湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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2019/11/8-1 日誌(何度もバグって怒り復元):首里城の色

2019年11月08日 | 雑記録
(金閣寺)

※以下gooブログのバグでまたも消えたので適当に思い出してかきます(PCとスマホアプリを併用したり、PCのブラウザを複数使い分けたりしてると起こるらしい。スマホだけが無難ぽい、使い勝手もいいし)

・首里城の色は赤くなかった!復元時に中国色に寄せた!でたらめ!とかいう件、まとめを見つけた。このトーンでは、ほんとの研究者は無視してたろうね。いつのものをもって「本来の姿」とすべきかなんてとこはおいといて、まず手彩色写真をうのみにしてるのはダメ(職にあぶれた江戸浮世絵職人が流れた硝子湿板の横浜写真みたいな高度なものから、内職や無職のバイトに雑に彩色された大正昭和初期絵葉書時代の量産物まである)。一部の発言者はカラー写真だと思ってるぽいじゃないか。そのていどの見識じゃこの件むりです。各種一貫した色彩のトーン(生木の黄や黒)はあるが、明らかにべんがらの漆がはげたもので地(重ね塗りの黒漆含む)が出ているのだ。もとが朱かったこと自体は文字では残っている。琉球処分後王族が東京に去り、兵舎などに流用され劣化が激しくなったという。明治中期には御庭が小学校の校庭として利用されている。こちらの写真はその頃のものだ。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/academic/bull/photo/058.html
(琉球大学附属図書館ブールコレクション)

そして大リフォームのうえ沖縄神社拝殿として整えられた時点で(名所絵葉書は明治末期以降昭和初期に流行ったが、まさにそのころ。龍柱の向きが内向きになり注連縄が張られる)、お伊勢さん系なので、元々じゃないかぎり改めて赤く塗りなおされることはない。維新後の厳島神社が朱を落とされほぼ白にされたのと同じ思想だ。

※明治時代の宮島、一部朱塗りが戻り始めている状態。これもいつの時点の写真彩色なのかはわからない。出版年と撮影年にへだたりのあることもよくあった。とくに八幡系の社は神社に改名させられ象徴たる赤を払拭させられたが、このあたりは公の記録も宗教としての記録も(焼けなければ)しっかり残っており、調べないでいいかげんなこと言うわけにいかないので、これまで。宮島は著名修復師を中心に復興運動があり大正時代までに朱塗りの今の姿に戻った。本殿はもっと早い。

写真により壁が白く見えるのは日差しの照り返しというより、正面破風や柱の一部を除き、塗りを落とされたようにも思える。そもそも復元にあたっての考証、そのあとの長年の研究については素人の手を出せる部分じゃない。われわれは問いかけて回答をもらう立場しかありえない。殆どの部外者に、こうだと押し付けるほどの見識はない。屋根瓦が黒いなんてのは、既に内地の調査団体の手で米軍資料から戦中カラー映像が発掘されたとニュースがあった。写真や絵で黒ずんで見えるからといって、白黒写真上の赤を単なる影りと正確に区別するのは難しいわけでそういうものが証拠として必要になってくる、、、、、今後は黒くすべきかというところは個人的には、赤瓦というものが貴族以上の階級にしか許されなかった高貴なものなんだから、もともとが黒瓦ということはないように思う。戦前修復時か、何らかの汚れじゃないんだろうか。無責任なことを書いてみるが。

他、消えたり、リンクがjpgって書いてあったり出鱈目なので・・・復旧します(別項目で)今後もこまめに記事を分けて、バグにそなえます。。

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