湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ヴォーン・ウィリアムズ 交響曲(2012/3時点でのまとめ:6番から)

2012年03月28日 | Weblog
ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第6番
<RVWの奥座敷。煙と絶望の戦争を疑似体験。戦車のキャタピラ音(2楽章)。軍靴の響き、粗雑なパレード(3楽章)、瓦礫に吹きすさぶ風、怜悧な月光(4楽章)。>

ストコフスキ指揮NYP(SONY)

○ストコフスキ指揮NYP(DA:CD-R)1949/1/30live


謎のアンコールが一曲おまけで入っている。さすがNYPといわざるを得ない集中力でストコとはいえスピードとリズムの怒を尽くしてこの「戦争交響曲」をやりきっている。会心の出来と言えよう。当時NYPが得意とした、前後の時期アメリカで流行のトスカニーニ様式ではあるが、ストコの色彩性は失われておらずこの渋い曲から娯楽性に近いものすら引き出し、こんな魅力的な曲だったのか、と感嘆させられる。通常シニカルなスケルツォのビッグバンド的ブラスにばかり耳が向く曲だが2楽章などもやろうと思えばこんなに躍動感溢れる楽曲に仕上がるんだ、終楽章もこんなにロマンティックな感傷をかもすことが出来るんだ、そういった発見しきりの演奏。オケのソリストが巧くなければこのスピードや表現は出せないし、またストコに才能がなければワンパターンに陥らず曲によってここまでスタイルを変え弛緩しない音楽を作り上げることは不可能。ストコらしくないとすら感じた。CBSに正規録音あり。録音状態は悪いので○。

○クーベリック指揮イリノイ大学管弦楽団(私家盤)1952/3/29live

イリノイ大学管弦楽団のライヴ音源がWEB配信されているので参考。非常にクーベリックらしいアグレッシブな演奏で、1楽章冒頭からオケが崩壊しまくったさまが凄まじいが、パーカッションを中心にリズムを引き締め、(はなから取りまとめることの難しい)RVWなりの新古典的書法が印象的な弦楽合奏部をとにかく「単純に」整えていくことが功を奏して、2楽章は名演と言っていいであろう、戦慄すら感じさせる集中度の高いものになっている。クーベリック自身のバルトークを思わせるところがある。3楽章はややラフさが出、4楽章は前楽章とのコントラストと弱音表現に雑さを感じさせるが、依然前のめりでクーベリックらしい「擬フルトヴェングラー」なものになっており、音もまあまあで、RVW好きなら一度聴いてみていいと思う。○。

ブライデン・トムソン指揮LSO(CHANDOS)

バルビローリ指揮バイエルン放送SO(ORFEO)1970/4/10LIVE


~オケがあまりやる気がない。。一緒に入っているブラームスと比べたら雲泥だ。耳を惹くのは3楽章のブラス群くらいか。

バルビローリ指揮ボストン交響楽団(M&A/INTA GLIO)1964LIVE

~ボストンのブラス陣に傾聴。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1964/11/7live


M&A等と同一音源か。まあまあ安定した録音で、金属質の音響的演奏を繰り広げるボストン響と直情的なバルビの間に若干の温度差を感じなくはないものの、バルビ自身もかなりスペクタクルで、かつまだ「求心的な演奏」を志向している様子なだけに、「そういうものとして聴けば」最後まで楽しめる。RVWのこのての曲は決してささくれだった心情の直接的反映ではなく、客観的に(かなり理知的に)悲劇を描こうとしてできたものである節が大きく、オーケストラという楽器の威力を存分に発揮したパノラマ的音楽であるだけに、オケの演奏能力に、録音媒体ではその録音状態が問われる。その点この古い録音はかなり健闘していると言え、かといって浅薄な印象もなく(その音楽の意味性さえ問わなければ)印隠滅滅とした終幕までアタッカで続くドラマに没入できる。けっこういいです。○。

