○フリッツ・マーラー指揮ローマ・イタリア放送交響楽団(KARNA:CD-R)1958/7/16live
まさにドイツ臭い演奏でがっしりと律せられた響きがじつに印象的である。こんなに格調高いイタリアのマーラーを聴いたのは初めてだと思う。勝手なカンタービレを一切許さず、コンヴィチュニー張りに縦を重視した重厚で力強い演奏ぶりはちょっとライヴとは思えない緊張感(精度というと現代的なイメージを持たれるかもしれないので避けておく)を保っており、本当にこれがイタリア?南西ドイツじゃなくて?といったふうである。音色は録音のせいかもしれないがやはりイタリア的ではない。クレンペラーの出す音に似ている。テンポは遅めだが、ガシガシとくるので5楽章の最後は盛り上がるし、まるで奈落を覗いているかのようなアダージエットの陶酔的なテンポ設定がまた凄い。ワルターなどと対極にある音作りで、職人的なオーケストラの纏め方ができる人だと思うが、テンポの揺れ方はワルターどころかシェルヒェンすら思わせる。しかしこの音量的まとまり、各声部の噛みあった見事なオーケストラのドライヴのさせ方には、正直、「ほんとにアメリカなど周縁諸国でしか活躍の場のなかった無名指揮者フリッツの演奏なの?」と思わせるものがあり、これは当代であれば一流の演奏家として認められるべきものは十分に持っている。おじさんの曲をただ情に溺れることは決してせずに、純粋に音楽として敬意をもって表現している、アダージエットにおいてその一音一音を慈しむような磨き上げ方、まことこれほどの名演が、しかもイタリアから生まれていたというのは驚きに値する。フリッツのマーラーを私は嘆きの歌しか知らないが、この完成度からすればもっといろいろ復活してくるだろう。これからの再評価に期待したい。ドイツ的マーラーの象徴的演奏。時代精神がそこに魂を入れている。録音よれなどが散見されるので○にとどめておく。比較的リアルな演奏ぶりで幻想を呼ぶたぐいではないので念のため。グスタフと血縁こそあれ同一人物ではない、フリッツのマーラーだ。
まさにドイツ臭い演奏でがっしりと律せられた響きがじつに印象的である。こんなに格調高いイタリアのマーラーを聴いたのは初めてだと思う。勝手なカンタービレを一切許さず、コンヴィチュニー張りに縦を重視した重厚で力強い演奏ぶりはちょっとライヴとは思えない緊張感(精度というと現代的なイメージを持たれるかもしれないので避けておく)を保っており、本当にこれがイタリア?南西ドイツじゃなくて?といったふうである。音色は録音のせいかもしれないがやはりイタリア的ではない。クレンペラーの出す音に似ている。テンポは遅めだが、ガシガシとくるので5楽章の最後は盛り上がるし、まるで奈落を覗いているかのようなアダージエットの陶酔的なテンポ設定がまた凄い。ワルターなどと対極にある音作りで、職人的なオーケストラの纏め方ができる人だと思うが、テンポの揺れ方はワルターどころかシェルヒェンすら思わせる。しかしこの音量的まとまり、各声部の噛みあった見事なオーケストラのドライヴのさせ方には、正直、「ほんとにアメリカなど周縁諸国でしか活躍の場のなかった無名指揮者フリッツの演奏なの?」と思わせるものがあり、これは当代であれば一流の演奏家として認められるべきものは十分に持っている。おじさんの曲をただ情に溺れることは決してせずに、純粋に音楽として敬意をもって表現している、アダージエットにおいてその一音一音を慈しむような磨き上げ方、まことこれほどの名演が、しかもイタリアから生まれていたというのは驚きに値する。フリッツのマーラーを私は嘆きの歌しか知らないが、この完成度からすればもっといろいろ復活してくるだろう。これからの再評価に期待したい。ドイツ的マーラーの象徴的演奏。時代精神がそこに魂を入れている。録音よれなどが散見されるので○にとどめておく。比較的リアルな演奏ぶりで幻想を呼ぶたぐいではないので念のため。グスタフと血縁こそあれ同一人物ではない、フリッツのマーラーだ。
1966年にルーマニアのクラウゼンブルクでオーケストラの指揮を行う予定であった米国の指揮者フリッツ・マーラー(マーラーの甥)が心臓発作により同地で客死した。オーケストラホールは客で溢れ返っているのに、代わりの指揮者がいない。誰もリスクを負う者がいないと思われた時、第3トランペット奏者が代役を申し出て、立派に指揮を務めた。彼はこの一件で賞賛を浴び、クラウゼンブルクのオーケストラの主席指揮者に返り咲いた(反体制活動容疑で数年前に投獄され、出所後指揮者ではなく、一奏者として忍従の日々を送っていた)。そのトランペット奏者が、N響にも来演したルーマニアの巨匠エーリヒ・ベルゲルである。
フリッツ・マーラーがなぜ知られていないのか?おそらく、彼がナチスのシンパでナチスのプロパガンダの為に反ユダヤ主義的な歌曲を作曲していた過去の作曲家としての行為がその後の彼の生涯に暗い影を落としているのであろう。叔父の威光も利用せず、ヨーロッパの辺境や米国の片田舎で細々と活動していたのも頷ける。
1966年にルーマニアにて客死したと投稿したが、心臓発作に襲われ指揮ができなくなったのが正しく、1973年6月18日に米国ノースカロライナ州で亡くなったと訂正する。また、ナチスの為に作曲したとしたが、作曲者名はFritz Mahrerで別人のようである。彼は戦前から米国コロンビアレコードの為に渡米し活躍していたようなので、ナチスとは関係ないようである。改めて訂正したい。