湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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☆マーラー:交響曲「大地の歌」

2017年01月31日 | マーラー
○クレンペラー指揮ハンガリー放送管弦楽団、レスラー(T)シャーンドル(A)(archiphon:CD-R/MEMORIES)1948/11/2ブダペスト放送live・CD

2017/1に他の録音とまとめてMEMORIESより廉価CD化。同盤はこの音源のみがCDフォーマット初出(私個人の記録上歌曲の歌手情報が混乱しているがMEMORIES盤については販売代理店に特記がないので確実に既出と思われる)。大地の歌の表現者としてはマーラー直系のワルターとともに双璧をなしたクレンペラーの驚愕のライヴ記録である。このときの放送スピーチ内容がシュトンポア編野口剛夫訳「クレンペラー指揮者の本懐」春秋社1998に収録されている。推して知るべしな音質ではあるがリマスター状態はよい。録音エアチェックなのだろう、歌手がマイクを通したように生々しく捉えられオケはやや引きで聞こえるが、前半楽章はクレンペラーの気合の掛け声と劈くような切り裂くような響きが圧倒する。気になるのはテノールのハイの出なさで、音痴で非力と言ったほうがいいくらい(それでもこれ見よがしにオペラティックな表現をとったりするのがまた。。)、もう1楽章から別の意味で酔ってしまうような感じだが、ソプラノはパワーも表現力も中堅どころマーラー歌いのレベルは十分に果たしている。そして何よりクレンペラーだがまだ戦前ベルリン時代の即物的な表現様式を高速インテンポという方法で維持している。しかしオケが素晴らしく感傷的である。クレンペラーが指示しているのだろうが(ライヴですし)大づかみには即物主義にもかかわらずよくよく聞き込むと実に細かい繊細な表情が諸所に付けられており、微妙なテンポの揺れを最大限に活かし音楽的に、じつに音楽的に、ワルターすら陳腐に落ちるとしたクレンペラーの確信的な表現が、落涙すら辞さないほどに絶妙の煽り方をして身を惹きつける、とくにやはり、「告別」だ。堅牢とした構造を最後は美しく、号泣にも落ちず昇華もせず、ただ、ひたすらに美しい。それが二次的に「悲しい」のである。速度についていけない部分もあるにせよオケは立派にマーラーオケとしての役割を果たしている(多分にオケ自身がノせられ過ぎて勝手にソリスティックな細かな動きを突っ込んでしまった要素が強いが)。クレンペラーの過酷なトレーニングもあったのだろう。しかし・・・ほんとに素晴らしい記録が出てきたものである。オケにはシューリヒトの旧いACO録音を思わせる生気がやどり、指揮にはさすがにライヴなこともありマーラーにどうしても共感せざるをえない部分も残しつつも、慄然とした「これはクレンペラーである」という筋の通った表現、これらの総合が実にバランスがとれている。このすぐのち50年代というとVSOとの不遇時代だが、VSOの録音が単なるクレンペラーだとすれば、これは「クレンペラーとマーラーの対話」である。ちょっとしばし、考え、沈んでしまった。こんな演奏に出会うことは滅多に無い。クレンペラーは、例え奇人で厭な大男だったとしても、稀有の芸術家であった。不遇時代とて例外ではない。これほどの指揮者に、今後我々は出会うことができるのであろうか?歌唱の不調と録音の不備でやむなく○にするが、告別一曲だけで私は◎をつけたく思う。他の楽章も素晴らしいのだが。。クレンペラーが告別で鼻歌、なんてのを聴くことができるとは。「永遠に」主題の最初の出現のときのマンドリンがなんとも涼しげで憂いがあって・・・

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