プレヴィン指揮LSO

○ボールト指揮ニュー・フィル(bbc,medici)1972/7/7ヴォーン・ウィリアムズ生誕100年記念コンサートlive・CD


ボールトにとってみれば最も掌中に納まった曲という意識はあるのだろうが、いくつもある演奏のいずれもどうも曲の浅さ、しかしRVW自身の灰汁の強さをそのまま表現してしまっているように思える。「映画音楽的」コケオドシを真面目に表現することによる違和感がしきりで、特にそういった書法は前半楽章に顕著なのだが、この「戦争交響曲」が結局戦勝国による確かに「抽象化」された回想にすぎないといった感を強くさせてしまう。

とはいえ首尾一貫した表現を追及するボールトの姿勢は各楽章のがらりと変わる性質を極端に強調して例えば3楽章を娯楽的に派手派手にやっつけ4楽章ですとんと落とすような指揮者とは違った、RVWの意図したところの「抽象性」に挑んだものとして評価できよう。それは3楽章からの流れが断絶されず4楽章の「死の静謐」がきちんとクライマックスとして認識できるよう設計されていることからも伺える。同曲ではこの楽章のみがRVWらしい美しくも哀しいしらべの横溢する印象的な音楽となっているのだが、単純に静かな死として表現するのではなく旋律性を意識した音楽作りは同曲初演後いくつか残されている他の指揮者の録音でも施されているもので、逆にプレヴィン以降これが他の楽章同様「情景描写音楽」としてひたすら低カロリーの「音響」に終始するほうがバランス的にもおかしかったのかもしれないと思う。

演奏的には弦楽器が弱い。楽器数が少ないのではないか(前座のタリスと同じ数でやったのか)?旋律の裏の細かい動きをメカニカルにしっかり律しないとラヴェルの使徒たるRVWの特長が活きてこないのだが、完全にばらけており聴きづらい。タリスではあれほどまとまり音も美しかったのに、ここでは単に薄くて存在感のない下手な弦楽器になってしまっている。ボールト後期のRVWは細部の纏めが甘く太筆描きのような流れでそれを補う、一種ミュンシュ的な力づくの表現がメリットでもデメリットでもあるが、この曲のようにかなりRVWにしては「無理をした」細かく書き込まれた作品では一流オケでも纏めるのは難しかろうし、仕方の無いことかもしれないが。全般オケとしても弱い感がある。○。

○ボールト指揮BBC交響楽団(BBC,imp,carlton他)1972/8/16プロムスlive・CD

晩年の記録だがこの人らしくブレは無い。寧ろ弛緩なく硬質の組み立てが曲想に合っていて、過去の同人の記録よりも板についている。かつての手兵BBC響の性向もこの鉄鋼製品のような曲向きなのだろう。

後期のささくれ立った作風によるこの曲は音響的なフレーズや非旋律的なアンサンブルが弾き難さを示す、RVWには珍しいともとれる構造を示している。ただそれは弦楽器だけのことかもしれない。むしろこの人の興味が打楽器とブラスに移行しつつあることを感じさせる。聞かせどころはやはりうねうねと細かと動く弦楽器の上で派手にぶっぱなす大音量の楽器たちにあるのだ。

1楽章は全般に派手めであるとして2楽章など平坦なスコアの上に突然鳴り響く警鐘をどう効果的に響かせるか、3楽章スケルツォは唯一娯楽的な楽章(ゆえに皮肉を暗示しウォルトン的な印象をあたえる)で乱痴気騒ぎをどうリズミカルに表現しジャズ風の崩しを聞かせるかにかかってくる。

このあたり、ボールトはおとなしい。古い録音はブラームス的な指揮者に対してモダンなこの曲はちぐはぐで違和感を感じさせるものに仕上がっていて(しかし初版から録音も初演もボールトなのだ)、硬質のアンサンブルが組み立てられず重い音響が常に曲とずれたような感覚を覚えさせた。この録音はそれらに対してかなり俊敏で違和感のないものになっているが、ボールト自身の興味がないのではないかと思わせるところもある。即ち2楽章はロマン派の解釈流儀に従い機械的に起伏をつけられ、非論理的構造を無理にあてはめようとして却って強い効果を失っている。3楽章は余りに真面目だ。まったく崩しがなく裏返った発音もなく、型にはめたようである。色がない。BBCオケ自体の音に色がないのではなく、解釈がそう指示しているように聞こえる。ただこの二つの楽章とも全体構造からして、また全体解釈からしては間違ったものとも思えず、また、戦車のキャタピラをあからさまに模倣する2楽章や敵国の戦勝パレードをあからさまに描写する3楽章など稚拙な陳腐さ極まる発想(ロンドン交響曲と同じようなものだが)を抽象音楽に昇華させようとする配慮に聞こえなくも無い。

