湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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☆ワグナー:ジークフリート牧歌

2017年02月09日 | ドイツ・オーストリア
◎フルトヴェングラー指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(FONIT CETRA)1952/6/6live・CD

何てジークフリート牧歌だ・・・このロマンチシズムはもはや前衛の域にたっしている・・・マーラーの時代の。これはマーラーだ。誕生日のお祝いでもクリスマスのお祝いでもない、一つの交響曲である。この自在なテンポ、明らかにドイツ的な音響配慮、しかしほんとうはウィーンふうに美しく艶をみせるのが筋という曲なのに、イタリアなりの艶は残しつつも表現は憧れと慟哭のフルヴェン節だ。速いテンポの中にこれでもかとテンペラチュアの高さを見せつけ、ロマンティックな歌はシンプルな対位構造を極めて分厚く力強い構築物に仕上げ、これはあきらかに楽劇抜粋ではない、独立した一つの・・・独自の世界である。濃厚なロマンチシズムを聞きたければ、爛熟し崩壊寸前のロマン派世紀末音楽を聴きたければ、ツェムリンスキーなどに浮気せずこの「演奏」を聴くがよい。さまざまなライトモティーフがポリフォニックに交錯しながら刻まれる、重い斧で断ち切っていくような激しいリズムは室内楽の領域を少なくともこえている。ベートーヴェンである。ややオケの音が農村的で鄙びてあっけらかんと明るすぎ、録音の悪さもくわえフルヴェン先生がこの曲に見た世界をちゃんと表現できているとは言い難い部分もあるが、新しい演奏ばかり聴いたりやったことのある人にはインパクトあると思います。こんな曲なら、何度でもやりたい。でも、ドクターはとうに天上の人なのである。ドラマの末にヴァイオリンからベースにつけられる優しいアーティキュレーションが、ホルンや木管のえがく牧地風景の上を「一抹の不安をのこしながら」夢のように去っていく、ジークフリートの嵐の吹き荒れたあとの余韻。うーむ、すごい、「たけしの誰でもピカソ」を見てこの曲を「愛の歌」と思った人は、この演奏で「愛の激しさ」を知るだろう。○にすべきだが、ドクターの演奏を初めて聴いたインパクトから◎。

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2 Comments

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ジークフリート牧歌 (田豊)
2007-02-10 19:14:04
意外に優しくて、はずさないのがクナ、モルダウでは最初から激流なのに、さすがにワーグナーは取り組みが違うのか。
WFはレコードでも良いでしょう。案外ワルターと似ていますよ、ただしワルターはニューヨークだけれど。

ヴィスコンティの映画を見て、立派だけれどしっくり来るのはクナなのですが、WFは立派です。
これは特別 (岡林)
2007-02-10 20:41:32
やはりほんとうは極めて小編成で、室内楽として演奏するのが筋かとは思いますw学生の頃、一度だけクリスマスにコンマスなどという身の程知らずをやって大失敗したのですが(案外難しいのです)、響き的に「こう」なる筈はないんですよね。。

こんなに重厚で濃厚な響きが出る譜面ではないんです。立派過ぎます。でも、こういうことが素晴らしくできてしまうのがドクターなんでしょうね。豊穣な音はやはりCDじゃ無理がありますよね。クナは聴いてないです、そういえば。じつはワルターはLP含めかなりの数を持ってはいます。他にもクレンペラーなどもあったかも。

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