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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

バックス:幻想ソナタ

2009年04月14日 | イギリス
○ジェレミー(Va)コルチンスカ(Hrp)(NGS他)1928晩夏

これも正規のネット配信が始まっているが、ヴィオラ集の一部としてCD化されたことがあるようだ。非常に美しい曲ではあるが、前半2楽章はどうしてもドビュッシーのトリオソナタの影響を払拭しきれない。旋律に民謡を取り入れたりRVWふうの単純な音形やイベールふうの感傷的な表現によって、ドビュッシーの神秘的な世界から世俗的な脱却をなそうとしているようには感じるものの、いかんせんそのまんまな音ばかり使われては・・・といったところ。だから逆にドビュッシーの同曲が好きな向きはとても楽しめよう。後半は世俗性が増し民謡的な部分やロマンティックな重さも含めバックスらしさが(それが良いとも言えないが)出てくる。しかしこの曲にもまして印象的なのはハープ!SPならではの硝子のような響きがその原音に迫っているかのよう。深く透明な音で、ヴァイオリンのニスのような渋茶を奥底に覗かせながら、フランス派とは少々違った古雅な趣を醸している。楽器自体違うのかもしれない。古い音だ。ヴィオリストはヴァイオリンと聴きまごう音だがこれはこれでよい。◎にしたかったが録音状態が悪いので○。
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シェーンベルク:浄夜

2009年04月14日 | ドイツ・オーストリア
○スペンサー・ダイク四重奏団、ロッキア(2ndVa)、ロビンソン(2ndVc)(NGS)1924/10/10、12/30・SP

これも正規WEB配信化がなされている。スペンサー・ダイクというヴァイオリニストが構造のしっかりしたブラームスっぽい音楽に向いていることがよくわかる。時折混ざる奇妙なコード進行を除けば単純化された後期ロマン派室内楽そのものとして聴こえ、しかしそれほど噎せ返るような音色感は出さず、程よい温もりのあるイギリス的な音できっちりと締めている。ずいぶんと古風ではあるが聴きやすく、いい演奏だと思う。苦手なくせに譜面まで持ってる私だがこれなら聴ける、というか譜面と突き合わせると何か見えてきてしまいそうなので突き合せません。○。
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ドビュッシー:弦楽四重奏曲

2009年04月14日 | ドビュッシー
スペンサー・ダイク四重奏団(NGS)1924/8・SP

いやー、最初から走る走る。と思ったら突然全部の音符を切ったり、弓の赴くままに伸び縮みするする。もう、ここまでくるとアマチュアである。オールドスタイルという言葉では済まされない(じじつアバウトさは同時期の他団体による演奏に比べ段違いである)。スペンサー・ダイクというNGSの代表選手のようなソリストはドイツものではがっしりやっているので、こういう不安定な演奏(音も浅くてボウイングは切れ切れ、とにかくなってない)は曲への無理解があるとしか思えない。確かに終楽章のコーダ前あたりなど法悦的で美しい場面は無いことも無いが、音色の浅さ単調さは如何とも。ボウイングがとにかくぎごちなく、学生時代の自分を思い出して恥ずかしくなった。そういう恥ずかしい演奏が好きなら。私は○をつける勇気が無い。NGS録音は正規にWEB配信化が進められており音質的にもそれなりに聴けるものとなっている。興味があれば検索してみつけてください。無印。
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グーセンス:弦楽四重奏のための二つのスケッチ

2009年04月13日 | イギリス
○ミュージック・ソサエティ四重奏団(NGS,PARLOPHONE)1925/5・SP

弟のオーボエ奏者レオンのほうが著名なのだろうか、それにしては後年シンシナティで活躍した指揮者ユージンのほうが”節度のありすぎる”解釈ぶりにもかかわらず盤数もずっと多い。作曲家としては前半生にその活動の殆どを終わらせている。某共有サイトによればこれは1916年作品というので先ずオケのヴァイオリン奏者として活躍した直後の時期のものであろう。ヴァイオリン弾きというのは頗る好色家にて身を滅ぼす場合多きこと、しかし作曲面でその楽器よりくる性格はしばしば良い方向に向かう。「湖のほとりで」は個性的ではないがディーリアス張りのハーモニーに色気があり、ミヨーの上出来の作品のような無駄の無い(単純な)書法で聴き易い。「鬼火」のほうは現代的な作品であり、しゅっと締まったものである。バックスの下手な作品より巧みかもしれない。

