湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ミヨー 室内楽曲、歌曲、歌劇(2012/3までのまとめ)

2012年04月18日 | Weblog
組曲「ルネ王の暖炉」

○フィラデルフィア木管五重奏団(boston records)1960/9/21・CD

速くてあっさり、しっかりしすぎているのが気になるといえばなるが、純粋に音楽としてはよく出来上がっている。ミヨーがプロヴァンス民謡を意識した牧歌的で平易な曲の中でも特に人気の高い曲、案外録音は少なくない。バレエ組曲のようにも聞こえるが元は管弦楽による映画音楽である。アンサンブルとしてもよく組みあがった曲群で、速いパッセージが多く低音楽器には辛いぽい場面もなくもないが、一部楽器に偏らないゆたかな響きが耳を楽しませる。ミヨーらしい微妙なハーモニー+明快な旋律を表現するにこの老舗アンサンブルの確かな技量が生かされている。「ルネ王の暖炉」~日だまりの雰囲気をもう少し軽くしかしニュアンスを込めて表現してほしかったが、贅沢というものか。健康的な力に溢れた演奏。ミヨー室内楽の最高峰を楽しむのには十分だ。

○デュフレーヌ(FL)含むORTF木管五重奏団(EMI)1953・CD

明晰なモノラル後期の音。ORTFメンバーらしい繊細なそつのない音色で美しいこの曲を美しく表現しきっている。ミヨーはヴァイオリン出身の人だが(勿論この時代の人なのでいろいろ吹き弾き叩きはできたのだが)弦楽器よりも木管を使った室内楽のほうがアピールできる美質のある人だったとこのような曲をきくと思う。擬古典の範疇にある楽曲でリズム要素には南国の変則的なものも含まれるものの全体的に南欧風の牧歌的な微温性を保ったものになっており、その表現には柔らかい音色の木管楽器だけによるアンサンブルが最も適している。ミヨーは大編成の曲よりこのような小編成の曲のほうが工夫の凝らしようがないぶんわかりやすい(ミヨーは工夫しすぎるのだ)。ラヴェルの管弦楽組曲作品を彷彿とする旋律と構造の繊細なバランスがここにも存在して、リズムさえ克服すればアンサンブル自体はそれほど難しいものはないと思うが、声部間の音量や音色のバランスには配慮が必要である。しかし木管アンサンブルという性質上、ロシア吹きやアメリカ吹きする人でも織り交ざらないかぎり妙なバランスになることもない。美しくさっとした演奏で、如何にも現代的な「オケマン」による演奏、何か突出した個性を聞きたかったとしたらデュフレーヌのそつのなさ含め裏切られるかもしれないが、楽曲の要求はそこにはなかろう。◎にはしないでおく。

二つのスケッチ

○デュフレーヌ(FL)含むORTF木管五重奏団(EMI)1953・CD

二曲ともミヨーの牧歌として典型的な作風を示している。構造的には簡素だが響きは六人組の仲間と共通する一種の「気分」を示した少し陰のあるものが織り交ざり(とくに後者)、ピアノ曲ではあるが「家庭のミューズ」を想起するものの、木管アンサンブルという点では小交響曲などのいくつかに近似していると言ったほうが適切だろう。典雅さや幻想味より素朴で無邪気な雰囲気を押し出した作品ではあり、サティの分裂的な作風に似たところもあるが、それは俊敏に入れ替わる変則的なリズムや少々オリエンタルでジョリヴェの日寄った室内楽作品を想起する旋律線によるかもしれない。それらが南米由来なのかプロヴァンス由来なのかどうなのかなどわからないくらいに、ここでは「ならされて」演奏されており、過度に激しくならず、落ち着いた美観が保たれている。録音が少々弱い。古びていて、ちょっと技術的にも色褪せているように感じるところもある。技巧的な断片を織り交ぜるミヨー節が活かされた演奏かというと、ちょっと足りない気もする。デュフレーヌはとくに強調されない。基本的にはアンサンブル曲でありソロ曲ではない。○。

人生の喜び(ワトーを讃えて)

○作曲家指揮ロスアンゼルス室内アンサンブル(DECCA他)

小交響曲のような古雅で牧歌的な曲。ただ優しい音楽というだけではなく小規模アンサンブル的な面白さがあり、ゆったりした流れの上で新鮮に楽しめる。平易な曲ではあるが技術に穴のない奏者陣によってしっかり明瞭に進められていく。ミヨーには珍しく前衛の影がなく、かといって無邪気なだけでもなく、しっかり新古典を意識した作りになっているからわりと飽きない曲。○。

弦楽四重奏曲第1番

○WQXR四重奏団(POLYMUSIC RECORDS)LP

第一ヴァイオリンに技術的不安定さを感じる。アンサンブルとしてはけして物凄く上手くはないとは思うが、他メンバーはなかなかである。WQXRはNYのラジオ局で、当時の放送局はたいてい放送用の専属楽団をもっていた。この団体のチェリストのハーベイ・シャピロ氏は現在齢95を数えてジュリアード音楽院マスタークラスで教鞭をとっている。もともとトスカニーニ下のNBC交響楽団で10年近く演奏をおこない最後の三年は第一チェリストの座にあった。そのあとプリムローズ四重奏団で4年活動、さらに以後16年間この放送局楽団をつとめあげた。スタジオミュージシャンとしてしばらく各レーベルをわたったあと、渡欧。名声が高まり、ミュンヘンではカサルスと並び賞されるまでに上り詰めたが、台北のレストランで腰を打ってのち教職に転換、1970年からジュリアードに教授として就任以後、名教師として知られるようになった。

