わかったふうなエセ評論家的表題にて書いてみようと思ったけど、クラシック聴いてないんだよな。。
もちろん普通の人に比べれば聴いているだろう。ここで普通と言うのは、特に楽器に触れるでも、特に誰かの薫陶を受けるでもなく、生育環境に偏った音楽的要素が無く、ちゃんとした大人として、音楽をそのほんの一部として慎ましく生活を送っている人々のことである。
決して知識の魔力に取り付かれ聴くより読むことで音楽を語るのが全てになってしまっていたり、大量消費社会に生きるものとして貪るように聴くうちその中身より聴けるコンサート存在する音源全部聴くこと自体が目的になってしまっていたり、その末に自分自身が(評論家すら通り越し)名音楽家だと勘違いしてプロに直接とんちんかんな文句をつけてみせたり、とにかく多数の曲を弾くことを目的に弱小アマオケや小団体を渡り歩き消化不良を繰り返しながらその事実を勲章として競いまくったり、スコアや譜面を買いあさり通勤の行き帰りにそれを貪り読む(様子を他人に見せつける)ことに至上の喜びを見出したり、レコード屋の新入荷品のためエサ箱目当てに開店前に並んだり(中古転売業者はある意味プロなので別だが)、どこかのオケの年間会員となって別に需要も無いのにいちいち緻密な感想をbbsやブログにあげたり、
・・・なんとか100バカというバカ本(バカボンではない)とかぶってきたのでこのへんにしとくが、とにかく「普通じゃないマニア」が、かつて「上流階級」が「異文化音楽」を特権的に聴いていた頃の幻想から自分に投影し、スノビズム丸出しで鼻の高さを競うような、まー結局遠目にはどんぐりなんだけど、そういう世界とは無縁の普通の人よりはきっと聴いている。
クラシック音楽というのは日本だけで使われる言葉と言われる。国によって違いはあるようだが、英語ではClassical Musicと言わないと通じない(と言い張る英国人がいた)。和製英語の典型的な用法というわけだが、クラシカル・ミュージックと言うと何かかっこいいと思うのは私だけだろうか。というか、「クラシック」音楽という言い方をされたとたんもう、意味不明で、黴臭い感じがする。
クラシック音楽というと、前記のようなマニアが跋扈する魑魅魍魎の世界・・・でもそれはロンドンの中流家庭の庭より狭い・・・を想起するのは「自分がマニアだから」だろうが、それ以外に、「上流家庭のお稽古事」のイメージとか、歌詞が無かったりあっても堅くわかりにくい外国語で伝わりづらいイメージとか、文字通り歴史の源流に位置づけられる古い音楽で教養として聴いておかないと歴史認識に支障をきたすものであるとか(んなわきゃない)、そもそも学校で教えるたぐいの音楽であり学校で教えるようなものは全て悪であるとか、もうなんだか、いろいろドロドロなものが混沌とし気色の悪い匂いを発して発酵している(おおざっぱに(ザッパではない))ロックミュージックサイドに言われたくは無いものの、やっぱりなんかイメージがよくない気がする。
敷居が高くて、乗り越えて入ってみてもまた高い敷居があるだけ、乗り越え乗り越えして何年もするうちに、やっと敷居は低くなってゆき、広大な世界が見渡せるようになってくる。クラシックは人好きする音楽ではそもそもない。中欧オリエンテッドのローカル音楽が基盤になっているのだから日本人がそもそも楽しめることを前提にしていないのだ(ロックはシンプルさ、とにかく詩重視で、単調なメロディとリズム(と少しのコード)のみを武器にしているからローカリズムが際立たない、そもそもアフリカ・オリエンテッドな音楽である)。宗教的・言語的背景の重要性は既に数十年前より指摘されていることである。クラシックはそれらが大きく影を落とした上にやっと成立した分野である。異なる宗教圏異なる言語圏(それらは往々にして一致するが)の者にとって、馴染めない部分があるのは当たり前である。ロックだって洋楽であればそういったものを背景とした隠喩が伝わらないこともあるがとにかく単純なので歌詞なんかどうでもいいくらい伝わりやすい。誤解されたとしても刹那的には楽しませることができる。しかしクラシックは細かいメカニカルな構造のかなりの部分にそういった要素が入り込んでいる。リズムの体感的センスの違いは典型的なところだ(西欧でさえ出身地によりリズム表現が異なったりする)。奇数拍子が騎馬民族的で農耕民族にそぐわないという俗説は極論だと思うが、ジャズにて発展することになるポリリズム感覚など後天的に身に着けるのは難しいし、それを聴いて楽しいと思うかどうかは更に難しい。知識偏重主義になるマニアがいるのもせんないことである。なかなかに面倒で、やっぱり敷居は高いのだ。
・・・なんてことを書いているうちにこの文章自体が既に敷居の間に挟まれ、クラシックという牢獄から出ることも入ることもできなくなっていることに気づく。まあ、一言強引に〆るなら、
クラシックって無理して聴くこと無いんじゃね?