しかし、4楽章にいたっていきなり強く叙情性が出てくると、ボールトはやはりこれまでの中間楽章には興味がなかったのかもしれないと思う。弦楽器のスラーのついた静かな起伏はまさに田園交響曲や5番の世界であり、木管とシロフォンの美しい響き、これはホルストの惑星の緩徐楽章そのものでもある。3楽章で敵国に蹂躙されたロンドンの廃墟にのぼる月、といったこの楽章の意匠と言われるものが、ここでは別の形で抽象音楽に昇華されている。思索的と言っても晦渋な思想ではなく、心象的なものだ。この楽章でしっかりしめているところにボールトの読みの深さを感じる。

それにしてもやっぱり通常一番の聞かせどころである3楽章でもっと派手にやってほしかった。○にとどめておく。録音最上。

ボールト指揮LPO1950S
ボールト指揮LSO1949

ロジェストヴェンスキー指揮BBC交響楽団

○ノリントン指揮LPO(decca)CD


ノリントンは実演でも日本を含みこの作曲家の交響曲をやっているが、最近は停止しているのか(マーラーに入れ込んでしまったのか)、全集は出来ず、この盤もレア化している。6番はノリントンの鋭い斬り込みを期待して聴いたのだが至極普通である。若干ささくれだった、と書こうとしたがこの曲自体がささくれの塊であることを思うとそれは「正しい表現」なのかもしれない。意気込んで聴いたわりにまっとうだった、という率直な反応。3,4楽章はコントラストを付けすぎないほうが聴きやすいな、とか、1楽章は余り曲の出来がよくないな、とか、ノリントンを通して発見することも多い演奏。

◎ノリントン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ELS:CD-R)2005/4/10LIVE


かなり音質が良く聴き易い。二箇所ほど瞬断があるが恐らく放送音源だろう。6番の演奏でここまで高い精度と弾み良い発音の活気のバランスが良いものもあるまい。ライヴだというから驚きだ。近年、近現代ものをよくやっていて注目の人だが「音だけで」聞かせられるかはどうなんだろう、というところもあったが杞憂だった。冒頭は鈍重だが、リズミカルな主題に入るととたんに生気を得る。ひびきが綺麗に整えられており、横長のフレーズではフレージングがしつこくないので更に聴き易い。2楽章中間部、ペットの警句が長い音符を鳴らすノンヴィブの弦の完璧なハーモニーで支えられているところなど素晴らしい効果があがる。RVWの静かなハーモニーにはノンヴィブが似合う。

「RVWの世界」は簡単に聞こえてなかなかフクザツな要素も内包しているから、こういうしゃきっと整えられたスタイルで聞くと耳からウロコなところがある一方で、3楽章の烈しさはバルビローリのような勢い任せのものではないのに非常に攻撃的で扇情的に聞こえる。主として弦のハーモニー、アタック、更にトータルな音響操作、このへんの素晴らしい律し方は古楽経験からの得難い資産として反映されていると感じられる。通常聞きどころのジャズ風のスウィングや楽想の生温さもよくありがちな「娯楽的に」ではなく、この曲の通奏主題である「不安」の一つのあらわれととらえられるくらい音楽的な完成度の高い3楽章であり、「烈しいRVW」としては最もよくできたスケルツォ楽章であるこの音楽の演奏としては、ひょっとしてRVWの最も意図に沿った形で響き突き進んだものであるかもしれない。

4楽章の夜景への移行がスムーズなのも決して崩れないスタンスのためだ。本来3楽章のドンチャン騒ぎから4楽章の死滅の光景へのあっけないコントラストが意図のところだが、私自身のこの曲への感想として、いつも余りに「あざとくて」耳がついていかない感じがしていた。しかし基本的に両楽章を同音質同音響で伝えようとするこの演奏に違和感は全く無い。4楽章のRVW的美しさも・・・通常の演奏であれば「死滅」にてっしようとする余り音楽的な生気まで失い魅力が無くなってしまいがちであるが・・・巧く引き出されており、ポリトナリティ的な美感が他のRVWの幻想的な曲との間隙を埋めている。廃墟を照らす柔らかな月光の美しさがよく表現されている。