弦楽四重奏曲以下の器楽曲を末流ロマン派(そうとうに幅を拡げた私の定義内)の範疇において少なからず書いた作曲家の、習作を除く作品番号1番と2番にはある種の共通した傾向がある。1番は折衷的だが当時前衛的とみなされた要素をふんだんに盛り込んだ野心的な作風により、散漫でまとまりに欠けるもののマニアックに読み解くのが面白い。物凄く乱暴な例をあげればグラズノフのカルテットやアイヴズのピアノソナタである。対して2番は洗練され本当の個性が最小限の編成の中に純度高く反映されたもので、一般にアピールする率が極めて高いものの雑多な面白さには欠ける。従って情熱的に聴きこんだあと一気に飽きる可能性もある。ショスタコは例外的に書いた時期が遅いこともありここに1番がくるが(プロコもかな)、ボロディンなどはまさにこのパターンである。ミヨーももろにそうである。この1番は書法的にあきらかに「人のもの」がたくさんつぎこまれ・・・たとえばドビュッシー、ロシア国民楽派、新ウィーン楽派といったもの・・・、本来の縦のリズム性と歌謡的な旋律を基調とした楽天性は余り浮き立ってこないが、よくよく聴くと後年あきらかになる独特の複調性や高音処理方法が、後年は殆ど浮き立ってこない清新なひびきの連環による観念的な楽曲構成の中に織り込まれている。その点で欲張りな作品でありそこが野心ともいうべきものだろう。正直あまり好きではないのだが、2番のあからさまにわかりやすい世界との対比できくと、ボロディンのそれに相似していて面白い。世代的にウォルトンのニ作品との相似形ともとれるだろう・・・ウォルトンは初作でさらに前衛を狙っていたが。

演奏的に特筆すべき部分はあまりないが、不可でもない。○。 このLP割れやすい(割ってしまった・・・)。

○アリアーガ四重奏団(DISCOVER)1994/11・CD

簡単に言えばRVW1番のような曲。ドビュッシー後の国民楽派室内楽の典型といったところか、民謡旋律を中心に手堅い書法でまとめている。しかしミヨー特有の表現、和声も確かに現れており、冗長な曲に新風を吹き込んで耳楽しい箇所もみられる。アリアーガ四重奏団はイギリスの楽団のよう。激しさはなく響きは穏健で美しい。○。

◎ペーターゼン四重奏団(capriccio)CD

これは快演。鋭い表現で同曲の叙情性よりも前衛性を抉り出し、高い技術をもって完璧に再現してみせている。メロディ重視を公言していたミヨーの魅力は叙情的な部分に尽きる、とは思うのだが、ここまでメカにてっしてスピード感溢れる音楽を演じてみせてくれると、こういう聴き方もできるのだなあ、と曲自体の評価も変わってくる。線的な書法で楽器同士の絡みが弱いミヨー初期カルテットではあるが、ここではそういう弱みもまったく気にならない、1番の演奏としては第一に推せる。

弦楽四重奏曲第2番(1914-15)

○アルカナQ(CYBELIA) CY808

昔国内盤でも全集で出ていた記憶があるのですが、とりわけこの演奏が良いというわけではないので今手に入る音源で一聴頂ければ幸いです。オネゲル同様ミヨーの怪獣もとい晦渋な世界は四重奏曲に遺憾無く展開されているわけですが、この22歳のときの作品は素直な感情と美への賛美の心が現れており、18曲中の異質となっているものの、多分一般に最も受け入れられる要素を備えた佳作であります。3楽章の軽妙さと4楽章の鄙びた味わいは絶品です。特にソルディーノで奏でられる3楽章のきらめくような律動は、フランス近代四重奏曲の中でも傑出した表現のひと
つではないかとも思います。

◎パリジー弦楽四重奏団(AUVIDIS/naive)CD

強靭さのないアンサンブル。しかしそのアンサンブル能力の自然さ、高さと柔軟性が長所に感じた。柔らかく線の細めな、フランスというよりイギリス的な融和しやすい音に惹かれたわけでもあるが、ミヨーのカルテットでいちばんわかりやすく、かつ魅力的な旋律が理知的な構造の中に組み合わされ配されて、しかもその中に非凡な技巧的工夫が過剰にならずさらっとミヨーならではの形で篭められている。「雑多で硬派なミヨー」のファンにはまだ「六人組の描く牧歌」の範疇を抜けていない日寄った作品ともとられかねないわかりやすさだが、コントラストの著しくとられた各楽章にも鮮やかに統一主題が変容され導入されて形式感をしっかり維持していたり(かなり中欧の古典的作品を研究したようである)、2楽章には宗教的な暗い主題がミヨーの代表作にも一貫してみられる独特の雰囲気をカイジュウなハーモニーにより(また構造的に懇意だったシェーンベルクあたりに通じる萌芽も感じる)しっかり内容あるものに仕立て、四、五楽章のボリュームとともに力作大作感を強めている。この演奏はとくに構成が練られており意図を理解しやすい。三楽章を軽く風のように流しているのは少し物足りなさもあるが実に安定し上手い楽団だなあと感心させる無理のない柔軟性を兼ね備えた俊敏さだ。とにかくプロヴァンスのあたたかな日差しを思わせる融和的な音色と、作曲の技巧や先鋭さを強調したような分析的演奏に走らず音楽として綺麗なものを聞かせようという意図に惹かれた。◎。パリッシー四重奏団と表記していたが原音のパリジーに直した。(2005以前)

全集の一枚。これは少し客観的というかおとなしい感じもするが技術的には高い。よく構造を分析した演奏という感じで、まだ生硬な部分のあるミヨーの書法をきちんと読み解いて、三連符のモチーフが表や裏に出ては隠れしながら統一感を保っているとか、基本はロシア国民楽派の弦楽四重奏曲を意識しながらもそこに皮肉をさしはさむように無調的フレーズや複調的構造を織り込んでいる部分が明確に聞こえる。ミヨーにはやや構造が重過ぎて旋律線がわかりづらかったり速筆のせいか勢いで押し通さないと首尾一貫して聞こえないなどといった楽曲も散見されるが、この曲は全弦楽四重奏曲の中でも一番わかりやすいだけに、却ってマニアックな書法の出現が唐突で違和感を感じさせるところもある。だからこうやって整理されてくるといくぶん均されて聞きやすさが増す感もある。4楽章では牧歌的ないわゆる「ミヨーのプロヴァンス民謡」が少しあからさまに出てくるが、こういった部分ではもう少し感情的な温もりが欲しかった。小粒だがしっかりした技術に裏付けられた演奏。○。パリッシー四重奏団と表記していたが原音のパリジーに直した。 (2006/12/20)

