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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ドビュッシー:管弦楽のための夜想曲〜Ⅱ.イベリア

2017年02月20日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1961/9/29live

放送実況レベルのほぼ良好なステレオ。音を短く切り詰めてリズムを明確にする第一部は印象的。リアルな肌触りの演奏はその後も続き、ドビュッシーの仕掛けたトリッキーな音色の妙もしっかり聴こえる。第二部の官能的な夜の響きも精緻で、かなり録音撚れがあるのは残念だが良い。陶酔するような緩やかな起伏が心地よい。第三部もトランペットなど音を短く切り詰めて引き締まった演奏を志向するが、録音がやや悪くなるのと、客観的に整えた感があり、音量的な迫力や盛り上がりの作り方が足りず不満が残った。客席反応は普通。
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フォーレ:ピアノ四重奏曲第2番

2017年02月20日 | Weblog
ロン(P)ティボー(Vn)ビュー(Va)フルニエ(Vc)(gramophone/cascavelle/opus蔵他)1940/5/10パリ・CD

ティボーにオールドスタイル特有のポルタメントや勢い重視の細部のアバウトさが聴こえるほかは思いの外緊密で今でも耳に堪えうる演奏。ロマンティックばりばりの長大な旋律音楽なので私は好まないが、聞き通すことはできた。
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ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ

2017年02月19日 | Weblog
○ゴーティエ(v)ジョワ(p)(radio france)LP

トリオ・ド・フランスのメンバーによる演奏だが、技術的引っかかりのない精度の高さで、スピードがあって聴きやすく、また、ゴーティエのヴィヴラートが美しく、懐かしい音色、ブレのない適切な表現が素晴らしい。同時代の香りがして大変に魅力的だ。ジャズ風を煽らない二楽章もラヴェル的で、これこそ真の姿であろう。綺麗なノイズレスな音にして欲しいが、同時代的雰囲気が損なわれるか。こうやるべきという模範的なアンサンブルで、音楽性は高い。
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ミャスコフスキー:祝典行進曲

2017年02月18日 | Weblog
ニコラエフスキー指揮高校ブラスバンド(MusTrust)1931/3/8・SP

webで盤違いを何種も聴ける。再生条件でまったく印象が違うものの、このブラスバンドは下手ではない(ミスが無い)が平易な作品を力強く演出するまで至っていないのはわかる。二部構成で、僅かにミャスコフスキーらしい期待を裏切る和声が混ざるが、ほぼ、メロディとリズムだけの魅力的な曲、今演奏されないのは不思議だ。
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☆シェーンベルク:月に憑かれたピエロ

2017年02月18日 | ドイツ・オーストリア
○ビェルクステン(語・歌)コリッシュ(Vn)オーバー他(archiphon:CD-R)1967/4/16live

録音はモノラルのライヴではまずまずか。室内楽編成でドビュッシーの延長上のような音響風景を更に点描的に簡潔化し、逆にミヨーをはじめメシアンらフランス近代の作曲家たちに影響をあたえた名曲である。無調といってもそこにはかなり旧来の音楽の痕跡が認められ、マーラーをはじめさまざまな作曲家へのオマージュ的な表現が聞いてとれる。それらもほとんどショスタコ的なまでに削ぎ落とされている。演奏は繊細で表出力のごり押し感のないもので、すんなり音楽的に聴ける。あくの強さがないので普通に面白い。心象的な音楽であり、ちょっと気に病んでいることのあるときにしっくりくる曲でもあるが(シェーンベルクは多かれ少なかれそういう曲を書いたが)これは別に通常時にも聞ける「ならされた」演奏である。作曲家ゆかりのコーリッシュはそれほど自己主張しない。語謡含め、わりとアンサンブル的な演奏である。○。
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リース:弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲

2017年02月18日 | Weblog
セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA)1968/2/7ボストンlive 放送