グーセンスの作品はNAXOSでもよく売れていたと思う。スタンフォードの弟子にしては、という作風で、つまりヴォーン・ウィリアムズなどと同様少し前のフランス音楽の影響を強く受けている(指揮者としても色彩的な音作りが売りでドビュッシーのスペシャリストとみなされていた時期もあるようだが、音盤では正直伝わりづらい)。

そしてこの団体だが、バルビローリがチェリストとして参加しておりSP時代に集中して録音を残している(のちメンバーを半分入れ替えインターナショナル弦楽四重奏団として活動)。活動時期が短くそのいずれもが正直B面扱いだが、私が未だに聴けていないプーネットとのRVW「幻想五重奏曲」については全曲である。パーセルやギボンスなど自国の古典派への志向も感じられ、一方でこのような同時代の自国の最新楽曲を取り上げるというのは、要するにレコード会社の意向で隙間産業的な扱いを強いられたということなのだろうか。バルビローリの意向がそこに入っていたかどうかは不明だがパーセルあたりに愛着を持っていたのは後年の活動からも明らかである。

技術的にはクリア、という感じ。プラスが無い。押しの弱さを感じる。バルビも含めSP時代の録音にありがちな状態というか、例えば音程のアバウトさなどあり、技巧的に完璧とは言い難い。フレージングも滑らかとは言えず、若さゆえの生硬さというか、小粒感がある。バルビのボウイングが曲の情趣に反し意外と堅いのが興味深かった。

但し、この曲や古典曲(とCD化されているいくつか)だけでは何とも言えない。バルビローリ協会の活動は遅遅としていて、LP時代後期に自主制作した4枚(全部で何枚かは協会のトップサイトを見てくだされ)の復刻すらままなっておらず、そこに含まれていた幻想五重奏曲や無伴奏抜粋など、バルビローリのチェリストとしての真価を問えるようなものの復刻を、そして一方では恐らく2枚あれば十分収まるであろうこの四重奏団の全記録の復刻を期待したい。ってわりと同じようなことを書いている人が古今東西けっこういるんだよな。
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シマノフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番

2009年04月10日 | 北欧・東欧
○シムチェフスカ(Vn)ペンデレツキ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィア(DIRIGENT:CD-R)2008/8/26live

最近のエアチェックものは危ないので手を出していないのだがこの組み合わせ(ドボ8・・・)は仕方ないので手にした。いかにもな選曲だが、やっぱり生硬である。遅いテンポで響きをいちいち確かめるように進むから、シマノフスキの音響志向が意図通りしっかり聴こえてくるのはメリットとして、書法的な単調さや曲自体の求心力の弱さが露呈してしまっている。シマノフスキの真価を問ううえでこういう(ちょっと違う気もするが)客観的に整えた演奏は必要ではあるが、ライヴでこの面子だと、このくらいか、清潔だなという印象しか残らない。諸所に非常に感銘を受ける箇所はあり、意外と面白い曲だとは思ったが、やっぱり拡散的な曲だな、モントゥあたりにさばいてもらったほうが聴衆は楽しいだろうな、という感じ。いい意味でも悪い意味でも聴衆反応は大きい。○。
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ドビュッシー:レントより遅く(ヴァイオリンとピアノ編曲)

2009年04月10日 | ドビュッシー
○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live

板起こし。スヴェトラのピアノはドビュッシーに適性がある。輪郭がはっきりとしメリハリがあり、楽想に流されないところが(本質とは異なるかもしれないが)聴きやすい。時折雑な指揮ぶりと比べてちょっと意外にも思われるフォルムの明確さがある。この曲も恐らく連弾をヴァイオリンに振り分けただけだと思われるが、小組曲よりゆったり入り込める余裕がある。ハスッパで粗雑な印象もなきにしもあらずだが、ライヴであれば楽しめただろう。○。
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ドビュッシー:小組曲(ヴァイオリンとピアノ編曲)~Ⅰ.小舟にて