○アリアーガ四重奏団(DISCOVER,Koch Discover International他)CD

同曲はミヨーにしては疎な譜面で拡散的でだらだらする部分もあるけれども(5楽章制でアーチ構造を頑なに守っている)、各楽章で変容する南欧旋律の美しさ、簡素にまとめられた響きの透明感(ミヨーを取り付きづらくさせている複調性が分厚くならずほとんど気にならない・・・演奏する側としてはやはりやりづらさはあるのだけれども)は実に魅力的で、番号付きだけでも18曲ある、時に実験場と化しもした全ての弦楽四重奏曲の中で最も聴きやすく、コーフンする曲だと信じて疑わない。前記のとおり構造に執拗に囚われ音楽の流れが停滞する場面もあるにせよ、ノイジーな響きで耳を濁らせるよりはましというもので、とくに、ベートーヴェン的な弦楽四重奏が好きな向きには薦めたい。ミヨーらしさを残しながらも、前時代的な弦楽四重奏曲を踏襲している、この絶妙さはドビュッシーでもラヴェルでもない、ボロディンの気は少しあるけれどもロシア的ではまったく無い、まさにフランス近代のミヨーそのものである。アリアーガ四重奏団は落ち着いた演奏ぶりに円熟が感じられるが、多分ミヨーの書いた最もスポーティな楽章、ミュートされた四本によるスケルツォ3楽章が余りに落ち着きすぎていてがっくりした。しかし、冒頭よりヴィオラ以下がしっかり音を響かせ主張していて、ドイツ的な面もある同曲の勘所をよく理解した解釈だなあと思った。○。

△クレッティ四重奏団(新星堂EMI盤)

ほぼ同時代の録音として特筆できるが、余りに音が不利だ。高音部のレンジが非常に狭く、装飾音などの細かい動きは殆ど聞き取れない。ききどころの3楽章など旋律が聞こえないためヒンデミットのようなひたすらの運動になってしまい、若々しく勢いづいた雰囲気だけを感じる演奏になってしまった。

弦楽四重奏曲第3番

○ディエシー(Msp)パリジー四重奏団(naive)CD

前二作とはまったく違って、無調の世界に突入している。レントの2楽章からなり、二楽章には女声独唱が入るということからも「シェーンベルク・ショック」の背景は自ずとあきらかである(ミヨーは「月に憑かれたピエロ」パリ初演も担っている)。だがこの歌唱部分はシェーンベルク式の厳しいものではなくサティまで想起する比較的メロディアスなもので、もちろん弦楽四重奏は無調的な耳障りの悪い響きを静かにうねらせているのだが、ちょっと中途半端な感がある。1楽章はひたすら晦渋。演奏はこんなものだろう。○。

○デュモン=スルー(msp)レーヴェングート四重奏団(vox)1960年代・LP

レーヴェングートらのミヨーはフランス近代の一連のvox録音ではこれだけ、あとはライヴ録音があるのみである(恐らく既記のものだけ)。しかも作風を一変し晦渋な曲想で通した異色作という、溌剌とした技巧的表現を持ち味とした後期レーヴェングートQにはどうにも合わないように感じるのだが、聴いてみれば意外とロマンティックというか、旋律の流れを素直になぞる聴きやすい演奏となっている。シェーンベルクの影響を受けた最初のSQであり歌唱が導入されるのもそのためと思われるが、無調には踏み込んでいない。寧ろ後期サティ的な単純さが感じられる。比較対象が少ないので評は難しいが、透明感ある演奏が重い響きを灰汁抜きして美しい暗さに昇華している、とだけ言っておこう。○。

弦楽四重奏曲第4番

○パリジー四重奏団(naive)CD

パリッシーと英語式に表記していたがどうやらパリジーとのことなので直します。この曲は3番に引き続き晦渋な様相をていしているが、3楽章制をとっており、楽想も決してわかりにくくなりすぎないところにミヨーの楽天的な特質が残っている。複雑な構造は演奏的にはけっして技巧的ということではないので、この前に収録されている12番にくらべ落ち着いて曲の内面に入り込める演奏にはなっている。ものの、やはり若いというか、硬質な音で小さく機械的に組み立てるようなところも否めず、このような曲では別にそれでも構わないとはおもうが、もう一歩踏み込みが欲しいか。

弦楽四重奏曲第6番

○タネーエフ弦楽四重奏団(melodiya)LP

短調で始まるミヨーの室内楽というのは余り聞かないように思う。とくにこの曲の冒頭主題はあきらかに古典派を意識したものでありちょっと聞きミヨーかどうか迷う部分もある。もっともこのくらいの時期のミヨーの作品にはシェーンベルク派や新古典主義なども顔を出し、晦渋さがいっそう濃くなってはいるのだが。よくオネゲルは晦渋でミヨーは明るい、という誤解があるがミヨーはそもそも聞かれる曲が限られているので、なるべく多くを聞いていくと、作風の傾向として両者ともに晦渋さも明るさも兼ね備えており、実はその両者の傾向がよく似ていることがわかる。作品ごとの性格分けがかなりしっかりしている点で両者ともにやはりプロフェッショナルなのだ。オネゲルにミヨー的な高音旋律を聞くこともあれば、この曲のようにミヨーに非常に目のつまった隙の無い構造を聞くこともできる。また両者の室内楽に共通する雰囲気としてルーセルやイベールの室内楽(の無調的なほうの作品)も挙げられよう。

この盤に同時収録されているオネゲルの3番より、寧ろこちらのほうが計算ずくで斬新さもあり、よくできていると思える。難しさで言えばある種「作法」に囚われたオネゲルのものよりこちらのほうが数段上とも言える。それは単に弾きにくいということではなく、書法的に難しくできているということだ。ただ、両作とも「名作」とは言いがたいのは難点。どうも頭で書いた作品という印象が拭えない。まあ共に短い曲だが、なかなか曲者だ。タネーエフはとても巧い。内声のぎゅうぎゅうに詰まったミヨーの作品で旋律性を如何に浮き彫りにするかは重要だと思うが、タネーエフは正直その点十全とは言えないものの、この「外様の曲」をやはりショスタコのように料理して、しなやかにまとめている。ミヨーって凄いな、とつくづく感じられるのもタネーエフのびしっと律せられた演奏のおかげか。ミヨーが「勢いで演奏すべき類」の作曲家ではないということを証明する意味でも、よく表現していると思う。○。