アナウンス(歪んで聴きづらい)ではリースと呼んでおり、アメリカの作曲家のアメリカ放送だからリーズではなく濁らず呼ぶべきだろう。初演説もあるが4年前の作曲なので違うだろう。弦楽四重奏団名はDA盤では不明(4名の名前はアナウンスされるが聞き覚えはない)。やや不安定で放送エアチェックレベルのノイジーなステレオ録音だけれど、同日のプログラム収録曲中では最もクリアで迫力があるし、ソリスト陣とのバランスも良い。一楽章はソロが駆けまくる背後でウォルトン(この直前のプログラムが「パルティータ」)的な空疎な響きの派手な音楽が展開される。時代的には現代曲だがバーバー並に親しみやすい。ストラヴィンスキーふうの音響とも言えるが、削ぎ落とされた感じはしないし新味もない。二楽章の晦渋さは同時代アメリカアカデミズムの音楽に近い印象。管弦楽は絡みというより太鼓のオスティナートリズムが続くほか断続的な合いの手に近く、セルなので緊張感が持続している面もあるだろう。無調的だが50年は遡れる作風だ。三楽章は再びカルテットというより四本の弦楽ソリストがおのおの駆け回る焦燥感ある協奏曲で、アメリカっぽいブラスの高音の響きはあるが、おしなべてウォルトン的である。オリエンタリズムの発露のような音線でさえ円熟期のウォルトンに聴こえる(しかしウォルトン独自のマンネリな作風とはまた違うし、ソロ協奏曲のような技巧的フレーズは注ぎ込まれない)。二重音で細かく動き回るのは独特の聴感がある。そのまま駆け抜けて終わり、カデンツ的なものもなくいわば無窮動。パルティータがお手の物すぎてお仕事感のある比較的「レア」な演奏(録音も遠い)であったからこちらの鋭い表現は光る。なかなか。
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ベートーヴェン:交響曲第7番

2017年02月17日 | Weblog
セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA)1968/2/7ボストンlive 放送

同日のプログラム5曲が二枚組に収録されているが、録音状態が異なりアナウンサーも変わったりするので別の音源から取ったものを寄せ集めたか。いずれもステレオではあるものの、ベートーヴェンについては状態が劣り、始めのほうはアナウンスからして心許なく、最後のほうは僅かに音飛びしているようだ。演奏も始めは客観性が強く、スピードも一定して遅く、響きは拡散的で迫力に欠ける。オケのキレの悪さは舞踏の神化と呼ばれた同曲には致命的だ。セルの非正規ライヴ音源には時々こういう覇気の無いものがある(最初のトラックのウォルトンのパルティータについてもセルにしては弦のキレがなく、やる気が少なく感じた)。遅いインテンポは変わらないが三楽章になるとブラスと太鼓で派手な響きを打ち出し、アンサンブルの緊密さで激烈さを演出するのではなくサウンドとしてムリクリ激烈さを出している。この楽章はそれでも緩徐部があり爽やかな響きが耳を休ませるので良いが、四楽章はそのスタイルのままただ拡散的に音を轟かせて、客観的な視点からいかにもわかりやすさを演出しており(トスカニーニの新即物主義とは根本的に違う)、確かにブラヴォでおわるのだが、ボストン交響楽団にはないものを持っているのはわかるが、この流儀の演奏としてはお仕事感が強かった。
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☆ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

2017年02月17日 | ショスタコーヴィチ
◎スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ICA,bbc)1968/8/21ロイヤル・アルバートホール(プロムス)live・CD

2011年初出。有名な「プラハの春」翌日の「ブーイングコンサート」で、ロストロ先生によるドボコンが既に販売されたところだが、そのメインプログラムになる。チェコ侵攻を糾弾する怒号の中平然と序奏部に入る御大だが楽団の緊張感たるや相当のもので、最終的には名演であるスタジオ録音を(モノラルにもかかわらず)大きく上回る完成度の出来となり、DSCHの刻印が大音響となって響き渡る(自己顕示欲の塊か!?)終演間髪いれず大ブラヴォーの結末。音楽の力を思い知らされる。このころの神がかった御大と充実した楽団を聴いてみたかった。同曲はカラヤンも着目するところとなるくらいショスタコでは隠れた名作で、ただ書法的にすこぶる単純なところがあり三楽章を中心とした緩徐部ではフルートがひたすら息の長い旋律を吹くだけ、など、構造性を拒否した単線的な進行が目立つ。それが悲痛な叫びと聞こえるか退屈な蟠りと聞こえるかで年がわかるというものだが私は今は後者だったりする。ので迷ったのだが、とにかくこの楽団でここまで隙がなく、また、御大らしい「伸び」のないムラヴィンスキー的な突進というのはそうそうない。◎だろう。
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☆バックス:交響詩「ティンタジェル」

2017年02月17日 | イギリス
○エルダー指揮ハレ合唱団(ho)2005/11/3・CD

アーサー王伝説で観光化されたティンタジェル城を極めて描写的に、また「即物的に」描いた代表作である。個人的印象ではこの個性的とは言い難い、ケルト旋律とワグナーを「アーサー王と関係するということで」直接的に引用し、前時代的なロマンティックさを固持しすぎており、ダイナミックな音表現も波濤や崖の視覚的印象そのまんま、といったところでバックスが交響曲でやったような晦渋で特徴的な表現はここにはない。この演奏は透明感は余りなく、最初は往年のハレ管を思わせるドガジャンとした響きで一流ではないオケとの印象をあたえるが、構造は見えやすく楽曲理解はしやすいと思う。エルダーはまずまずといったところか。○。
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プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番

2017年02月17日 | Weblog
カペル(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1953/3/21live

