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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆サティ:左右に見えるもの(眼鏡なしで)

2017年02月15日 | サティ
◎トゥルトゥリエ(Vn)チッコリーニ(P)(EMI/PATHE)1970初出・CD

この曲は奇跡的によくできた曲である。サティがこのスタイルで他に室内楽を書かなかったのが不思議なくらい同ジャンルにおいて独特の境地を示しており、決して筆のすさびではない。楽想的には中期サティのピアノ曲と同じものがあり、パロディ性が強く、一方で洗練・凝縮・単純化された書法や旋律を解体し伴奏と装飾音形だけで短い曲を形作るという斬新なやり方もはっきり表れている。それらのかもす空気感、透明で幻想的な流れはヴァイオリンという生臭い楽器を用いてもまったく失われず、寧ろその魅力が倍加されている。まるでヴァイオリン的な用法を馬鹿にしたようなパッセージも数多いが、それが毒のある雑味として導入されているわけでなく、見事にピアノと調和し、しっかりアンサンブルしているのである(アンサンブルというほど組み合わないが、掛け合いというくらいには組み合っている)。サティの弦楽器がこれほどサティ的情感を表現できていることに驚かされる。題名や3曲の標題はあきらかにダダイズム的でたいした意味はない。伝統的なコラールからはじまり子供音楽のパロディ的なフーガ、そしてなかなかウキウキの終曲幻想曲の最後にはなんと伝統的なヴァイオリンのカデンツァ(的なソロ)が入るが、どこかサティ流儀で、パロディというほどには野暮ではない。何か全てが寸止めされるような余りに短い3章だが、この完成度、サティ好きを自認するなら必聴だ。サティの魅力をまたひとつ発見できるだろう。ヴァイオリン的にはとくに難しくない。でも、サティ風に演奏するのにセンスは必要だろう。少なくとも情感を込めてはいけない。ピアノも同時期の独奏曲と非常に似通った感じでとくに難しくはなさそう。この演奏は数少ない音盤の中でも最も叙情的で美しい演奏である。ちょっと高尚すぎるかもしれないが。譜面は現在は極めて低額で手に入ります。◎。
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ペンデレツキ:広島の犠牲者に寄せる哀歌

2017年02月15日 | Weblog
オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1969/1/10放送live・CD

極めて抽象的なクラスター音楽である。当初8分37秒(時に8分26秒)と題されたことからもそのままの「哀歌」では無いことがわかる。戦後ポーランドを代表する作曲家のフィテルベルク賞を受賞した出世作であり、同時代の西欧の前衛作曲家と一気に歩を合わせることとなった(ペンデレツキ自身は後に作風を変えた)。広島というのは日本人に吹き込まれた後付けの表題とも言われるが、本人は初めて実演を耳にした後、これを説明する言葉をthrenody(ほんとはロマンティックな哀歌ということばより残酷な悲歌ということばが適切だろう)、そして自ら最も適切な表題として、決して忘れえぬカタストロフ「広島」の犠牲者に捧ぐ、としたというようなことを語った(英語のwikiにもそれらしきことが書かれている)。それは楽曲が先にあって、その「雰囲気」を説明するのに「threnody」があり、そこに当時自分が最も重く受け止めていた事象を当て嵌めたということだと思う。これは漫然と聴くだけでは伝わらない。エキセントリックな響きに一度に理解することは到底能わず、私は何度も何度も聴いて初めてわかったようなわからないような気がした。ただの新しい音響、非常なものとして「シャイニング」等に使われてはいるが、それも「雰囲気」に事象を当て嵌めたという意味では外れた用法ではないだろう。精緻な構造と厳しく計算された構成を持つ作品であり、音要素の全てに削ぎ落とされた創意が注ぎ込まれている。荒んだ気分の粗暴な描写音楽ではなく、宗教的な厳粛さを感じさせる細密作品だ(それでいながら演奏者(解釈者)に任される部分もすくなからずある)。音楽というのが妥当なのか、建築物とすら感じる。

オーマンディがフィラデルフィア管弦楽団の豊潤な弦楽セクションを使って演奏したというのは驚きだし、曲の一種清澄さにそぐわないと思ったが、案の定良いステレオ録音であっても、マスの迫力のみが伝わり各要素の特徴はあまり伝わらず、響きの細部も聴きとれない。寄せては返すような音の密度の変化、特殊奏法による音響的なアクセントも、あまりに総じて音が大きすぎて耳で識別しづらい。それが雑味に繋がっている。スピードも速過ぎるのではないか。曲を知っている人が聴くべき録音だと思う。客席は物凄い大ブラヴォである。
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ピストン:交響曲第7番