2009年04月10日 | ドビュッシー
○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live

板起こし。個人的にはこの日の雑多なプログラムの中で一番惹かれたもので、性急な表現になってしまいがちなその他の曲にくらべ平坦でのっぺりとしており、ほっと落ち着くのである(しかし聴衆反応はどの曲でも判で押したように大喝采だが・・・)。編曲がかなり簡素で検証はしていないが恐らく原曲のピアノ連弾をそのままヴァイオリンとピアノに分け持たせただけだろう。ヴァイオリンにとってこういう音数の少なく要求表現の幅の小さい曲は難しい。逆にソリストの技量が試される。その点クリモフは高音の伸びがいまいちというか、長い音で音程が不安定になるところが気になった(ただ板起こしのため原盤が歪んでしまっているだけかもしれない)。でもそれくらいで、違和感しきりの編曲であるにもかかわらず、ほんわかした。何じゃこの感想。○。
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プロコフィエフ:ヴァイオリンとピアノのための5つのメロディ

2009年04月10日 | プロコフィエフ
○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live

板起こし。ヴァイオリンリサイタルの定番曲でありこの盤のメインである(スヴェトラ自作自演を除けば)。ラヴェルの匂いを嗅いだような脂の乗り切った時期の小品集だが、このコンビにもしっくりきたのだろう、雑多なプログラムの中でも安心して聴ける出来となっている。スヴェトラのスタイルはバンスタのピアニズムを彷彿とさせる、伴奏というよりアンサンブルを仕掛けるような積極的なものだが、このようなプロコにしては単純な曲であっても、しっかり書き込まれたものでは威力を発揮する。なかなか。ただ、ソリストとしての技術にはちょっと問題はあるように思う。これはクリモフにも言えることだが・・・全般性急激烈でメリハリを付け過ぎて、その場限りのセッションになってしまっている。リサイタルはそれでいいのだろうけど。○。
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クライスラー:ロンドン・デリーの歌

2009年04月10日 | ドイツ・オーストリア
○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live

板起こし。アンコール曲の定番だが、徒に技巧的な編曲を施さず、素直に表現している。音響的な浅さはあるが(録音のせいかもしれない)悪くない。○。
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サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン

2009年04月10日 | その他ラテン諸国
○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live

板起こし。この曲にかんしてはライヴということもあり双方荒い。技術的な問題を感じさせるスヴェトラの誤魔化しに始まり(伴奏ピアニスト専科の人にはありえないタッチではあるがメリハリをつけるための表現の幅と好意的にも捉えられる)終盤は速さと強靭さに正確さがついていかないソリスト、だがライヴであれば十分楽しめたろう。金属的な烈しさはこの名曲リサイタルなプログラムだとロシア様式そのもので(録音であればコーガンのものみたいなかんじ)、このコンビだからというわけではない。つんのめるような激烈さ。○。
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クラシックという牢獄

2009年04月09日 | Weblog
わかったふうなエセ評論家的表題にて書いてみようと思ったけど、クラシック聴いてないんだよな。。

もちろん普通の人に比べれば聴いているだろう。ここで普通と言うのは、特に楽器に触れるでも、特に誰かの薫陶を受けるでもなく、生育環境に偏った音楽的要素が無く、ちゃんとした大人として、音楽をそのほんの一部として慎ましく生活を送っている人々のことである。

決して知識の魔力に取り付かれ聴くより読むことで音楽を語るのが全てになってしまっていたり、大量消費社会に生きるものとして貪るように聴くうちその中身より聴けるコンサート存在する音源全部聴くこと自体が目的になってしまっていたり、その末に自分自身が(評論家すら通り越し)名音楽家だと勘違いしてプロに直接とんちんかんな文句をつけてみせたり、とにかく多数の曲を弾くことを目的に弱小アマオケや小団体を渡り歩き消化不良を繰り返しながらその事実を勲章として競いまくったり、スコアや譜面を買いあさり通勤の行き帰りにそれを貪り読む(様子を他人に見せつける)ことに至上の喜びを見出したり、レコード屋の新入荷品のためエサ箱目当てに開店前に並んだり(中古転売業者はある意味プロなので別だが)、どこかのオケの年間会員となって別に需要も無いのにいちいち緻密な感想をbbsやブログにあげたり、

・・・なんとか100バカというバカ本(バカボンではない)とかぶってきたのでこのへんにしとくが、とにかく「普通じゃないマニア」が、かつて「上流階級」が「異文化音楽」を特権的に聴いていた頃の幻想から自分に投影し、スノビズム丸出しで鼻の高さを競うような、まー結局遠目にはどんぐりなんだけど、そういう世界とは無縁の普通の人よりはきっと聴いている。