弦楽四重奏曲第7番

○レーヴェングート四重奏団(FRENCH BROADCASTING PROGRAM他)LIVE

レーヴェングートSQのミヨー録音は2,3あるらしいのだが手元にはこの英語放送音源しかない。放送用ライヴではなく公衆ライヴ録音の放送のようである。ちなみにこの音源、アナウンスと本編がそのまま収録されジャケットも内容も一切記載されないのだが、昔「夏の牧歌」などエントリした盤については本編にも演奏家について触れた部分がなく且つ恐らく通常のスタジオ録音の切り貼りだった。この二枚組はライヴとスタジオが半々のようで、全貌のよくわからない音源ではある。

演奏のほうは、ミヨーを「ちゃんとした同時代演奏家たち」がやればこうなるのだ、というかなり感情を揺さぶられるものになっている。暖かい音色が違う、フレージングの柔らかさ、優しいヴィブラート、技巧と音楽性の調和、即興的なアンサンブルのスリル、どれをとってもミヨーを新しいスタジオ録音(と現代の生演奏)でしか聴いていない者にとっては目から鱗の「ほんもの」である。しかも曲がミヨーの中ではやや抽象度の高く旋律主義ではない、晦渋さもあるアンサンブル重視のものだけに(それでもまあ小交響曲にかなり近似しているのだが)、こういうふうにやればスカスカの音響に惑わされず緊密で適度な美観をもった演奏になるのか、と納得させる。もっとも技術的に難のある箇所もあるし、ミヨー特有の超高音での音程の悪さはプロらしくないが、しかし、盛大な拍手もさもありなん。モノラルで環境雑音もあり、曲も短く比較対象になる演奏もないのでひとまず○にとどめておく。

○スタンフォード四重奏団(M&A)CD

哀しげな表情を湛えた牧歌的な小品だが、コントラストを強調せず密やかに優しげに表現する楽団には好感をおぼえる。譜面自体に力があるミヨーには、案外エキセントリックでない表現のほうがしっくりくる。技術的に弱いかというとそういうこともなく最高音の音程もしっかりしていて、曲が比較的大人しいせいかもしれないが、ミヨーの楽曲演奏には珍しい音楽的安定感が漂う。イギリス近代の弦四を聴くように楽しめる演奏。ブリッジ、フォーレとのカップリング。

弦楽四重奏曲第9番

○パリジー四重奏団(naive)CD

作曲家が「曲数において」意識していたというベートーヴェンの弦楽四重奏曲を思わせる厳しさを持ち合わせた4楽章制の曲で、ミヨーらしい楽天的な主題から始まるものの最後はヤナーチェクかというような重いやり取りのうちに幕を閉じる。けして楽しい楽しいの曲ではないが、たとえば3,4番などにくらべると「らしさ」が垣間見えるところはプラスに感じられるだろう。演奏はこの曲にあっているように思う。冷たく重い音がうまく、わりとドイツ的な曲が得意なのかもしれない。○。

弦楽四重奏曲第12番

○パリジー四重奏団(naive)CD

ミヨーの極めて美しいミニアチュールだが、演奏が現代的過ぎるというか、もう少し柔らかいニュアンスが欲しい。気合いを入れないと弾けない超絶パセージがあるのは認めるが、技術面を多少おろそかにしても曲に「入り込む」余裕がほしい。技巧は闊達だが。。○にはしておく。

弦楽四重奏曲第14番

○ブダペスト四重奏団(COLUMBIA)

ミヨーのカルテットはいろいろある。ショスタコーヴィチのようにしかめ面なものもあればシェーンベルクのように不条理な?ものもある。その中でこの14番、ならびに姉妹作の15番は牧歌的で比較的わかりやすい作品と言えるだろう。いずれもイベールのように暖かな響きと快活な主題の躍動する明るい作品だ。14番は終楽章がいい。快活で楽しい音楽だ。ブダペストは音色が揃っていて巧い。曲の性格上ちょっとごちゃっとしなくもないが、作曲家お墨付きだけある演奏だ。

○パレナン四重奏団(EMI)

例によって15番と八重奏曲(14,15番を同時に演奏することにより八重奏曲としたもの、ベルネードQとの合同録音)の組み合わせだが、この14番は、最初の旋律だけが目立つ15番にくらべ対旋律まできちっとした旋律になっている(ミヨーは旋律重視の人です)がゆえの、ミヨーならではの弱点が目立つ。高音二本と中低音二本がしばしば完全に分離し、おのおのが違う楽想を流し、構造的には組み合っているが和声的には「耳ごたえのある」分厚く衝突するものになる場面がやや多いために、楽器元来の威力的にどうしても高音部が負けてしまう。耳に届く音として、とくにミヨーのように高音旋律の作り方が巧く、更に超音波に達するくらいの(大げさ)高音を個性として駆使する人においては、確かにはっきり届きやすい要素はあるのだが、もちろん音量的に(倍音含め)出る音域ではないため、チェロが楽器角度に左右されずしっかり収録できてしまう「録音媒体」となると、土台のしっかりした深い響きに消し飛ばされてしまう。ミヨーの低音はかなり低い位置でひびくことが多いが、音が永続的に鳴り続ける擦弦楽器となると通奏「重」低音としてアンサンブル全体の響きをかき乱してしまうことがあり、低すぎて明確な音の変化まで聞き取れなくても、牧歌的な楽想にたいしては「強すぎるデーモン」になりうる。小規模アンサンブルでこのような明るい主題の曲で、どうしても両方に主張させたい場合弱者側にはピチカートなどの奏法を織り交ぜさせ書法的に対抗するか(ミヨーもやってるが)、演奏者側が意識して音響をととのえないと、数学的には合理でも音楽的には非合理になりうるもの。この演奏が、あきらかに耳ざわりのよいはずの14番より15番のほうが聞きやすく感じがちな理由は、チェロとヴィオラが「田園に射し込む一握の雲の綾なす陰」を逸脱し「田園を覆い尽くさんとする暗雲のドラマ」になってしまっているせいだと思う。まあ、録音のせいかもしれないが。ミヨーの厚ぼったい書法を解決するのにパレナンの透明感はマッチしているので、ちょっと惜しかった。○。しかし・・・この曲に更に4本追加して8本にするなんて無茶だ。この曲だけで十分お腹一杯な音響なのに。