2017年02月15日 | Weblog
オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1961/2/10初演放送live・CD

委属団体による初演記録。目の詰まったピストン円熟の技を聴ける反面、最初の2楽章は晦渋でお世辞にも人好きするとは言えず、焦燥感と暗い気配が充満している。ハープの用法などフランスの香りをすっかりアメリカアカデミズムのものとして取り込み切って、典雅さの無い音響的な新しさに挑んだ感もある。3楽章はピストンらしい律動に回帰して一瞬安心するも、それは激しい打音と変化する動きに支配された非旋律的な協奏音楽である。ダイナミックな構造的書法はオネゲルを拡大したように職人的にかつ、新味も感じられるもので、二度目のピュリッツアー賞に輝いたのも、(あくまでこの時代の流行を鑑みた上で)頷ける。オーマンディはフィラデルフィア管弦楽団の音色という武器を使わず、まるでミュンシュとボストン交響楽団のようにひたすら機能を迫力と突進力に集中させ、ステレオで左右のレンジのやたら広い録音のせいもあろうが、ミュンシュより外へ拡がる響きがスケール感を拡大する。動き回るヴァイオリンが轟音をたてて駆け抜けて打ち倒すような打音連打で終演、大ブラヴォ。ストコフスキーとオーマンディの違いは曲の要請に従って、ここまでの即物的表現を取るかどうかにある。ストコフスキーはどこかに逃げを作り聴かせにかかるがオーマンディは容赦しない。オケはギリギリと締め上げられ、厳しい音楽になる。録音の良いせいで心中湧いた。録音が悪ければ単なるよくある晦渋作品に聴こえた可能性もある。フィラデルフィア管弦楽団自主制作ボックス所収。
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☆マキューアン:弦楽四重奏曲第15番「小四重奏曲~スコットランドのムードで」

2017年02月15日 | イギリス
◎チリンギリアン四重奏団(chandos)CD

快活で軽い出だしから掴まれる。突如転調して晦渋になったとしても長続きしない。透明感のある民謡音楽がRVWらの前期を思わせる聴き易さと、そこに僅かにプラスされる個性的な「前衛性」のミックスでマキューアンの到達した領域を垣間見させる。特筆すべきは3楽章で、こりゃ奇妙だ。冒頭、平易な民謡調で通している楽曲では異質の、これも民謡から来ているのだろうが、奇怪な装飾音型にリズム、響きには瞠目。この律動は新鮮で魅力的でもある。再現されるさいには待ってましたと思ってしまうほど。適度にモダンでもあり恥ずかしい旋律も素晴らしく、これはイギリス民謡室内楽としては名曲である。小規模だがそれなりのボリュームはあり、書法はヴァイオリン偏重で複雑ではないが上記のとおり聴いていて面白い部分が多く、しっかりした3楽章制が生きている。演奏はこれ以外ないほど素晴らしいし、実際これ以外録音されていない。◎。
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シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」

2017年02月15日 | Weblog
ミトロプーロス指揮NYP(m&a)1953/10/29live・CD

完全にノイズリダクション、擬似ステレオ化されているが情報量が削られておらず聞きやすい。一楽章制の大曲で初期シェーンベルクの様式に沿ってひたすら後期ロマン派、リヒャルト・シュトラウスの傍流のような(しかし楽器の扱いが単調で官能性の質(ハーモニー重視)が違う)分厚い管弦楽。散漫な印象はあり、ミトロプーロスはウィーンふうの音色を交えつつドラマティックに描き出し、ウィットの欠片もない曲のままに真摯に高精度の演奏を繰り広げる。「浄夜」のように癖のある半音階の多用は目立たないが、それはミトロプーロスが「うまくやっている」からかもしれない。あのニューヨーク・フィルをライヴでここまで厳しく律せているのも(単調な曲とはいえ)ミトロプーロスの技量なのかもしれない。ミトロプーロスはクラスナーとの一連の録音などシェーンベルクが「行ってしまった先」の音楽はいくつか録音があるが、この時期となると今は同じ盤収録のVPOとの浄夜ライヴと、RCAの同曲正規録音くらい。
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リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」

