鉄用の高炉を3基築いて操業を始めた。中心となったのは南部藩出身の大島高任で江戸や長崎、大阪で冶金学や採鉱の技術を学び、水戸藩での反射炉建設や、ここ橋野から山を隔てた南にある甲子村大橋で既に高炉の建設に携わっていた。

36年間操業して明治27年には休止となり、数キロ東の栗橋で新たな高炉での操業が始まったが、燃料となる木炭を供給するための木材も枯渇してきていたのでは想像される。

3基の高炉跡を見るためセンターを出たが、遺跡の入り口からは新雪が10cm近く積もっていた。





センターを出る時にスタッフの方がゴム長を貸しましょうかと言われたが、ワークブーツを履いていたので大丈夫ですと断ってしまった。ちょっと後悔する。



入口から右奥にある一番高炉跡を目指して雪の坂道を登り始めた。自分以外の足跡は途中で折り返していて、真っさらの雪道を独り占め状態になった。





高炉のそばまで行きたいが細い水路にかかる橋が雪に埋もれて渡るのが怖く、遠くから眺めるしかない。

坂道を戻って左手にある3番高炉の方角を見ると雪が更に深く積もっているようで、オマケにブーツの中には雪が進入してきて具合が悪い。炭焼き窯の跡なども見たかったがここで断念。

先月に訪ねた大板山たたら製鉄遺跡や奥出雲地方のたたら製鉄は砂鉄が原材料だが、ここ橋野は近くで採掘した磁鉄鉱石を使っている。その採掘場はアクセスに難があるためか公開されていないが、公開されれば見てみたいものだ。

また、ここで使われた原材料の一つに餅鉄と呼ばれる石がある。センターに数個置いてあったが、黒っぽくて鉄の含有量が多いため重たい。川原で採取されたのだろうがお餅のように丸くなって角が全くない。村民たちが川で拾い集めた餅鉄を鉱山で買い取っていたらしい。


今回の岩手の旅は天候に恵まれず、予想外の雪になってしまったので、見残しがたくさん出来た。橋野から山を隔てて南側には釜石の鉱山跡があるが、次に来る機会があればそちらにも足をのばしてみよう。