○パリジー四重奏団(naive他)CD

全集の一部。しっとりした魅力のある一曲で、「ミヨーの晦渋」はほとんど出てこない。祝祭的な終楽章にいたるまで簡素なまでに美しい。それはこれまた可愛らしい15番とあわせて八重奏曲としても演奏できるように作られたためだろう。この楽団はいかにもフランス的という仄かな感傷と明晰な表現を兼ね備え秀逸である。技術的瑕疵はみられず少しパレナンを現代的にしたようなところがある。聴いて損はない。朝のひとときに。○。

弦楽四重奏曲第15番

○ブダペスト四重奏団(COLUMBIA)

この15番は譜面を持っているが1パートだけ弾いてみると実にわかりやすい旋律性の強い音楽に思える。しかしあわせて弾いてみるとこれが重層的でわかりにくくなる寸法。ただ、ミヨーの中ではかなりわかりやすい作品であることは確かで、とくに1楽章ファーストがスピッカートで刻む旋律はささやかで美しい。尻すぼみな感じもあるが、暖かなプロヴァンスの田舎風景を思わせる佳品だ。演奏は非常に調和したもので技巧に走らず美しい。

○パレナン四重奏団(EMI)

師匠格のカルヴェと違いケレン味の無く素っ気ない、しかしアンサンブル技術をきわめいわゆる現代フランス的な美しい表現を持ち味とする団体だ。ミヨーは厚い響きの複調性的な重奏を多用するわりに基本は南欧の牧歌的世界を軽い旋律で描こうとしていることが多い。この作品はカルテット作品でも成功した良作と思うが、それは高音域の非常に美しい旋律線を、低音域のカイジュウなアンサンブルが邪魔しない程度におさまっているせいかと思う。じっさいこの曲の旋律は旋律作家ミヨーとしても屈指のインパクトがあるからなおさらバランスよく感じられるのかもしれない。完成期以降のミヨーの緩徐楽章は前衛嗜好のあらわれた耳辛いものが多いがこの曲も多聞に漏れない。しかしここでパレナンならではの軽やかな響きが楽想の暗さを薄め、はっとさせる、そうか、ミヨーの意図は20世紀の作曲家としての辛苦を表現することではなく、この演奏で感じられるような、けだるい午後の空気感の創出にあったのだ、と。終楽章はかなり派手に表現しており、曲もそれを求めているので大団円。とはいえ、○にとどめよう。

弦楽八重奏曲

○ブダペスト四重奏団(COLUMBIA)

ミヨーの自伝にこの録音についての記述がある。ここでブダペストQは相当困難なことをやってのけた。これは14、15番のカルテットを同時に演奏することにより成り立つ八重奏曲で、ミヨーの筆のすさびというか、バッハやモーツァルトの遊びの精神を持ち込んだというか、とにかくはっきり言って音が重なりすぎて律動しか聞こえてこないという珍曲である。ミヨーによるとブダペストQはとりあえず14番を演奏・録音したあと、全員がヘッドフォンをして、14番の録音を聴きながら15番をあわせていったのだそうである。結果できあがったこの録音は、確かに前述の欠点はあれど、まさか同じ楽団が録音を聴きながら重ね録りしたとは思えない出来なのである。音色はまったく調和し不自然さはない。そう聴かされなければまず気がつかないだろう。残念ながら曲は不発だが、ブダペストQに敬意を表して○ひとつ。

○ベルネード四重奏団、パレナン四重奏団(EMI)

○パリジー四重奏団、マンフレッド四重奏団(naive他)CD

パリジーによる全集の一部。14,15番SQを一緒に演奏する趣向のもので、ブダペスト四重奏団の依頼だったようだが、正直、音が多すぎる。ミヨーは音の多い作曲家だが無駄はそれほどない。ここでは縦線があっただけのような動きが多く、複調性にしてもやりすぎ。演奏はうまい。

永遠の主題による練習曲

○パリジー四重奏団(naive他)CD

エチュードなので決して面白いとは言えない単調さもあるのだけれど、確実にミヨーである、という明るい響きと新古典的な構造を示している。演奏レベルを要求する曲集ではないが手だれのパリジー弦楽四重奏団のそつない表現が楽曲理解につながっている。

イーゴリ・ストラヴィンスキーへの追悼

○パリジー四重奏団(naive他)CD

僅か一分半程度の小品だが自身の晩年も迎えつつありながら依然若きミヨーを思わせる透明感を保った優しい曲になっている。演奏どうこう言う曲ではないので仮に○。

弦楽三重奏曲

アルベール・ルーセル三重奏団(cyberia)

曲的には全くプロヴァンス的なミヨー節で、しかも三重奏という比較的軽量な響きを持つアンサンブルであるがゆえにミヨー節の一種鈍重さが抜けて、とても合理的でバランスのいい、ひょっとしたらこれがミヨーに一番あっていた編成なんじゃないか、と思わせるほど適合性を感じる。ただ、旋律の魅力が薄いのと、2楽章と4楽章のよく魅力のわからない暗さ、5楽章の常套性から、余り演奏されない理由もなんとなくわかる。旋律に高音を多用するミヨーがゆえに仕方ないかもしれないが、この決して巧いとは言えない団体のヴァイオリンの音程は、ちょっと心もとない。柔らかい運指はうまくやればいい感じの雰囲気をかもすが、ひたすら高音域で動く曲となるとその一音一音の変化が聞く側の耳に捉えきれなくなる。これは痛い。ピアノ的に明瞭な音程をとっていかないと、わけのわからない印象しか残らなくなるのだ。この演奏の弱点はまさにそこにあるといってもいい。無印としておく。曲的に一番の聞きどころは3楽章のギター的な重音ピティカートにのって楽しげに動く旋律線だろう。イベールなどの室内楽にも似たようなものがあるが、ああいう世俗性(親しみやすさ)が無い、旋律に溺れず複雑なリズムとしっかりした書法に支えられた構造的な面白みは独特のものだ。