2017年02月15日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(rca/sony)1961/4/20・CD

オケの機能性を力強く打ち出した演奏で中欧的な音色を排した純粋な管弦楽の律動を聴かせている点が特筆すべき所。ボストン交響楽団にもトリッキーな動きがうまくハマらない近代曲の演奏はあるが、このトリッキーな装飾的音形の多発する、案外と絡みの「疎」な楽曲ではミュンシュの力かスコアの妙味か散漫にならず、かといってことさら凝縮することもなく、軟らかさや艶を出さないのは好悪あるとは思うがリヒャルト・シュトラウス嫌いの私は聴きやすかった。曲の演劇的な描写表現がよく浮き彫りにもなっている。まずまずのステレオ。ミュンシュはRCAにドン・キホーテもセッション録音しているほか、ライヴ音源として英雄の生涯、ドン・ファン、家庭交響曲(ステレオ)、死と変容、ドン・キホーテ、四つの歌曲(ゼーフリート)を残しており、MEMORIESが一気にまとめて廉価CD化した。
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ストラヴィンスキー:二重カノン(ラウル・デュフィ追悼)

2017年02月14日 | Weblog
シレジアン四重奏団(partridge)1992/4・CD

晩年作といっても50年代、ドデカフォニーを導入してウェーベルンにうかされたような極小作品を書き、そしてまたよく同年代ないし若年の芸術家の追悼作品を書いていたように感じる。これはフランス野獣派の画家で知られるラウール・デュフィ没後6年に書かれた、悲しげだが、まったく甘くない作品。この団体がまた全く甘くないのだが、それでも簡素な響きの中に仄かに宿る感傷を少し燻らせて、一分余りの曲にも何かしら重いものを残す。精緻というのとはまた違うような、色彩のあやなすデュフィの抽象画を思わせる、と書いたら安易だろうか。どうもこの作品にも、アイヴズのHymn(ラールゴ・カンタービレ)に通じるものがある気がする。
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ストラヴィンスキー:コンチェルティーノ(弦楽四重奏版)

2017年02月14日 | Weblog
シレジアン四重奏団(partridge)1992/4・CD

これが原曲。管楽アンサンブルに疎い私にはこちらの方が聴きやすい。録音はアルバン・ベルク四重奏団をはじめ結構あるし、その短さと技巧性から演目の合間に取り上げられることもある。楽器の本数が少ないぶん協奏曲的なソロ楽器との対比より、アンサンブルとしての全体の組み合い方に耳がいき印象は異なってくる。最後のほうこそ新古典主義にたったストラヴィンスキーらしい骨張った娯楽面が顔を出すものの、この団体の鋭く研ぎ澄まされた音で聴く限り、1920年作品とは思えない透明感ある不協和音に支配された抽象作品に感じられる。冒頭からどうにも較べてしまうのはアイヴズの「ハロウィーン」だが(どっちがどっちをからかったのか?というような似通った律動と響き)、単に旋回し続けてクレッシェンドのすえ破壊的に終わるあちらとは違い(まあ一晩で書いた一発芸である)、兵士の物語を想起する変化ある構成の妙、ギリギリ許せる響きや律動を直角に交え、謎めいて終わるのも兵士の物語的。すなわちヴァイオリン小協奏曲的な側面はあるものの、カルテットだとそれほど際立ってこない。むしろ弦楽カルテット音楽として新鮮な作品だ。まあ、室内楽でバルトーク張りのバチバチいう低音ピチカート好きだなストラヴィンスキー。晩年のダブルカノンが続くが、あちらもまたアイヴズを思わせるのもどっちが悪いのか。
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ストラヴィンスキー:弦楽四重奏のための三つの小品

2017年02月14日 | Weblog
シレジアン四重奏団(partridge)1992/4・CD

この曲は躁鬱的に激しく、スピーディで、音には一切の曖昧さを残さない、、、という点でこの演奏はなかなか。一楽章はいくぶん民族性がほしいメロディ(?)を持っているが、ここでは後の楽章同様徹頭徹尾現代音楽として冷徹に処理しており、響きに細心の注意が払われている。2楽章にも少し兵士の物語チックな匂いが残るのに、ここでは純粋な響きしか聴こえない。絶望的な3楽章の終わり方は一つの見識だと思う。このCDはストラヴィンスキーとシマノフスキの弦楽四重奏曲全集を謳っているが、この曲はともかく、コンチェルティーノと最晩年のダブルカノンはもっと抽象的。楽団の色彩感の無さが曲の本音を引き出している。とはいえ、どれも短くてよかった、という骨皮筋右衛門。
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オネゲル:交響曲第2番