カペルは同曲にふさわしい攻撃性を秘め、しかし力みすぎず弾きまくる。楽曲に適した、熱過ぎず冷め過ぎずの音を持っていると思う。パラパラ胡麻をまくようなフランス風の軽さも無い。オケは積極的に表に出てソリストとも絡むし主張する。歩調はほぼあっていて、そこにロシア物をやるんだという意識は無く「臭み」が無いから純粋な近現代音楽として楽しめる。ただ、オケは本調子とは言えないところも散見される。弱音部での響きの雑味(弦)、細かい装飾的音符がごちゃっとしてしまうところ、一部わずかにソリストと乖離するところ、ただ、ミュンシュだけはあり力技と言っては失礼かもしれないがそのまま聴かせ通してしまう。ブラヴォで終わるのは協奏曲ではソリストに対するものだろう。音質は推して知るべしのモノラルで雑。
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ショスタコーヴィチ:交響曲第6番

2017年02月17日 | Weblog
コンドラシン指揮ウィーン交響楽団(kapellmeister)1977/7/26live

ステレオだがノイジーで時折パチパチが入るのが耳障り悪い。環境雑音も多い。新古典主義的な簡潔な書法において旋律性を重視し各パート、各セクションに過剰にも感じるほど強い表情を付けさせ、期待通りのショスタコを聴かせる。調和的な音響よりアンサンブルの攻撃性を表面に打ち出し、一、二楽章ですら三楽章のような激烈な音楽に聴かせるから、逆に楽章間の対比が薄まっているが、耳を惹きつけて止まない。悲観性と楽天性の差が無いとしても純粋に楽しめる音楽として即物的に仕上げている。全体構成が平板でラストも起伏はなく断ち切れるような感はある。拍手に少し戸惑いを感じるのもそのためか。オケがどうこうではなくコンドラシンのショスタコーヴィチであることに揺るぎはないのだ。晩年ですら同じだったのである。VSOにしてはミスが無く手抜きも無く、音にウィーン風の緩さも無い。音色は素晴らしく美しい。木管ソロの上手さが印象的だが弦楽などコンドラシンの思うがままに操られ、強く引き締められている。
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:田園交響曲(交響曲第3番)

2017年02月16日 | ヴォーン・ウィリアムズ
○ボールト指揮ロンドン・フィル他(LONDON/BELLART)1950'S

優しく、優しく、しかし限りなく哀しい音楽。世界戦争の時代に産み落とされた極めて美しく繊細な響きの綾、何度も書き直されているとはいえ神がかり的な楽想と絶妙な複調性に彩られた世界は英国人でなくとも深い心象を与えられる。これは陸軍将校であったRVWの悲しみと諦念のあらわれである。戦下に見たプロヴァンスの喉かな風景、明るい光に憧れを抱く暗い気候の国の人は明るい国の人以上に光の本質をえがくことに優れ、これはミヨーの極めて美しい田園作品群と比べて決して優るものではない、だが何と眩いことか、残る気分の切ないことか、平和で穏やかな情景への限りない憧れに満ちたものであることか、その手はけして届くことはない、けれども精一杯手を伸ばし、限りなく上からひびく遠い歌声に静かな涙を流す、これはもう技法どうのこうのいう問題ではない。その描く内容が全てだ。「描けていること」のみに感嘆すべき作品である。

タリスの主題による幻想曲もそうだが茫洋とした印象派的世界かといえばそうでもなく、明瞭な旋律とリズムが通底するシンプルな(凡庸という意味ではない)書法だ。5番ほど技巧的に完成されていない分あざとさを感じさせること無く素直に入ってくる(私はとても好きだ)。この作品を五音音階(英国民謡に元々あったものだ)や似通ったフレーズだけをたよりにドビュッシーの延長上ととらえるのは誤りである。寧ろラヴェルの技巧的本質を反映した描線の明確な作品といえる。とくにこの時期のボールトで聴くと芯の強い響きと旋律の流れが印象的である。スピード感があり、じっさいかなり速いことは特筆すべきだろう。この旧録はモノラルだが、モノラルなりの凝縮力というものが強みに働いており、ドイツ的なものにも適性を発揮するボールトが、ドイツとフランスという相反する要素を内在するRVWの作品を両面から突き上げて、どちらかに偏ることによる違和感をなくすことに成功している。ボールトから入った私のような人間は新しい数々の演奏にどうも平板でつまらない印象を抱いてしまう、それはフランス的な美しさ、高音要素を強調しすぎているせいだと思う。もっと重心は低いはずである。音は高くても使われている楽器は中低音楽器だったりする、これは単なる癖ではなく意図的にその情報量豊かな響きを狙ったものである。