ヴァイオリン、クラリネット、ピアノのための組曲

○アンサンブル・ポリトナール(CHANNNEL CLASSICS)CD

ミヨー100歳記念で結成された団体でそれだけにオーソリティぶりを発揮して巧い。リリカルな面とラジカルな面を同時に提示するミヨーに対しあくまでリリカルなものとして描いているようで聴き易い。この曲集は曲数が多くけして多様とは言えない部分もあるが(作曲時期的にやや異なる趣がみられる程度)ミヨーの挑戦したのは音楽自体よりむしろその楽器の組み合わせにあり、とくに、この曲のようにピアノが入るとアンサンブルが締まり非常に引き立ってくる。ピアノが難しいのではなくサティの伝統を継いで必要最小限の効果的な転調を繰り返し音楽に変化をつける。この作品は36年作品でミヨー最盛期といってもいい時期のものだが、最盛期をどこに位置づけるかによるが、実験的時期は既に過ぎていて、実用的側面での個性を濃くし、いい意味でマンネリ化している。晩年になると本当にマンネリになるのだが、ここで面白いのはクラの存在で、通常ヴィオラなど想定される位置に置くことで音色的な幅を出している。とてもよくできており、演奏もすばらしい。

ヴァイオリン・ソナタ第2番

○ボナルディ(Vn)ビリエ(P)(ARION,CBS)

じつに美しい曲で、武闘派は日寄った作品とみなすだろうが現代の人間にとってはイデオロギーなんかどうでもいい。ジイドに献呈されたこの作品はミヨーのわかりやすく暖かい楽曲のカテゴリの中に含まれる。やや薄いかんじも一連の牧歌的作品と共通した、ミヨーの職人的なよさがあらわれたものと好意的に聞ける。演奏はアクの強さもなくミヨーのこの作品におけるスタンスを綺麗に提示している。

ヴァイオリンとクラヴサンのためのソナタ

○キャッスルマン(Vn)ハーバッハ(HRPS)(ALBANY)CD

とりとめのない一楽章、印象的な旋律をもつ二楽章、ミヨーらしい機知が感じられる三楽章と性格分けのはっきりした新古典的な作品で、よく聞けば牧歌的なミヨー節を楽しめるが、ハープシコードの音の奇異さに前衛性が先に立つ節もあり、好き嫌いはあるかもしれない。演奏は荒いが、まずまず曲の雰囲気は出ている。



○ギドン・クレーメル(Vn)エレーナ・クレーメル(P)(PHILIPS)1980版・CD

非常に美しい小品で「ミヨー臭さ」のない交響曲第1番第一楽章をもっと薄めたような感じ。確か何かの自作からの引用だと思うが忘れた。ミヨーには春と名のつく曲は他にもあり、有名なところではピアノ小品集の中の組曲「春」、一番有名と思われる「春のコンチェルティーノ」がある。ミヨーの南欧的な暑苦しさは多少硬質な音で薄めないと重すぎる。シゲティがこの曲を録音していたり、ゴールドベルグがコンチェルティーノを録音していたり、これは現代曲専門演奏家だからという以上の意味があると思う。プロヴァンス風の暖かく軽やかな曲想の魅力が複調性的な音の重なりによって損なわれている場合も多くあり、そこにユダヤ系作曲家としての個性が発露していると解釈することもできようが、「このメロディにそれはもったいない・・・」と思うところも多い。その点この数分程度の曲だけなら、余裕で楽しめると思う。クレーメルの音も適している。○。

フルートとピアノのためのソナチネ

○ランパル(fl)バイロン・ラクロワ(P)(HORIZONS、AJPR/BAM)1949/5/18・CD

1922年才気煥発な時期のミヨーの新古典的な三曲のミニアチュールで、ミヨーらしいピアニズムが前面に立ちフルートは比較的低域で地味にしている感はあるが、最後は名技的な表現で締める。ここにきてやっとランパルらしい技巧が出るものの、やっぱりまだ少しヤワだ。録音がよくレストアされているだけに何か高音が思うように伸びないような焦れを感じる箇所がある。しかし、やはりランパルはこういった現代的な作品を自由にやるほうがあっている、そう思わせる雰囲気はあった。

マルティニーク諸島の踊り

○カサドシュ夫妻(p)(cascavelle/columbia)1941/12/18・CD

クレオール主題によるごく短い二つの曲。まったく楽しく南方的な音楽で、若き頃南米時代のミヨーを思わせるがもっとスマートで聴き易い。一曲めはまさにクレオールの歌と題されているが、響きには優しいミヨーのピアノ曲特有の抒情が染み出している。尖鋭さや奇矯さはすっかりなりを潜めているが、穏やかで瞑想的な主題と突然踊り出す派手な主題が交互にあらわれ、楽しいし、ほっとする。ミヨー円熟期以降のピアノ曲はほんと、ほっとする。二曲めのビギーンはビギン・ザ・ビギンのビギン(ほんとか?)。南米のボレロ調の音楽だがここではもっと洗練され、しかも汗臭さや嫌味の一切無いほんとの「楽しみ」だけが奏でられている。打楽器的というか、硝子を弾くようなカサドシュ夫妻の音色のせいもあって至極透明で繊細でもある。主題は単純なものでその繰り返しだが、和声にミヨーらしい微妙なズレやサティ的な意外性のある展開が込められており飽きがくるのを辛うじて避けられているといった感じ。総じて○。

組曲「パリ」

○イヴァルディ、ノエル・リー、ベロフ、コラール(P)(ANGEL他)CD

確かBRILLIANTの廉価箱にも入っている音源で、FRENCH BROADCASTING PROGRAMの放送録音は恐らく同じ音源を用いていると思われる。若々しく溌剌とした表現が明るくもニュアンスに富んだ佳作の魅力をよく引き出している。音の数からいって二人でもいいのではないか?とも思わせるけれど、サティの流れをくむ隠れたピアノ作曲の名手ミヨーの作品として楽しめた。○。