この演奏で重要なのは「美・精度」と「ライヴ・活気」のバランスだ。前者だけ、後者だけの演奏なら他にいくらでもある(とくに前者だ)。ノリントンはこのリズム処理と速めのテンポだけで既にかなり成功しているといえるだろう。しいていえば純音楽的過ぎる感もある4楽章に少し「怜悧さ」が足りないかもしれない。だが前記の通りここまで美しく「面白い」4楽章は無い。

本来の「作曲意図」をロマン派的に反映するのではなく「楽曲分析」から浮き彫りにするブーレーズ以降の流れを、更に一歩進めた「情のこもった分析手法」を確立したものとして、最高評点をつけておく。名演。

・・・直後、A.デイヴィスを聴いたが「いつものRVWの6番」だった。つまらない。どこが違うんだろう?ふとオケの力かもしれないと思った。しかし鈍重さのかけらもない鋭い演奏ぶり、ライプツィヒも変わったものだ。

~Ⅲのみ(原典版)

ボールト指揮LSO1950

~リハーサル風景

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(BSO)1949/3/14LIVE

うわー。。全曲聴きたかった!情熱的に伸縮するヴォーン・ウィリアムズ。1楽章のリハはクーセヴィツキーの巻き舌グセのある注文が俊敏にオケに伝えられ、この指揮者がいかに精力的だったかがわかる。ただ、弦など敏感とは言えず(曲慣れしていないせいかもしれない)あまり誉められたものではない。クーセヴィツキー時代のボストン響は欧州色が強く表現力に優れる反面雑味が多かったようで、このリハでもその一端は垣間見える。2楽章の不気味な情景も僅かに収録。

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ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第7番「南極交響曲」
<映画音楽の素材による。本来標題のみで番号は付けられない。ウィンドマシーンやオルガンまでも導入した意欲作で興味深い。表面的な描写音楽ととらえられることが多いが、幻想的で変化に富んだ音楽は何も考えなくても十分面白い。RVW晩年のさらなる音響への探求が始められたころの象徴的作品と言っていい。>

ブライデン・トムソン指揮ロンドン交響楽団(CHANDOS)

バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(いろいろ)リッチー

ボールト指揮ロンドン・フィル1950'

○ビューロウズ(SP)ボールト指揮LPO(EMI)新録・CD


モノラルの旧録とはソリスト違いの別もの。10年程度の録音時期の差とはいえ表面的効果の重要なこのような曲でモノラルかステレオかは大きな違いであり、ソリストには旧録に一長あったとしても、そこは問題にならない。ホルストとRVWがいかに近い場所にいたのか、しかしRVWがホルストより秀でたのはやはりアカデミックな書法を大事にし、直接的な表現の下にも常に這わせておく周到なやり方にあり、おそらく何度も何度も聴くにたえるは惑星ではなく南極だろう、そういう構造におもいはせるに十分な録音であり、演奏である。ボールトの惑星同様、ドイツ臭さというか、野暮ったさギリギリのざらざらした響きがなきにしもあらずだが、透明感があればいいかといえばこの曲にかぎってはそうとも言えないところもあり~磨き上げた底には何も無いかもしれない~このくらいでいいのかもしれない。ウインドマシーンと歌唱が少し浮いているが、ボールトも持て余したのだろう。○。

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ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第8番
<20世紀交響曲史上に其の名を轟かしたイギリスの作曲家ヴォーン・ウィリアムズ。晩年(80代!)の8番は全交響曲中一番取り付き易い曲だと思う。短くきっぱりとしており、平明な旋律性がありRVW慣れした聴衆にとってはいささか表層的な感じもしないでもないが、軽い曲、といっても管弦楽編成は立派なものだ。(7番以降の特色だが)打楽器編成が大きくゴング等やや特殊な音素材も導入されている(背景には若きウルスラ夫人の示唆もあったらしいが)。2楽章スケルツオがブラス、3楽章カヴァティーナが弦だけによる曲なのも面白い。