たとえば3楽章はダイナミックな音楽であるはずだ。誰かが映画音楽作家ジョン・ウィリアムズへの直接的影響を語っていたが、テデスコの弟子との関係は時代的に絶対ありえないものの、そこには確かに似たものがある。例えばスター・ウォーズのダイナミズムと必ずしも遠いものではないのである。違うのは映像を伴なわない、必要としないことだ。この作品は全てが心象の反映であるから映像や文章論理にあわせてしまうと聴くものの想像力が完全にスポイルされてしまう。挙げ句美しいだけの単なる描写作品と思われてしまうのだ。「印象派的」というイメージを植え付けられている向きは恐らくそういったもの~多くはジャケット写真や煽り文句~を見、読んだことが大きいのではないか。明瞭な文脈でしかし想像力を刺激するという稀なる技に成功しているこの作品、もちろんいろいろな聞かれ方があっていいと思うが、まだよくわからないという向きはボールトのバランスで一度聴かれてみてはいかがであろうか。最初は新録をお薦めするけれども。
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☆マーラー:交響曲第9番

2017年02月16日 | マーラー
○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1969/1/30,2/1live・CD

30日録音については再三海賊盤が出回っているので言外とするが、クリーヴランド管弦楽団による生誕100周年記念の正規復刻(CENTENNIAL CD EDITIONボックス収録)とはいえ音はけしてよくはない。リマスタリングもされておらず、結構多いオケのミスや雑さ(終盤疲れたね。。)はおろか環境雑音までもが余りにはっきり聞こえすぎ。2楽章では正規にもかかわらず混信のような変調が一カ所。三回の演奏会の寄せ集めのはずなのに、、、うーん。そりゃ記録用録音よりもホール座席のほうがいいバランスで録音できるだろうさ?しかし重量感が強く感じられ、MEMORIES盤の印象が正しかったことがわかる。スピードのドライな速さは一部非常に特徴的な解釈表現を除けば気になるところで、トスカニーニ様式を極端にしたようなところも否定できない。リズム感のよさが発揮された2楽章は気の利いた解釈含め聞き所ではあり、高価なボックスという条件さえなければロスバウト好きにアピールできる演奏、ということでお勧めできなくもないが。録音は拍手も無いが、そこも含めオケのぎくしゃくがリアル過ぎて、細かいところまで聞こえることが必ずしも楽しめるということには繋がらないということがよく認識できる。○。
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コダーイ:ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲(第12変奏を除く)

2017年02月16日 | Weblog
作曲家指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1946/11/23live放送・CD

コダーイは長生し自作自演をいくつか残しており、こなれた指揮をするから安心して聴ける。ここでは録音が弱いせいもあるが、民族的な音楽であるもののそつない表現ですんなり通している(第12変奏についてはカットされている。放送上のことである可能性もあるが恐らく演奏自体していないと思われる)。バルトークの抽象的に昇華された民族主義とは異なり前世紀国民楽派の範疇にあるような親しみやすい作風を固持したが、今やハーリ・ヤーノシュ以外あまり聴かれず、一方で短命のバルトークは頻繁に取り上げられるというのは対極的に過ぎる状況だ。第二次大戦勃発時の作品で、自由を訴える反ファシズム作品として敢えて親しみやすい音楽を書いたとも言えそうだが、そこまで露骨な民族的表現の表出というのは(テーマの民謡そのものの情熱的な内容はさしおいて)無く、変奏曲は新ロマン主義的なさまざまな角度から円熟した技法を陳列している。もっとも、「こりゃディーリアスだろ」というような変奏曲もいくつか見られ、他にも影響というか、おそらく確信犯的に同時代ないし前時代のロマン派傾向をもった作品に近いものもある。そういったジェネラルな親しみやすさもコダーイの個性であり、ハーリ・ヤーノシュより印象的に古く、わずかにフランス的な和声の影響がある程度なのはそういうものなのである。前衛だけが抵抗ではない。大衆性も抵抗である。
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ショスタコーヴィチ:交響曲第6番

2017年02月16日 | Weblog
オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1969/5/15放送live・CD

放送レベルのノイズのあるステレオ録音だが、ハーモニーの精緻な再現ぶりが素晴らしい(私の盤は正規だが3楽章で劣化し激しくノイズが入るのは置いておく)。それはか弱い青瓢箪ではなく肉感的な大編成オーケストラでなされるからこそ意味がある。ショスタコーヴィチの簡素なオーケストレーションもしっかり肉付けされたうえで初めて真価を発揮する。総力戦の力づくで押さえつけるのではなく、意図された響きを正しく整えて強力に提示することによってこそ楽曲の本質が伝わる。恐らくショスタコーヴィチもこのような演奏を望んだであろう。物語はスコアが語ってくれる。3楽章の大団円への持っていきかたは素晴らしい。ブラヴォで終演。
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