湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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妖精の園

2007年05月13日 | Weblog
ときどきオカルトをおもしろく観察したりしているのだが、今朝、「ファティマの奇跡」の最後の目撃者がなくなったというニュースを見て、少し感傷的な気分になった。オカルトといえば日本では70年代だ。そのころに取り沙汰されたさまざまなもの・・・ネス湖の怪物写真、UFO、交霊会、スプーン曲げ、五島氏のノストラダムス・・・が今それぞれの場所で、白亜の墓碑に名のみとどめ、記憶の湖床に眠っている。ときおり水面から顔をのぞかせることはあっても、夢なき現実の破壊者によってふたたび葬られ、あるいは気のふれた夢想主義者によってゴテゴテと飾り付けられ、でも結局は、飾りつけごと破壊されるを余儀なくされている。仕方ないのかもしれない。確かなものしか今は受け容れられない。夢は寝床で見ればいい。しかし、「コティングレーの妖精事件」に想いをはせるとき、ハーンのしるしたウェールズの少年時代の風景、そこにもう見ることのできない旧い日本の情景を重ね合わせ、それは捏造であるし、夢想でもあるものだけれども、ディーリアスの開かない目の見た情景音楽も、ラヴェルの机上で紡ぎ上げられた管弦楽編曲も、すべては現実とは関係なく、ただその夢想のうちに創り上げられたものではなかったか。誰がそれを捏造と言おう。今、そんな夢を音楽に描き出すことのできる人はいるのだろうか。朝日新聞のCMで、すべてが水の中に沈んでゆく情景の感傷的な雰囲気のどこかに、ロマンティックな音楽のどこにも哀しい要素なぞないのに、酷く哀しげな弦楽合奏がのってくるさまを見ると、「コティングレーの妖精」が命を得たピノキオのように画面から羽ばたき、伏せた一瞥をのこして去る幻影を信じてしまう。想像力なのだ。欠けている。想像力は新しいものを生むだけではない。想像力は人への理解と同情をたすける。

今の世界には不要なものなのか。

・・・ああ、何を書こうとしていたのか忘れてしまった。ピエルネのマ・メール・ロアが木霊して消えた。
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