しかしききどころは1楽章ファンタジアで、”主題を探す変奏”と付けられた副題の通り、ペットソロの哀しげな挽歌がなつかしい光あふれる長調主題へ至るまでの道程は、夢幻の如く入れ立ち替わる旋律の花々に彩られ、この世ともあの世ともつかない異界への彷徨へといざなう。暗黒の中で太陽を夢見るような暗い幻想にしばし心奪われる。似た音を使って少しずつ違う旋律を組み立て、並置することで「変奏」と名づけるのは RVW独自のやり方だろう。しかし本旋律を隠し変容する副旋律から始めるやり方は他例有るものだ。鮮やかなのはアイヴズ(米)の3番3楽章にみられる「逆変奏」で、無調的な旋律が捩れ紐をほどくように変容しノスタルジックな讃美歌旋律へと立ちかえってゆくさまは、ベートーヴェン的交響曲(苦難から勝利へ)の進化の末を感じさせる。RVWの方法はもっと気まぐれのように見える。本旋律はラフマニノフのパガニーニ狂詩曲のように若干唐突に提示される。だがコントラストの妙はあり、音響的な魅力とあいまって深いところをまさぐるような聴感を与える。9番の終楽章にもこれと良く似たところがある。

従来RVWを思わせるのは3楽章の弦楽合奏だが、かつての直感的夢幻性が新古典的な理性に支配されてしまったような不満を覚える。旋律そのものにもかつてのような ”虚無”を感じさせる力が薄いように思う。ひたすらに美しく哀しいだけになっている。それだけで充分かもしれないが。

終楽章の祝祭的気分はRVW終楽章では特異なものだが、高音打楽器などのフレッシュな趣とめくるめく管弦楽の饗宴は非常に魅力的だ。ストコフスキのように勢いに乗った演奏できくと、相当のカタルシスが得られるだろう。主題はやはり仄暗い”RVW民謡” なのに、終止明るく透き通った気持ちで大団円を楽しむことができる。出色の出来だ。 >

◎バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)1956/6・CD

弦楽器が弱い。素直なアレグロ楽章である終楽章クライマックスで音量変化がそれほど無いまま急にテンポ・ルバートするため流れが止まり、旋律線を見失いそうになるところもある。だが全般的には50年代バルビの持っていた力感と直進性が健在で、優秀録音がそれを後押しし求心力のある名演として印象に残る。晩年バルビは孤高の感情的な旋律表現と引き換えに、テンポの弛緩やリズム感のなさ全体設計の不自然さを得てしまったが、ここではそこまで踏み込んだ特異さが現れず、普遍性を保っている。緩徐楽章に晩年のうねるような強烈な歌謡性こそ感じられないものの、全体的な音楽のまとまり、何と言っても木管の音色の素晴らしさ、案外ばしっと決めるブラスや打楽器の、晩年RVW向きの巧さが弦の雑味をも物ともしない美観を提示して秀逸である。バルビのRVWにはグズグズなものもあるが、モノラル録音末期前後のものには締まった佳演がままあり、南極交響曲もその一つだが、これはバルビ自身に捧げられたこともあってもっと思い入れの強さも感じる名演。

○バルビローリ指揮NYP(whra)1959/1/3live・CD

同曲バルビ唯一の国外オケによる演奏記録となろうか。やっぱり迫力が違うと思わせる場面が随所にあり、NYPらしいアバウトさやライブ的な瑕疵はあるものの(吹奏楽による二楽章のあと拍手が入ってしまうのもご愛嬌)、録音状態さえよければカタルシスが得られたであろう出来である。バルビの解釈はほぼハレのものと同じで、ただ弛緩するような緩徐部はすくなく、一貫して前進的なテンポ設定といえるか。音符のキレのよい表現が特徴的で、1楽章の主主題出現から通常はレガート気味に演奏されるところテヌートで切って演奏するところなど、非常にはっきり伝わる。力強く盛り上がる終幕後、ブラヴォが飛ぶのはこのコンビでは珍しいか。とにかく録音は最悪なので○。WHRAのセットものの収録で、恐らくこれだけが未出と思われる(マーラー巨人はNYPのセット他で出ていたもの、惑星は裏青で何度か出たもの)。

バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(ERMITAGE/BS他)1961/4/11ルガーノlive

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(bbc)1967LIVE


最終楽章の遅さや第三楽章の弦楽器の拙さは少し気になるが、献呈者によるライヴであるこの演奏は、スタジオ盤をはるかに凌ぐ震幅の大きな爆演となっている。聞きどころはやはり第一楽章だろう。そこはかとない哀しみを秘めた緩徐楽章を、これ以上無いほどに美しく歌い上げている。一聴の価値大。同盤にはバルビローリにしては珍しいウォルトンのマーチも収録されているがこれも名演である。

○ストコフスキ指揮BBC交響楽団(IMP/BBC/M&A他)1964/9/15プロムスlive・CD


わかりやすいところでは終楽章コーダでのパウゼ指示の無視などややいじっている箇所がみられるが、全般に”勢い”が他の演奏と違う。3楽章の表現の深さにもこの指揮者の並々ならぬ力を感じる。時代的に録音は少し劣るが聞きごたえ大の演奏だ。同曲の献呈者で作曲家の全幅の信頼を受けていたバルビローリのものは、現在ライヴ含め3枚の盤が手に入るが、共にどうも鈍重な感じがする。寧ろ器用なプレヴィンのほうが良い(プレヴィン全集の白眉だ)。音響操作を小器用に行う指揮者向きの曲だろう。(2005以前)

有名な熱演で私も大好きだったが改めて冷静に聴いてみるとどうも演奏精度に問題がある。ブラスが特に乱れがちで、ブラスだけによる2楽章スケルツォは書法あるいはスピードの問題でもあるが冒頭からガチャガチャずれてしまい、つんのめったまま終わる。反して1、3楽章は深情篭り素晴らしく、特に弦楽器のフレージングやアーティキュレーション付けが美しいのはストコの技でもある。4楽章の壮麗なお祭り騒ぎも含め全楽章通して速いテンポで一直線に突き進むこの演奏は、ライヴとしては盛り上がるものであり、精度に耳を塞ぐことができればとても楽しめるが、RVWの精妙な書法を味わいたい向きには向かない。○。(2007/12/21)

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1957/11/1live

何というか独特の演奏。ミュンシュが初演もしくは啓蒙を使命としてオシゴトをこなした、といった多くのうちに入ってしまうものだと思う。まるでトスカニーニのように乾燥した押せ押せの演奏ぶりはリズムが強すぎて旋律の魅力を消してしまっているし、そのリズムも精度が低く芸の無いもの。解釈はほんと、フランス人なのにロシア風というかドイツ風というか、アメリカの新ロマン派の解釈ふうというかミヨーの大交響曲のように演奏しようとしたというか、ストコライヴ以上にストコ的奇妙さが織り交ざる(最後の終止音がそれまでの直線的な表現からいきなりルバートして物凄く伸ばされるのはストコ以上(ストコはむしろパウゼすら無視し終止することで曲のいびつさを補正している)、聴衆が沸くと思ってのことかもしれないけど、さすがにブラヴォはちょぼちょぼ)。

違和感しきりで冒頭からもうガチャガチャで、調子っぱずれのペットはいくらなんでもテープ撚れだとは思うが、早過ぎて木管や弦がごちゃごちゃになる。もちろん流れは強引に作っているけど構造ががちゃがちゃだ。鉄琴や木管が夜曲的な雰囲気を醸しているのに弦のピチカートを異常に強調してぶち壊す(このやり方は確かにドイツ的だ)、チェロから暗示される至上に美しい第二主題(便宜上きらきら星の部分抜粋みたいな下降音形をこう呼んどく)がまったくカンタービレせず埋没。音色も無茶苦茶で無機的。完全に即物的な表現なのだが、それも思いつきのようにやるため出来のいい部分と無茶苦茶な部分が雑多に混ざり合ってとてもRVWの憂いある世界が表現できているとは言えない。練習量が少ないせいかこなれていない感もある。ただ腐ってもボストン、弦のトゥッティが出る部分のボリュームや高音管楽器のソロの巧さは諸所で光る。二楽章はのっているし三楽章はそれなりに盛り上がる(といってもボールトやストコには及ばない単なる音量上のこと)。四楽章の派手な突進に期待して聴いたのだが・・・突進しすぎ。確かに聴いたことのないたぐいの演奏解釈であり、録音も復刻状態も悪いけど(モノラルなのに左右に撚れる・・・)○にはしておこう。