クラシック音楽というのは日本だけで使われる言葉と言われる。国によって違いはあるようだが、英語ではClassical Musicと言わないと通じない(と言い張る英国人がいた)。和製英語の典型的な用法というわけだが、クラシカル・ミュージックと言うと何かかっこいいと思うのは私だけだろうか。というか、「クラシック」音楽という言い方をされたとたんもう、意味不明で、黴臭い感じがする。

クラシック音楽というと、前記のようなマニアが跋扈する魑魅魍魎の世界・・・でもそれはロンドンの中流家庭の庭より狭い・・・を想起するのは「自分がマニアだから」だろうが、それ以外に、「上流家庭のお稽古事」のイメージとか、歌詞が無かったりあっても堅くわかりにくい外国語で伝わりづらいイメージとか、文字通り歴史の源流に位置づけられる古い音楽で教養として聴いておかないと歴史認識に支障をきたすものであるとか(んなわきゃない)、そもそも学校で教えるたぐいの音楽であり学校で教えるようなものは全て悪であるとか、もうなんだか、いろいろドロドロなものが混沌とし気色の悪い匂いを発して発酵している(おおざっぱに(ザッパではない))ロックミュージックサイドに言われたくは無いものの、やっぱりなんかイメージがよくない気がする。

敷居が高くて、乗り越えて入ってみてもまた高い敷居があるだけ、乗り越え乗り越えして何年もするうちに、やっと敷居は低くなってゆき、広大な世界が見渡せるようになってくる。クラシックは人好きする音楽ではそもそもない。中欧オリエンテッドのローカル音楽が基盤になっているのだから日本人がそもそも楽しめることを前提にしていないのだ(ロックはシンプルさ、とにかく詩重視で、単調なメロディとリズム(と少しのコード)のみを武器にしているからローカリズムが際立たない、そもそもアフリカ・オリエンテッドな音楽である)。宗教的・言語的背景の重要性は既に数十年前より指摘されていることである。クラシックはそれらが大きく影を落とした上にやっと成立した分野である。異なる宗教圏異なる言語圏(それらは往々にして一致するが)の者にとって、馴染めない部分があるのは当たり前である。ロックだって洋楽であればそういったものを背景とした隠喩が伝わらないこともあるがとにかく単純なので歌詞なんかどうでもいいくらい伝わりやすい。誤解されたとしても刹那的には楽しませることができる。しかしクラシックは細かいメカニカルな構造のかなりの部分にそういった要素が入り込んでいる。リズムの体感的センスの違いは典型的なところだ(西欧でさえ出身地によりリズム表現が異なったりする)。奇数拍子が騎馬民族的で農耕民族にそぐわないという俗説は極論だと思うが、ジャズにて発展することになるポリリズム感覚など後天的に身に着けるのは難しいし、それを聴いて楽しいと思うかどうかは更に難しい。知識偏重主義になるマニアがいるのもせんないことである。なかなかに面倒で、やっぱり敷居は高いのだ。

・・・なんてことを書いているうちにこの文章自体が既に敷居の間に挟まれ、クラシックという牢獄から出ることも入ることもできなくなっていることに気づく。まあ、一言強引に〆るなら、

クラシックって無理して聴くこと無いんじゃね?
Comments (6)
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マーラー:交響曲「大地の歌」

2009年04月09日 | マーラー
○ザンデルリンク指揮ロス・フィル、ネス(A)ジョーンズ(T)(LANNE:CD-R)1989/3/12ドロシー・チャンドラー・パヴィリオンlive

聴衆はやけに沸くのだが、演奏はゆったりした法悦的なテンポよりもフォームが崩れず熱しない音楽、そつない整え方が気になる。ザンデルリンク壮年期にみられた情緒もなく、このロマンティックなオケをもってしても伝わってこない。録音がぼんやりとしステレオではあるが悪いせいもあるだろう。歌唱はオーソドックスに巧く、告別の末端にいたるまで楽しめるのだが・・・そういえばオケの精度も妙に高い。ちょっと緊張し過ぎた演奏ということなのか。耽溺するでもなく、すっと透明感を売るでもなく、以前に流行った客観スタイルを保ちつつ、多少ロマンティックにやったふう。○。
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ラヴェル:ボレロ

2009年04月08日 | ラヴェル
○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(TOPAZIO)1975LIVE・CD

