ちゃんと訳してなかったので、ちゃんと訳してみた。ちょっと古かったり方言ぽかったりしてわからない部分はてきとうにしています。(ほんとはこの内容は別項に記事を載せていたのですが、間違って消してしまっていたらしいので改めて項をわけて書きます)。~
ヴァランティーヌ・グロス宛て
「水曜日」
親愛なる友よ、明日来てください。場所:オースティン氏のところ、12時に。
可能ですか?早くに警告することができなかった(&私は日曜日にあなたと会い話するのをあてにしているのです)。
友情を持っています。スターンと、あなた自身に;ES
~1916年のとある日の夕刻に届けられた簡易書簡で、やや慌てた感じで表面裏側の欄には差出人やあて先もかかれていない(表面表側にはあて先・住所あり)。パラードにまさに取り組んでいた時期で、コクトーと六人組界隈に接近する中で「白鳥」バレンタイン・グロス(ヴァランチーヌ・グロス)婦人との交流が持たれるようになったようだ。スターンは当時の彼女の婚約者。最後の謝辞は9月の書簡にも同じ言葉が見える。8月8日の15時12分の、別件と訣別しコクトーのパラードとの仕事に専念する報告の手紙では、彼女に絶大な信頼を寄せていた事が分る。オースティンがよくわからないが。パラードはこの時点で既にかなり進んでいたようだが、翌年までかかって苦労して作っていったようである。従ってこの書簡は最後まで交流の続いたグロス婦人と、もっとも熱く交流していたころの産物の一つといえるようだ。
とにかく3つ押された消印の読み方がわからない。8月8日と読めなくもないが、8 au 11もしくは8 au のみの消印,ということはau=atとして1916/11/8と読んでおく。8/8は火曜日、11/8は水曜日なのだ!
ヴァランティーヌには12/2に「日本人がコノと呼ぶ音楽」が大好きだという手紙を送っている。オリエンタルな曲導入を検討していく過程での話だ。コノは意味不明とされているが、パリのいいかげんな「発明」だったのか、琴のことなのかわからない(琴自体見た目ほど音は特徴的でもなかったはずだが)クレールの「幕間」回想に当時のシャンゼリゼ劇場につどう「お歴々」についての箇所がある。パラード後すぐにコクトーとは訣別し、更にコクトーのもとに徒党を組んでいる(サティは徒党を組んで世俗的に権威化することを極端に嫌い、ドビュッシーともそのあたりで訣別した経緯もあり、最後までついてきたソゲやデゾらにもサティ派ではなくアルクイユ派を名乗らせている)六人組界隈についても距離を置くようになった(ミヨーは別)。サティは、結局ディーアギレフより更に「新しい」ダダイストと組むようになってクレールとも仕事をすることになるのだが、「お歴々」の中に社交界の人々にくわえコクトーなどの名が連ねられる中、ツグジ・フジタの名も見られる。
この時代のパリ社交界ではオリエンタルな素材はアメリカ大衆文化同様既にかなり浸透してきており、パラードの時期には奇矯とみなされえたサーカス劇の中国音楽も、本日休演のころには大して攻撃力を発揮できなくなっていたのではないかと思った。だから音楽が一見同じでも意図する内容が対照的になったとも。早川雪洲などもアメリカからパリにわたって藤田と同列の「お歴々側」に入ったわけだが、もっともそれぞれ個人としてパリ社交界に受け容れられただけにすぎず、そもそもオリエンタルな人物ともされていなかった(個人の個性であった)可能性もある。