家庭のミューズ(1945)

○作曲家(P)(ODYSSEY)

泣けます。このLPは中古屋で比較的良く出回っているので、突っ込んで聞きたい方は中古通販等で入手される事をお勧めします。ミヨーの巨体からなんでこんなに優しく暖かい音が出てくるのか不審にすら思います。ミヨーのピアノ曲は6人組でも特にエリック・サティの影響が強いと思うのですが、題材はともかく、珍奇に走らず練られた曲であるだけに、数倍聞きやすいと思います。単純だけれども密やかな美しさを醸し出す旋律に傾聴。ミヨー自身の演奏でなくてもきっと満足させます。お勧めです。この盤は録音が非常に悪いので○ひとつにしておく。



(全曲)

○フェヴリエ(P)(EMI)CD

ファンタジーに溢れた美麗な演奏で、起伏が比較的明瞭につけられており場面によってはちょっと主張が強すぎる感もあるが、録音の綺麗さとあいまって曲の煌く光彩のような魅力を引き出しまくっている。ちょっとした指の細かい動きのセンスにさすがのものを感じる。ここを譜面通りのテンポで弾いてしまっても面白くない。地味で自作自演でも面白味の感じられなかった2楽章、ここではサティの舟歌ふうのテンポどりが巧く、ああ、そういう曲だったのか、と合点。3曲めは地味。4曲めはなかなか派手で煌びやか、これはフェヴリエよく解釈しきっている。この人こんなに指が廻ったっけ?5、6曲めは落ち着いていっておわり。自作自演では1、2、4曲めが選ばれているがやはりその楽章がいちばん聴き映えがする。フェヴリエの技がよく顕れたセンスある演奏で、ミヨーのピアノ曲の包蔵する叙情的な魅力をよく引き出しているといえよう。○。

~第一組曲 OP.25-1

作曲家(P)(SACEM他)1930/1/13・CD

かなり古い音のため演奏を楽しむというより曲を楽しむので精一杯といった感じだが、純粋なピアノ曲としては最も有名な作品で、合計5分に満たない3曲からなる組曲だが、春の気配に満ちた可愛らしい作品である。牧歌的な表現を得意としていたミヨーの作品中でも無邪気なほどに牧歌的で花畑と蝶くらいしか想起できるイメージが無い。2楽章がやや暗いがあっというまに終わるので気にならない。小交響曲群と共通する世界なので、あの雰囲気が好きなかたには向くだろう。録音が悪いので無印にしておくが、ミヨーのピアノはイマジネイティブでかなりウマイので演奏面では万全であると付け加えておく。6曲中の1、2、4曲めのみ。

ロンサールの四つの歌

○リリー・ポンス(Sp)コステラネッツ指揮管弦楽アンサンブル(cascavelle/columbia)1947/4/2・CD

じつに美しい。透明感のある管弦楽が高音域で醸す爽やかで牧歌的な雰囲気と、安定した伸びやかな高音を発するソリストが(三曲めの中ほどの表現にはやや荒さが出ているが)ミヨー独特の超高音アンサンブルを実にプロヴァンス風味たっぷりにかなでている。これはミヨーの「美しい方」の作品、とくに前半二曲が素晴らしいので、小交響曲や春のコンチェルティーノあたりが好きなかたは一聴の価値あり。コステラネッツのオケは抒情が優り「ハリウッド的艶」がなくはないが、基本的に俊敏で瑞々しく十二分に聴ける。

ヴナスク伯爵領人の典礼op.125

○ブヴィエ(A)作曲家指揮アンサンブル(VERSAILLES)LP

ストラヴィンスキーっぽい削ぎ落とされ骨ばったアンサンブル(サティ的でもある)にオーケストレーションで、音楽はシェーンベルク的に重く晦渋なものはあるが旋律をはじめ根底には南欧の楽天性が流れる。「結婚」とか、あのあたりに影響されたフランス近代の作曲家もまた多いが、ミヨーは換骨奪胎のさまが聞きやすい方向に向かっている。そのぶん脇も甘くなるがミヨーなのでそこは構成の妙で乗り切っている。短いのでまだ耐え切れる範囲か。演奏評はしづらいけど、いかにもフランスの典雅さが漂う範疇にはある演奏ぶり。前後収録の曲の間にあっては少しへこんだ感じか。○。

四行詩の組曲

○マドレーヌ・ミヨー(語)作曲家指揮ランパル、モンタイユ他(Ades/everest)

これはアスペン・セレナーデと弦楽七重奏曲とともに録音されたもので、それらは別の組み合わせでACCORDよりCD化されている。ミヨー特有の、各声部の独立した音線(それぞれは美しいラテンふうの旋律を持つ)のおりなすポリトナリティが無調感を醸す曲だが、楽器数を絞っているのと典雅な木管楽器とハープを中心とした響きで統一しているため聞きづらい部分は少ないほうである。ミヨー夫人の語りはいつもの調子。何か比較対象がないので評しづらいし曲的にも小規模なので、○ということにしておく。奏者はいずれも一流どころではある。

カンタータ「栄光の冠」Op.211

○デミニ(B)作曲家指揮アンサンブル(VERSAILLES)LP

「三つの聖なるカンタータ」と題されたミヨーの宗教カンタータ集で、「ヴナスク伯爵領人の典礼」および「格言カンタータ」という多少時期のずれた作品が裏面に入っている。この曲は題名からして聖書めいているが祭儀の進行を8曲(4節)のいずれも音楽的にはプロヴァンス風味たっぷりで(それを言えばそもそも裏面だって思いっきりプロヴァンスな主題の曲なのだが風味は違う)1940年の作品とはいえ未だ六人組のもっとも輝かしい時代の、素直な牧歌的室内楽の系譜につらなる雰囲気をもった作品である。前年の有名な「ルネ王の暖炉」に似たものを別の編成で別の目的のもとに作り上げたといったふうである。ユダヤ系であることに対する迫害をおそれアメリカに亡命したまさにその年の作品であることは、懐古的でなつかしい曲感の示す意味をストレートに示している。