MORGAN'Sの4/11録音とされるものと同じ可能性あり。チェリビダッケのボレロであり、ブレは無い。前進的でガツンガツンと盛り上がっていくが、かといって何か徒に気を煽ることについては抑えているようでもある。音質は70年代にしてはいいステレオ。拍手はすごい。オーソドックスに楽しめるが、ほんらい求められるボレロではないかもしれない。○にはしておく、今回は。ほかにフィンガルの洞窟が入っているが、更に後年のマーラーの亡き子が著名な海賊盤CD。まとめてCDR化されたと思う。
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マーラー:連作歌曲集「亡き子をしのぶ歌」

2009年04月08日 | マーラー
○ファスベンダー(Ms)チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル("0""0""0"classics:CD-R/topazio)1983/6/30live・CD

放送音源らしきノイズが僅かに入りキンキンいう箇所も少しあるがほぼ明晰なステレオ録音、チェリらしい巨視的な響きを聴き取ることが可能である。歌唱の注意深い情感表現もさることながらチェリの響きへのこだわりが決して神経質なのではなく、なめらかなレガート表現を伴って初めて音楽的なふくらみを持ったものとして成立している。抑制的で柔らかく十分マーラーのロマン派的側面を感じ取ることが可能だ。聴き応えがある。マーラーの中期以降の歌曲はバックオケの比重が重いので、当然独唱だけではなく指揮者やオケにかかっているところがある。曲に起因して一部チープな街頭音楽ふう煩さも無きにしも非ずだが、おおむね大地の歌以降を思わせる無駄無く書き込まれた管弦楽を、如何に「重くさせずに」表現するかがこの演奏の鍵であったように思う。それは成功であり、チェリがマーラーを嫌い記録としてはこれしか残さなかったのは(演奏自体は9番か大地をやっているはずである)ちょっと残念であった。海賊盤でcdrはそのコピー。盤質は悪い。○。
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ポンセ:ヴァイオリン協奏曲

2009年04月03日 | その他ラテン諸国
○シェリング(Vn)ブール指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(EINSATZ/ODEON)1951・CD

シェリングに捧げられ有名ヴァイオリニストでは殆どシェリングしか弾いてないんじゃないかというポンセのコンチェルトである。既に書いてきているとおりメキシコ人になったシェリングは各地で親友の曲を演奏紹介し、また録音しており、時期やバックオケによって印象が異なる。だがポンセは基本当時の現代作曲家で、終楽章に露骨にメキシコの民族主義的なリズムが顔を出す以外は比較的冷めた機械的な書法で無駄なく「無難に前衛な」音楽を描いている。けして無理のない、でも簡素ではない音楽は新古典主義の気風を受けていることを裏付けているが、あとはソリストの表現力ということになり、その点でいうと後年よりもこの若きシェリングのほうが線が太くはっきりした情感ある音楽を作り上げており、モノラルではあるが一聴に値すると思う。バティスのものよりはこちらを推したい、それはオケがすばらしく「現代的」で、ブールの冷徹な技術がコロンヌ管の透明感ある音を利用して、この曲をローカリズムから脱却させているという点でも言えることである。

大曲感が強く、だらだらとはしないが聴くのには少々勇気がいるかもしれない曲であるものの、凝縮されたようなモノラルだと寧ろ聴き易い。シェリング好きなら若きシェリングがけして開放的なスケール感を持ち、鉄線のような音でやや技巧的にぎごちなくも美しく表現する人であったのではなく、同時代の巨人的ヴァイオリニストに匹敵する技巧を兼ね備えある程度骨太に滑らかに連綿と物語を綴ることができていることにちょっと驚きがあるかもしれない。特徴としてある高音の音響的な美しさが既に現れている、しかし禁欲的で無味無臭でもない、そこがポンセの立ち位置と合致したところをブールがうまく演出している。倍音を多く取り込むアナログ盤からの板起こしであることを明言しており、それゆえ僅かなノイズは避けられず(但し板起こしが原盤ディジタル起こしを上回る見本のような復刻状態ではある)○にはしておくが、シェリングの出来立てホヤホヤのようなポンセに出会えるいい機会。在庫稀少とは単に僅かしか生産していないだけなので焦ることはない、機会ができたらどうぞ。それにしてもシェリングはステレオ以降の印象が強く、モノラル期はこんなふくよかで自然な面もあったのかと驚いた。

Sibelius: Violin Concerto in D minor; M.Ponce: Violin Concerto / Henryk Szeryng, Ernest Bour, Concerts Colonne
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