ボールト指揮LPO(EMI)1960

○ボールト指揮LPO(EMI)1968-69・CD


意外といけるじゃん、と思うが二楽章がいまいちだった。この人はブラスにスウィングさせるのが下手なのかそもそもさせる気がないのか、ちっともスケルツォではない。三楽章は持ち直し、四楽章はわりと落ち着いたテンポで仕上げて及第点。こういう軽い曲にボールト盤は期待していなかったが、そこそこではあった。

スラットキン指揮フィルハーモニアO

ブライデン・トムソン指揮LSO(CHANDOS)


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ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第9番
<図らずも絶筆となった作曲家最晩年の作。7番以降新しい音楽を模索してきた作曲家が到達した不思議な語法を伝えるものだが、過去の総決算のように聞けなくも無い。ジョン・ウィリアムズのインディージョーンズ第一作の中に、2楽章の行進曲風挿句と良く似たフレーズが…>

○サージェント指揮ロイヤル・フィル(PRSC)1958/4/2初演live(BBC放送AC)・CD

RVW好きには驚愕の初演記録である。pristineとしても懐疑的にならざるを得ないところがあったらしいが、よりよい録音記録を手を尽くして探しているうちにアナウンスメント含め本物と確信しレストア・配信に至った経緯があるようだ(最も音質のよい、再放送の海外エアチェック録音が使用されているとのこと)。実際併録のミトプー「ロンドン」と比べて格段に音がよく、音の一つ一つが明確に聴き取れる。輪郭のはっきりしたサージェントのわかりやすい音楽作りのせいもあると思うが、初演当初より「よくわからない」と評されてきた白鳥の歌が、実はこんなにも「歌」でなおかつ「合奏協奏曲」であったという、まさにRVWらしい曲だったということに改めて溜飲を下げる思いだった。わからない、という評は散文的な楽想の羅列、ベートーヴェン的展開を楽曲構成としては意識しつつも、内容的に拒否するRVW晩年の複雑な心象のあらわれに共感を得られなかったからだと私は解釈している。戦勝国としての英国に対する疑念・・・「輝かしい諦念」が「無」に帰するとき、RVW自身がその生涯の終わりを自覚していたかどうかは(奥さんにすら)わからないことだが、ふとこの演奏に返ると、単純かつ職人的なさばきが「憂い」を抑え、フランス的な柔らかい響きの揺らぎより民族的でもある独特のモードを強調して、この曲を聴きやすくはしながらも、RVWらしくは出来ていないようにも思った。初演を担えなかったボールトの演奏には、異例なほど感傷的な響きの美しさがある。ライヴという点、更にサージェント自身の「ダンディな」芸風がそうさせていたのだろう、ボールトより各楽器の役割がはっきりと聴こえオーケストレーションの長所や癖が立体的に面白く聴こえるのは確かだし、初演録音としてはきわめて高い完成度にあると思われるが、○にとどめておく。作曲家が亡くなったのはこの四ヵ月後である。

◎ボールト指揮LPO(EMI)1970

~ヴォーン・ウィリアムズとは長いつきあいだったボールトの、極めつけの名演。同曲のスタンダードたるべき演奏。弦楽器の共感に満ちた音が痛切に響きわたり、晦渋とされ物議を醸した同曲にはっきりとした意味付けを与えている。夫人によれば作曲家は既に次の交響曲を準備しており、死は図らずも訪れた災難であったというが、この演奏の最後を聞くにつけ、さまざまな苦悩が光彩の中に昇華し消え行く概念は、それが死でしかありえないという結論を暗示しているように思えてならない。終盤スコアは浄化されるかのように白くなっていき、暗雲のように蠢く不定形な陰りは、サックスによる一筆を残して消え失せる。ささくれ立ったフレーズの数々は、やがてそれ自体無意味という悟りを得たかのように、解決の場を与えられないまま、響きの中に消滅してゆく。終末の壮麗な和音の向こうに、来るべき世界がある。懐かしいもの、決して忘れ得ないものの中に、行くべきところがはっきりと見える。晩年無宗教者であったというRVWの目前には、それでも神が降り立ったのだ。そしてあの「無」という光の中に、いざなっていったのだ。…