2017年02月14日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)1953/3/29・CD

モノラル末期の音源だが音質を置いても(私の盤は一箇所音飛びする、、)、集中度からも演奏精度からもミュンシュでは一番に推すべき録音だろう。塊となって突進する当時の解釈に従ってはいるが、アンサンブルへの配慮がしっかりしており、3楽章のポリリズム的なパセージなど、明確に決まっているのはこの録音だけではないか。ボストンの厳しい弦楽の音はフランスオケのものよりオネゲルの真に迫っていると感じるし、ミュンシュの「解釈」がしっかり伝わる見通しの良さがあって、それは晩年の演奏にみられる客観的に再構築されたオネゲル2番ではなく、当時の直球でありながらやりたかったことはこれなのだというものを耳までしっかり届かせている。暗闇から光明という構想において、当時のライヴ録音であれば2楽章と3楽章の間でカラーの違いを明確にしているが、この録音では3楽章に入っても中低音域での暗い闘争が持続し、それが律動の中で何かの形をなしていき、突破口を模索した2度目で強引にトランペットが凱歌を上げて入ってくる。ここではトランペットは総てを変えてしまい、弦楽はただの伴奏になる。当時はこれをやりたかったのか、わかりやすさを狙ったミュンシュ以外のプロデューサーなり技師の意図なのか、良くあるソリスト強調配慮なのか、とにかくミュンシュとしては強靭なのに正確な演奏の、最後に結局トランペットのメロディにすべてを持っていかせるという態度が明確になっている。
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☆ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ

2017年02月14日 | ラヴェル
○ロスバウト指揮ローマRAI管弦楽団(stradivarius)1959/3/24ローマlive・CD

ロスバウドが正しい読み方なのかもしれないと思ったけど別に日本人が日本語でかいてるんだからいいや。これはしょっぱないきなりびっくりする。重い!しかも速い!がしがしドシャドシャ始まるまるで重い荷物をドカドカ床に打ち付けながらリズムを刻んでいるような、この力強いダンスはなんなんだ!!とにかく余りのドイツ臭さにロスバウトの比較的現代的なイメージが崩れる。やっぱりドイツの人だったんだ。聞いた事のない「高雅」、やっぱり初曲が一番びっくりするためおすすめ。ロスバウトはこういうサプライズがあるから嬉しい。この人をバーデン・バーデンの現代専門シェフとかカラヤン的とか書いてた今や聞かない名前の評論文屋がいたけど、余りに聞いてない人の評だよなあ。マーラー中期とか聴いてみるといい。この人のラヴェルが聞けてよかった。個性的。○。オケのせいで「ほんとのドイツ」にならないですんでいるのが何より成功の原因かも。
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ブルックナー:交響曲第9番(改訂版)

2017年02月14日 | Weblog
クナッパーツブッシュ指揮バイエルン管弦楽団(hunt)1958モナコlive・CD

1958/2/1の有名なミュンヘン(バイエルン?)のライヴ録音(m&a,king,orpheo,greenhill,arphipel等既出)と同じと思われるが「モナコ」と表記され月日が記載されないため別として載せておく。発売当初はCDらしからぬ低音質高価格無解説で不平不満だらけ、正規再発したら即買い直したhunt/arkadiaレーベルだが、劣化寸前の時期の盤で再発もあるにも関わらず中古店では高価で買い取られるから面白い。正規盤と称するものに多い手を加えた音源ではないから価値があるというのはイメージで、これもモノラルに残響を加えた擬似モノである。orfeoは既に指摘されているところだが正規マスターと称するものを使っていながら音質に難があるのはレーベル開始当初から当たり前で、いくつかは今はなき渋谷CISCOや秋葉原石丸に不良品と文句を言いに行った覚えもある(近年のものは良好なようだ)。

