■午前11時から12時15分までワット・プーミンにいました。昼食です。隣にある郷土物産店(スーン・OTOP・ナーン)へ移動です。
「OTOP」(One Tambon One Product)の頭文字をとった、日本の一村一品運動をモデルにタクシン政権時代に実施が始まった地方物産の生産、販売奨励政策です。政府は全国に販売店の設置、輸出振興、大規模な展示即売会の開催などの援助を行っています。
駐車場に車を置き、向かいにあるレストランでまず腹ごしらえです。
店「ファン・ホーン」の入り口です。
店の中です。たくさんのお客が入っています。
カオ・ソーイとカノム・チーン(タイ風冷やしそうめん)を食べました。
食後OTOPを見て回り、コーヒーショップで休憩です。気温は43℃まで上がっています。
アイスコーヒーです。
ナーンの地域振興に協力してきました。綿織物で、模様は刺繍されています。
■午後1時41分、暑い日差しの中を出発です。1kmほど離れた「ワット・パヤ・ワット」に来ました。
ナーンの市街がナーン川の西岸に遷都(1368年)された頃の「プラナーン・チャマテウィー」時代に、町の中心に建立されました。



この寺院の御本尊は雨乞いにご利益がある仏様で、住民は龍神を先頭に雨乞いの行進をするのでしょうか・・・。
砂の須弥山です。
本堂です。
本堂に安置されている仏像は「プラチャオ・フォン・セーン・ハー」または「プラチャオ・サイ・フォン」と呼ばれ、干ばつで住民が雨乞いを行った時に、願いを叶えて雨を降らせたありがたい仏様です。18世紀末から19世紀初めの「チャオ・アッタ・ワラパンヨ」王の時代に地元職人によって造仏されました。
本堂の後ろには、煉瓦造りの小さな祠堂がたっています。四方に壁龕があってラーンナー様式のくずれた仏像が残っています。




ハリプンチャイ様式の仏塔で、ランプーンの「クー・クット・チェディ」とよく似た構造です。方形で五層の壁龕にはスコータイ様式の影響を受けた立仏像が安置され、スコータイのワット・マハタートのチェディとの共通点が見られます。



壁龕の上部のアーチ形状は、チェンマイのティローカラート王の覇権下にあった時代に修復されていて、ラーンナー様式に変わっています。

■「ナーン年代記」によりますと、都市国家「ムアン・ヤーン」のプーカー王の息子クンフォーンがプア(ナーンの北60km)に「ムアン・ワラナコーン」を建設したのが王国の始まりで、その息子カオクアンの治世にパヤオ王国に占領されます。しかし、次の世代でワラナコーンを奪回、パヤオの勢力を追放しパーノーン王として1323年即位、その息子カーンムアン王はナーン川東岸のプーピエンを開発、都を建設したそうです。1368年、パーコーン王が現在のナーン川西岸へ遷都しました。
12世紀から13世紀にかけて、クメール王国やモン王国の覇権が弱まると南下してきたタイ族が各地に独立国家を建設しました。ナーン王国もその一つで、当初は山間の狭隘なプアに国家を成立させ、国力がつくと、巨大国家スコータイの協力でナーン川東岸のプーピエンまで進出します。
しかし、肥沃で広大な東岸には、まだ彼らの進出を拒絶する勢力を持つ国家があったのでしょう。
ワット・パヤ・ワットの遺跡を見ていると、ナーンに661年ランプーンに建国(実際には750年頃だといわれています)されたモン族のハリプンチャイ王国の勢力が及んでいたようです。ハリプンチャイ王国はラヴォー王国を賭けて東南アジア最大の勢力であるクメール王国と対等に戦う力をもっていたようですが、ランプーン、ランパーンのハリプンチャイ王国の国力だけではクメール王国には比肩できず、属国が各地にあり、その一つがナーンで勢力を張っていたのではと考えます。
1050年、ランプーンに6年間コレラが発生し、モン族の一部は西方のペグーやタトン移動しましたが、東方を目指してナーンへたどり着いた一部もあったのでしょう。
1281年にハリプンチャイ王国は南下したタイ族によって壊滅し、やがてナーンも東岸まで迫ったタイ族に西岸を占拠されたのでしょう。その名残りがワット・パヤ・ワットの仏塔だと夢想しています。
■「ワット・プーミンの壁画」の解釈間違い、誤記訂正と追加説明のため写真を追加しています。改めてご覧ください。

駐車場に車を置き、向かいにあるレストランでまず腹ごしらえです。






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■午後1時41分、暑い日差しの中を出発です。1kmほど離れた「ワット・パヤ・ワット」に来ました。
ナーンの市街がナーン川の西岸に遷都(1368年)された頃の「プラナーン・チャマテウィー」時代に、町の中心に建立されました。


















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■「ナーン年代記」によりますと、都市国家「ムアン・ヤーン」のプーカー王の息子クンフォーンがプア(ナーンの北60km)に「ムアン・ワラナコーン」を建設したのが王国の始まりで、その息子カオクアンの治世にパヤオ王国に占領されます。しかし、次の世代でワラナコーンを奪回、パヤオの勢力を追放しパーノーン王として1323年即位、その息子カーンムアン王はナーン川東岸のプーピエンを開発、都を建設したそうです。1368年、パーコーン王が現在のナーン川西岸へ遷都しました。
12世紀から13世紀にかけて、クメール王国やモン王国の覇権が弱まると南下してきたタイ族が各地に独立国家を建設しました。ナーン王国もその一つで、当初は山間の狭隘なプアに国家を成立させ、国力がつくと、巨大国家スコータイの協力でナーン川東岸のプーピエンまで進出します。
しかし、肥沃で広大な東岸には、まだ彼らの進出を拒絶する勢力を持つ国家があったのでしょう。
ワット・パヤ・ワットの遺跡を見ていると、ナーンに661年ランプーンに建国(実際には750年頃だといわれています)されたモン族のハリプンチャイ王国の勢力が及んでいたようです。ハリプンチャイ王国はラヴォー王国を賭けて東南アジア最大の勢力であるクメール王国と対等に戦う力をもっていたようですが、ランプーン、ランパーンのハリプンチャイ王国の国力だけではクメール王国には比肩できず、属国が各地にあり、その一つがナーンで勢力を張っていたのではと考えます。
1050年、ランプーンに6年間コレラが発生し、モン族の一部は西方のペグーやタトン移動しましたが、東方を目指してナーンへたどり着いた一部もあったのでしょう。
1281年にハリプンチャイ王国は南下したタイ族によって壊滅し、やがてナーンも東岸まで迫ったタイ族に西岸を占拠されたのでしょう。その名残りがワット・パヤ・ワットの仏塔だと夢想しています。
■「ワット・プーミンの壁画」の解釈間違い、誤記訂正と追加説明のため写真を追加しています。改めてご覧ください。
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