もちろん普通の人に比べれば聴いているだろう。ここで普通と言うのは、特に楽器に触れるでも、特に誰かの薫陶を受けるでもなく、生育環境に偏った音楽的要素が無く、ちゃんとした大人として、音楽をそのほんの一部として慎ましく生活を送っている人々のことである。
決して知識の魔力に取り付かれ聴くより読むことで音楽を語るのが全てになってしまっていたり、大量消費社会に生きるものとして貪るように聴くうちその中身より聴けるコンサート存在する音源全部聴くこと自体が目的になってしまっていたり、その末に自分自身が(評論家すら通り越し)名音楽家だと勘違いしてプロに直接とんちんかんな文句をつけてみせたり、とにかく多数の曲を弾くことを目的に弱小アマオケや小団体を渡り歩き消化不良を繰り返しながらその事実を勲章として競いまくったり、スコアや譜面を買いあさり通勤の行き帰りにそれを貪り読む(様子を他人に見せつける)ことに至上の喜びを見出したり、レコード屋の新入荷品のためエサ箱目当てに開店前に並んだり(中古転売業者はある意味プロなので別だが)、どこかのオケの年間会員となって別に需要も無いのにいちいち緻密な感想をbbsやブログにあげたり、
・・・なんとか100バカというバカ本(バカボンではない)とかぶってきたのでこのへんにしとくが、とにかく「普通じゃないマニア」が、かつて「上流階級」が「異文化音楽」を特権的に聴いていた頃の幻想から自分に投影し、スノビズム丸出しで鼻の高さを競うような、まー結局遠目にはどんぐりなんだけど、そういう世界とは無縁の普通の人よりはきっと聴いている。
クラシック音楽というのは日本だけで使われる言葉と言われる。国によって違いはあるようだが、英語ではClassical Musicと言わないと通じない(と言い張る英国人がいた)。和製英語の典型的な用法というわけだが、クラシカル・ミュージックと言うと何かかっこいいと思うのは私だけだろうか。というか、「クラシック」音楽という言い方をされたとたんもう、意味不明で、黴臭い感じがする。
クラシック音楽というと、前記のようなマニアが跋扈する魑魅魍魎の世界・・・でもそれはロンドンの中流家庭の庭より狭い・・・を想起するのは「自分がマニアだから」だろうが、それ以外に、「上流家庭のお稽古事」のイメージとか、歌詞が無かったりあっても堅くわかりにくい外国語で伝わりづらいイメージとか、文字通り歴史の源流に位置づけられる古い音楽で教養として聴いておかないと歴史認識に支障をきたすものであるとか(んなわきゃない)、そもそも学校で教えるたぐいの音楽であり学校で教えるようなものは全て悪であるとか、もうなんだか、いろいろドロドロなものが混沌とし気色の悪い匂いを発して発酵している(おおざっぱに(ザッパではない))ロックミュージックサイドに言われたくは無いものの、やっぱりなんかイメージがよくない気がする。
敷居が高くて、乗り越えて入ってみてもまた高い敷居があるだけ、乗り越え乗り越えして何年もするうちに、やっと敷居は低くなってゆき、広大な世界が見渡せるようになってくる。クラシックは人好きする音楽ではそもそもない。中欧オリエンテッドのローカル音楽が基盤になっているのだから日本人がそもそも楽しめることを前提にしていないのだ(ロックはシンプルさ、とにかく詩重視で、単調なメロディとリズム(と少しのコード)のみを武器にしているからローカリズムが際立たない、そもそもアフリカ・オリエンテッドな音楽である)。宗教的・言語的背景の重要性は既に数十年前より指摘されていることである。クラシックはそれらが大きく影を落とした上にやっと成立した分野である。異なる宗教圏異なる言語圏(それらは往々にして一致するが)の者にとって、馴染めない部分があるのは当たり前である。ロックだって洋楽であればそういったものを背景とした隠喩が伝わらないこともあるがとにかく単純なので歌詞なんかどうでもいいくらい伝わりやすい。誤解されたとしても刹那的には楽しませることができる。しかしクラシックは細かいメカニカルな構造のかなりの部分にそういった要素が入り込んでいる。リズムの体感的センスの違いは典型的なところだ(西欧でさえ出身地によりリズム表現が異なったりする)。奇数拍子が騎馬民族的で農耕民族にそぐわないという俗説は極論だと思うが、ジャズにて発展することになるポリリズム感覚など後天的に身に着けるのは難しいし、それを聴いて楽しいと思うかどうかは更に難しい。知識偏重主義になるマニアがいるのもせんないことである。なかなかに面倒で、やっぱり敷居は高いのだ。
・・・なんてことを書いているうちにこの文章自体が既に敷居の間に挟まれ、クラシックという牢獄から出ることも入ることもできなくなっていることに気づく。まあ、一言強引に〆るなら、
クラシックって無理して聴くこと無いんじゃね?