ブルックナーはクレンペラーをもって収集を止めた作曲家だがこの曲は相対的に短いので今でも聴かなくはない。主流の原典版と称するものに、書くべきようなこと、演奏ブレが無くて詰まらないということもある。クナは今の耳で聴くと、ミュンシュのチャイコフスキーのようだ(ワグナーではない)。これはそういういくぶんトスカニーニ的なスピードとダイナミズムを強調したロマン派音楽であり、しかし、ミュンシュのように意思的な表現、かつ時にブレるミュンシュよりも確固たる解釈に基づく演奏だ。交響的大蛇ブルックナーを飽きさせないための配慮が細部まで行き届き、一時期持ち上げられていたRCAの正規8番ミュンヘンスタジオ録音のような薄く延ばしたようなところはない。1,2楽章は誰しも楽しめると思う。3楽章はこれならワルターを取る人もいるかもしれないが、やはり確固たる恣意的解釈はワルターの柔軟な表現とは違う。深淵を見つめるような繊細な弱音への配慮は厳しいもので、オケ全体の見事な音響バランスはライヴとは思えない(環境雑音や僅かなミスはあるが)。音楽に起承転結を求める向きには非常に向いている。ただ、この曲は「結」を欠いた未完作だが。今聴くと殆どノイズが除去されており(細部が聴こえなくなるのは脳内補完)左右が少し揺れる箇所を除けばアルヒペル並みにはアリな音だなあ。迫力は十分。間髪入れず盛大な拍手はこのハッキリした演奏ならアリ。ルクレチア・ヴェストとのマーラー「亡き子」との組み合わせ(BPO)。
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チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番

2017年02月13日 | Weblog
クライバーン(P)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(放送)1972/6/9モスクワ音楽院大ホールlive

webで聴ける(既出かどうかは知らない、私はモノラルで聴いた)。グリーグ、ラフマニノフ2番ときてこの超重量級の曲という負荷にも動じず、いやむしろそれが身体を壊す理由になったのか、ギレリスより強くハッキリ鍵盤を叩きまくり、一楽章はタッチの激しさゆえに響きに雑味を感じるが恐らくミスは無い。オケが冒頭からとぼけたようなところがあるがコンドラシンがロシアオケの個性を抑えてソリストに寄り添っているのはわかる。ひたすらソリストの変幻自在の技を魅せつけていく、これはもう圧倒的。3楽章が終わって大ブラヴォーも頷ける。
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☆シマノフスキ:交響曲第4番「協奏的交響曲」

2017年02月13日 | 北欧・東欧
◎パレチュニー(P)エルダー指揮BBC交響楽団(BBC,IMP)1983/2/16londonロイヤル・フェスティヴァルホールlive・CD

ポーランド受難の時代の記録であり、独特の緊張感ある演奏になっている。非力なBBC響もこの曲では怜悧な音色をメリットとして、ブラスも弦楽も頑張っている。シマノフスキに要求される鋭い金属質の音がまさに縦横に出ており、張り裂けそうなアンサンブルが繰り広げられ、これがイギリスにおける演奏というのを忘れさせるような激しさを感じさせる。この曲はけしてケレン味を必要としないが、ここぞというところで起伏が大きくつけられているのも自然。献呈者ルビンシュタインを彷彿とさせる技巧家パレチュニーはこの曲を得意としているだけあって、リズムに破綻の無い演奏ぶりでぐいぐい進める。協奏曲にしては音数は決して多くは無いのだが(ピアノはあくまでオケの一部ではある)特有のリズムと不協和音を絡めた単線的な音楽を流麗に弾きこなしてみせる。けっこう危ない演奏の多い同曲にあってこの安定感はライヴにしては異様ですらある(ルビンシュタインのライヴ記録でも危ない部分が散見されるくらいなのだ)。録音もよく、◎にしておく。ブラヴォが出ないのはちょっと不思議な盛り上がり方。終盤ちょっとデフォルメし過ぎたから?
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グリーグ:ピアノ協奏曲

2017年02月13日 | Weblog
クライバーン(P)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(放送)1972/6/9モスクワ音楽院大ホールlive

webで聴ける。新しい時代の演奏スタイルというものを実感させる外連味のない演奏で、技巧と迫力はとんでもなくすごいが揺れまくったり歌いまくったりは一切せず、解釈的には端正、表現は楽曲のロマンティックな曇りを取り去った分グリーグ特有の和声(2後半から3楽章ですね)がくっきりと出てペール・ギュントの清新さを思い起させ、この曲に興味を持ってしまったではないか。臭みの無さは一番の良さ、北欧の作曲家はこうあるべきというものに寄せた演奏に聴こえる。良い聴きものだった。既出盤にあるかどうかは知らぬ。何とモノラル。
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