ボールト指揮LPO(EVEREST)コメント付き、旧録


~没後間も無い録音。ボールトがやや即物的傾向を示していた時期のため、前出の新録に比べてざらざらとし聞き劣りがする。

○ストコフスキ指揮ヒズ・シンフォニー・オーケストラ(CALA)1958/9/25カーネギーホールlive


アメリカ初演盤。この曲はRVWの絶筆であり、謎めいた内容や書法に物議を醸した作品でもあるが(このとき既にRVWの耳は聞こえなかった)、同時代の演奏家達に深く愛された作曲家だけあって結構演奏されていたようだ。これはRVWとの親交も深かったストコフスキによる演奏であり、それだけに作品に対する思い入れというものが感じられる。全般的に従来の(といっても今まで発売された音盤の)演奏に比べかなりダイナミックな激しい演奏になっていて、テンポが不用意に揺れるとかではなく(寧ろ率直である)、強烈な発音による印象付けが縦横になされている。そのためしっとりした抒情が必要な2,4楽章が煩過ぎて違和感を感じなくも無いが逆に曲をよく知らない向きにとってはわかりやすいかもしれない。

そういうスタイルなだけに3楽章の妙におどけたガチャガチャした曲想(ストコフスキの面目躍如が聞ける)も違和感なく溶け込んでいる。モノラルで(派手で色彩的なオーケストレーションを誇るRVW後期作品にとってはマイナス)、1楽章には雑音も混じる拡がりの無い低音質のため、細かいハープの響きであるとか打楽器系の美しい煌きが殆ど聞き取れず、その点でまったくお薦めはできないのだが、それでもこの推進力と、有無を言わせぬ引き込む力には圧倒されるし、とくに1楽章、だらだら始まりがちなところを、ゆっくりめのテンポでありながらも切り裂くような厳しい響きで悲劇的な雰囲気を高め、そのままダイナミズムに溢れる悲劇を演じつづけるところなどは、従来の演奏の1楽章には求め得なかった吸引力と内容深さが感じられ、共感を持った。

後期RVWの響きを楽しむには録音に不備が多いが、RVW最後の大作の内容を味わうには、ひょっとしてボールト盤とは別の面から深く味わうには、うってつけの演奏かもしれない。◎に十分できる演奏だが録音マイナスで○。

スラットキン指揮フィルハーモニアO

~RVW夫人のライナーが付いており興味深い。珍曲とのカップリング。個人的には、純音楽的解釈に過ぎ情緒的な潤いに欠けている気もした。

○フレイタス・ブランコ指揮ポルトガル国立SOライヴ

~作曲家墨付きのラヴェル演奏で知られ、鮮やかな色彩と切れの良いリズムで聞かせるフレイタス・ブランコが、ここでは真摯で実直な演奏を繰り広げている。解釈の冒険は余りみられないが、作曲家に対する敬意が感じられ好感が持てる。ヴォーン・ウィリアムズの書いた最も美しい曲ともいえる第2楽章から、第3楽章のシニカルな行進に向かう辺りでは、耳新しい打楽器の拍節を際立たせるところにブランコの鋭い感覚が聞き取れる。新境地を開拓しようとしていた作曲家の意図を良く汲んだ演奏といえよう。最終楽章の共感に満ちた弦・木管のフレージング、輝かしい響きを放ち美しい終焉を演出する金管の取り合わせは絶妙。ライヴならではの迫真性が全曲終了後も暫くの沈黙を与える。

○ブライデン・トムソン指揮LSO(CHANDOS)

透明で硬質な音響世界には独特の味がある。悠揚とし奇麗すぎるきらいもあるが、終楽章は味わい深く聴くべきところがある。ブライデン・トムソンも今や亡き人だが、新しい録音ではこの盤を推したい。

×プレヴィン指揮LSO

~意図がよく伝わらない…決して名曲の類ではないため、思い入れの少しも無いとただの駄曲に聞こえる危険性があるという典型のような演奏。「音」としては良くできている。

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