RVWが第一次大戦で外国人として戦下に見たプロヴァンスの暖かい風景を、緩やかな音線にうつした曲をもって世に名を轟かせたことを思い出す。ミヨーはパリジャンとしての生活がありながらも、まさに国がどんなに戦に乱れようとも暖かな情景を保ち続けたエクサンプロヴァンス生粋の作曲家であったことを思い起こさせる。RVWは客観的な時代には戦争をそれなりに苦々しく描いたが、いざ戦争の害に逢ったところでストレートに描くことをやめ、田園の哀しくも美しい情景をひたすら美しい音にたくした5番交響曲をまとめた。ミヨーの心情もまさにその、戦争に向き合い闘争するのではなく、戦争を遠く見守り収まるのを待つ、懐かしい風景がせめて壊されないようにと回顧する、そういったところにあったのかもしれない。

やや古めかしい歌唱に対して僅かフルート、トランペットに弦楽四重奏という擬古典編成のバックがとても親密な雰囲気をもち、田舎教会のミサ(ユダヤ教だと神聖祭儀とでも言うのだろうか)の進行風景を思わせて秀逸である。演奏自体は戦後の録音だが、安堵と喜びの生々しさをどことなく感じる。ミヨーの指揮はかなり巧みなので安心できる。素直な曲なのでもっと演奏されてもいいと思うが宗教曲は難しいか。○。

歌劇「クリストファ・コロンブ」

○ロザンタール指揮リリーク放送管弦楽団、フランス国立放送合唱団他(DISQUE MONTAIGNE)放送LIVE・CD

極めてダイナミックな大作で多様な表現の散りばめられたミヨーのいわば集大成的な作品である。クレーデルの本による歌劇だが映画音楽を元にしているのではなかったか?描写的でわかりやすく、ウォルトンのベルシャザールに更に慎重なワサビを効かせて、後半は新大陸のリズムや楽天的旋律を過不足ない書法で巧みに組み入れ、「男とその欲望」を彷彿とさせる原始主義も洗練された都会的な無駄無い表現により陳腐に陥らせることなくそのエッセンスだけを伝えている。複調性や不協和要素は無いわけではないのだが殆ど目立たない。新大陸の場面で感傷的にあらわれるプロヴァンス民謡ふうパセージも新大陸に爽やかな風を吹き込むだけで違和感はない。ジャズが顔を出すのは御愛嬌。最後はまさにオネゲルのダヴィデ王を彷彿とする雄大で感動的な盛り上がりをみせる。ロザンタールは明るく乾いた音で色彩感溢れる生命力に満ちた表現を最後まで崩さない。他曲のスタジオ録音にきかれるような弛緩は無い。フランス流儀としての声部間のバラバラ感も全く違和感なく寧ろ色彩感を倍加している。終演後の盛大な拍手も演奏の成功をつたえる。モノラルであることをマイナスと考えても○をつけざるをえない。このCDは今はなき六本木WAVEで長らく棚を飾っており、金を貯めてやっと買おうとしたら売れてしまっていて、「ミヨーなんて聞く人が俺以外にもいたんだ」と落胆した覚えがある。当時なんばでミヨーのカルテットを集めていたら「研究家のかたですか?」と訝しげに見られた、そんな頃である。

~第一部

○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル他(nickson)1952/11/9放送liveCD

ロザンタールのディスク・モンテーニュ盤を手に入れ損ねて長らく不完全燃焼だった私にミトプーのライヴ録音イシューは福音のようだった。コロンブスの偉業を称える?大曲だが、第一部だけの演奏会(放送初演というがそもそも放送でこのどでかい曲を流すことなど以後あったのだろうか)であるこの盤だけを聞いても親しみ易く気持ちのいい流れを70分余り味わう事が出来る。ミトロプーロスの弛緩しない音作りのせいもあろうが、ミヨー自身が理解される事を念頭に書いたと思われる世俗的な魅力がある。いちばん近いのはオネゲルの「ダヴィデ王」あたりの雰囲気だと思うが、もっと表層的というか、たとえば「男とその欲望」を思わせる太鼓のドンドコいうリズムの上にナレーションが入り、時々歌詞のない男声合唱が「ワーオ」というようなイカニモ土人的合いの手を入れてくるところなど、面白いけど、、、、いや、面白いです。クローデルの台本によるがここでは英語で歌われており比較的わかりやすい。でもわかりやすいがゆえの何か浅薄な感じも無きにしもあらず。私の記憶が確かならこの曲はそもそも映画音楽かなんかだったと思うが、それも肯ける内容である。ちょっと長いけど、ミヨー好きは聴いて損はありません。ミヨーとくに好きでない向きも、聴いて不快ということはない。と思う。だといいんだけど・・・。ミヨーのいちおう代表作ですから。集中力が途切れず、不協和音を余り尖鋭に響かせない配慮がこの演奏の大魅力。

創世記組曲(一部の曲のみ担当)

○エドワード・アーノルド(ナレーション)ヤンッセン指揮ロスアンゼルス・ヤンッセン交響楽団、ウッドワース指揮ボストン交響楽団(ARTIST RECORDS/PASC)1945/12/11、ナレのみ1946/6・SP

PRISTINE配信CD化可。大戦末期ヨーロッパよりアメリカ西海岸に避難または移住していた名だたる作曲家たちに恐らく委属され編まれる「プロジェクト」として知られる。往年のキャピトル録音やRCA録音、最近の発掘スコアによる考証版録音の他に、じつはこのような作曲直後の録音(ツギハギだが)があったというのはおどろきだ。作曲家たちは全く統一感なくそれぞれの作風で貫き通しており、旧約を読み上げるナレに惑わされず音楽を聴けば言い当てることは容易だ。ミヨーの作品が聴きやすい。タンスマンも入りやすい。後半テデスコからトッホ、ストラヴィンスキー、シェーンベルクと一気に前衛化しシルクレットなどホルスト的な映画音楽ライクな音楽を軌道修正している。録音は悪い。資料価値で○。
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