湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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シベリウス:交響曲第6番

2007年09月24日 | シベリウス
◎クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ROCOCO)live?・LP

名演。この活き活きとしたオケの躍動、立体的にしてバランスのいささかも崩れない音響を聞け。モントゥもミュンシュもクーセヴィツキーの訓練したBSOなくしてあの活躍はありえなかった。誰がクーセヴィツキーは指揮下手だの楽譜が読めなかっただの言い出したのか(重層的に五線の居並ぶスコアの読めない指揮者に現代作品がやれるわけがない、シゲティが譜読みが苦手だったというソリスト話とは違うレベルだ)。シベリウスの6番をここまで細部まで彫刻し尽し、なおかつ噎せ返るような響きの中に「弦楽合奏ここにあり」といった引き締まったアンサンブルによりスピーディに力強く描き出せた人間はかつていたとでも言うのだろうか。トスカニーニの時代に(ストコは余りに期間が長く世代も後なので置いておいて)ボストンという土地に覇を張ったコントラバスの名手にしてロシア人指揮者の真髄が、少なくともこの録音にはある~ロシア人指揮者というイメージよりも寧ろフランスなど周辺国作品を得意とした現代指揮者というイメージが強いし正しいと思うが。シベリウスは木管はソロ旋律こそあれ後期になると殆ど弦楽アンサンブルが中心になり、ブラスなど合いの手やクライマックスで斉唱するくらいのぞんざいな扱いを受けたりする。だからこそ、亡命演奏家の多く西欧色の強いこの土地にあって、弦楽の国ぐにである東欧からの直輸入の演奏レベルがクーセヴィツキーの掌中に入ってきた、その結果がこのスピード、ダイナミズムにして細部まで完璧に弾きこまれた統制のとれた演奏に結実している。とにかく弦楽器弾きとして、この弦楽器の響きにはとても魅了されるし、6番というウラ名曲とされる作品の中にそれが如何に重要な位置を占めているか、改めて気づかされた。終幕、クーセヴィツキーの静寂はRVWの静寂に似て、現代的な金属質の「間」の美学に近いものがあるなあ・・・と終幕にて思ったり。ライヴではない可能性がある。録音はクーセヴィツキーにしてはなかなかいい。◎。

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