昔、吉田秀和がシフラのリストやショパンをこき下ろしましたが、そのシフラのリストが凄い。その前に出てくるのがホロヴィッツの『カルメン変奏曲』ですが、一歩もひかない超絶技巧です。
コルトーの演奏しながらのレクチャー、彼自身が詩人のようです。
今朝聴いた、1948年METでのF・ブッシュ指揮『オテロ』は名歌手ぞろいで興奮、昼過ぎFMから流れてきた、往年のアイドル2重唱では石原裕次郎が上手かった。
そうですよね、素直に聞いておけばいいんだと思います。ピアノの名手をまとめた映像集は確か古今3つくらい大きなものがあったような気がしますが、恐らくおっしゃられているDVDは私がVHSで持っているものと同じだと思います(続編もありましたよね)。音楽は音そのものといいながら、実際には「見せる」ものでもあった、ということはハイフェッツも映像にて体言している。映像から音にわざわざ落として聴くことも多いのですが、本当は映像込みであるべきなのかもしれない、と思うのは、ピアノ独奏のさまを目撃したさいです。
ピアノを映像付きで見るのと、音だけで聴くのでは全然違いますね。
続編は知りません、有名な人でも収録されていない人が(シュナーベルとかハスキルとか)いますからそちらに入っているのでしょうか。私はユーラ・ギュラーというピアニストの人生について関心があるのですが、映像はないのかなあ。
オペラの海賊版とかは最近ないですね。結局有名な演奏がいろんな会社から出るだけ。
ピアノは音の純度が高いというか、「雑音」を孕むことで表現力の幅を出す弦楽や木管などと比べると音の幅というか特徴を出し変化させていくのが難しくまた繊細なこと、単純に音を出すだけでは(比較論として)簡単であっても楽譜より要求される数学的な技巧レベルも格段に高い。このあたりが映像更には実演と録音の違いにも現れてくる気がします。続編は大したものがなかったように思いますが記憶が定かではありません。warnerでしたね・・・確か。ギュラーは知りません、というか、記憶に無いだけで聴いているのかもしれませんが・・・ピアノを音だけで覚えることはなかなか難しい。ピアノの映像だと最近ではアシュケナージがメインになっているソヴィエト・エコーズの3枚組に面白いものが入っていたような記憶があります。
オペラもそうですが、かつての海賊盤の正規化も含め焼き直しが多いですね。逆に言うと、聴いて楽しめるレベルの音源がもう枯渇していて、せいぜい裏青化するくらいしかないのかもしれないです。
ホロヴィッツのチャイコフスキー、43年ライヴの正規盤は演奏してから10年以上たって、発売されています。ラジオで実況されていたので、全米の愛好家がプライベート録音したのを含め、最良の原盤を集め、これをRCAの技術者が大変な労力をかけ、マスターを製作したということでした。
海賊盤にしてもLP時代はそれなりの部数が出ないと利益が出なかったはずなので、資本も必要だったと思いますが、裏青なんて素人でも作れるし、モチベーションが出ませんよ。
一方とくに最近気になるのは廉価中古屋やネット流通・転売の旋禍により、つい10年前に出たCDまで須らく骨董品として扱われるようになったことで逆に流通が滞り、良質のものの一部マニアによる抱え込みが、本当に良い音盤の存在すら忘れさせてしまうようになった。。
海外では権利切れ音源を共有サイトにあげている例もままみられますが、権利の問題がまた足を引っ張るんですよね、これは宿命ですが。
いずれにせよ手をかけて作られた音盤を劣化するまで聞く時代ではなく、ただ多くを消費するように聞く時代に迎合した物欲本位的な態度は自省するところです。裏青にも色々あり、昔と同じようにマニアが裏流通させることが正規化の後押しになることもありますから、このあたりグレーです。