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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆グラズノフ:交響曲第7番「田園」

2017年08月08日 | グラズノフ
◎ゴロワノフ指揮VRK交響楽団(melodiya)LP

VRK(キリル文字でBPK)はしばしば見られる略称だがモスクワ放送交響楽団のことである。ブリュッセルにVRK(VLAAMS RADIO KOOR)という合唱団があるが別物。何の略称なのか調べたがわからなかった。ムソルグスキーなどの歌曲伴奏でこの表記がなされたものがいくつか(映像含め)残されているがきわめて少ない。THE GRAND SYMPHONY ORCHESTRA OF THE VRKやVRK ORCHESTRAなどと英語圏では表記されているようである。したがってこれは既出CDと同一演奏である。演奏時間並びにわずかなミスや繋ぎ、音色が同じであった。

但し音はきわめてクリアである。私が初めてこれを聞いたのは非常に状態の悪いPearlの復刻CDで、多分そののち復刻されたものもイタリア盤でなくとも五十歩百歩である。だがこの演奏に私は打ちのめされ、それまで聞いてきたグラ7の何と貧弱なことか、何とこなれていないことか、何と解釈されていないことか、何と思いの伝わらないものかということに気がついた。ここには自在なテンポと踊るようにしなやかにうねるように操作され波打つオケ、完璧な演奏があった。遅ればせながらゴロワノフ(当時はゴロヴァノフと呼んでいた。ゴロワーノフとも呼んだかと思う。古いマニアでも知らない類の指揮者であったため入手し聴くのは至難であった)という傑物(怪物ではない!)の、特に歌劇的な表現の優れた手腕は、大規模編成の曲にその特質を示すということを知った。カリンニコフやチャイコフスキーやグラズノフでも比較的穏健な6番といったところでは空回りを感じる。しかしワグナーやスクリアビンとなると話は別だ。違和感を覚えさせるほどに主として解釈と発声法に極端な抑揚をつける、それを受け容れる豊穣なスケール感のある音楽、あるいは構造的にしっかりした音楽(中期スクリアビンの管弦楽は特異ではあるが素直なため崩れようがない)には威力を発揮する。まさにこの曲など「形式主義者」グラズノフの力強くもしっかりした重量感のある音楽となっており、逆に単純に音にするだけでも曲にはなるのだが、そうすると理に落ちた感じになってしまい「ナンダベートーヴェンのまがいものだよ」という不当な評価につながってしまう。しかしこの曲ほどグラズノフの「アマルガム作曲家」としての特質が反映されたものはない。それは対極にあると思われがちなラヴェルを思わせるほどである。ここにはたとえばワグナーの半音階がある(2楽章第一主題の展開など)、チャイコフスキーの慟哭がある(同じく2楽章第二主題前後)。古今東西のさまざまな作曲家のエッセンスが見事にパッチワーク状に繋ぎ合わされ、まるで見事にしなやかなグラズノフという織物に作り上げられている。これは亜流音楽ではない。単純ではない。そしてその魅力を体言できるのは、グラズノフの要求する非常に高度なテクニックと体力(!)を各個が備えた大オーケストラ、更に解釈によってパッチワーク音楽の弱みである「繋ぎあわせ感」を一つの巨大な潮流に併合し表現させてゆくか、それをわかっている指揮者のみである。私はそういった指揮者を一人しか知らない。

それが、ゴロワノフである。

これは(継ぎ接ぎとはいえ)ゴロワノフにとっても最高傑作の一枚であり、この人のこの曲の演奏としては信じられないほどの精度とアンサンブルを見せ付けるものとなっている。ゴロワノフが荒いだけの笑ってしまうアーティストと捉えている人は不幸である。まずは本領である劇音楽、それに近似した位置にいるグラズノフやスクリアビンといった作曲家の作品に触れてから喋るがよい。

これは7番の史上最高の、恐らく今後も現れない名演である。最後の一音まで、この力強さと驚嘆すべきソリストの技に忘我することうけあいである。長い終楽章をここまで聞かせる演奏は無い。そしてグラズノフ最高のスケルツォ、3楽章の蹴り埃舞う軍馬たちの疾走に、憧れと郷愁と、熱狂を感じない者はいまい。

尤も、Pearlの雑音を取り除いた痩せた音では難しいかもしれないが。私はよほどのことがなければ媒体音質に言及しない方針なのだが、これは、十数年以上も聴き続け残念に思ってきた音質の「穴」を見事に埋めてくれるLPであったため書き記しておく。復刻もやりようによっては「普通の人」に誤解を与えるものになりかねない見本のようなものだ。メロディヤではないレーベル名がかかれているがメロディヤ録音と聞いたのでそう書いておく。

※2005/12/17の記事です
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☆グラズノフ:闇から光へ

2017年08月04日 | グラズノフ
○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

ちょっと特殊でかなり陰鬱な曲想から始まる。グラズノフで短調というのはたいてい序奏部か緩徐楽章の雰囲気作りに意図的に挿入されるのみで基本的に楽天的なのが持ち味なのに、この曲はショスタコが8番の2楽章を評した以上に暗く、また西欧的な雰囲気を持っている。グラズノフとは思えないくらいで、ロマン性がなく、かといって前衛的でもない、とても魅力が無い。だが、「闇から光へ」の展開はさすが、やっぱり計算であったのだ。最後はいつものグラズノフの盛り上がりで終わる。15分程度の小曲だがラフリンはやりすぎもせずかといって保守的ではけしてない、ロシアっぽい演奏を繰り広げている。

※2006/12/1の記事です
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☆グラズノフ:交響曲第5番

2017年07月11日 | グラズノフ
○イワーノフ指揮チェコ・フィル(supraphone)1950・LP

チェコ・フィルとのセッションを何度か構えたようで、知る限りグラズノフは二枚出ている。スプラフォンはソヴィエト音源をそのまま出していることがままあるが、音からするとチェコ・フィルで間違いないようだ。オケが違うと洗練される。しかも同時期のチェコ・フィル、線は細いが正確で独特の金属質の肌触りがあり、オケ全体としてのまとまりは巨熊のようなロシアオケより余程上である。この曲もこの遅いテンポだと、ロシアオケならグズグズになり駄目演奏になりかねない(同指揮者は同曲ソヴィエト録音もあるがよく覚えていない)。だがぴしっと揃っているので、聞く側がハラハラするだけで問題なく、イワーノフの作為的解釈が生のまま届く。イワーノフ解釈で驚かされるのはその巨視的なテンポ設定で、4楽章の冒頭やはり遅速から、再現部以降のアッチェランド、そして祝祭的展開の鮮やかさは感服させられた・・・やはりベートーヴェン指揮者なのである。歓喜へ至るためには敢えて落とすのだ。1楽章のポリフォニーに満ち溢れたグラズノフ的展開、その中で窮屈ながらも無限転調を繰り出していくグラズノフらしい部分があるのだが、この転調がごちゃっとする演奏もある中、非常に鮮やかに聴こえ、その現代性に驚かされる。譜面を見たり室内楽をやればこういったグラズノフの時代なりの和声的挑戦は時折見かけることができるのだが、音できちんと、しかも大管弦楽で正しく聴けることはあまり無い。くらべ中間楽章はぱっとしない。3はともかく2、スケルツォは疾走感が薄く、この指揮者のリズム感のなさがわかる。総じて◎にしたかったくらい、見事な部分が混ざるのだが、オケを整えるかのような不自然なテンポの遅さを引いて○。webで聴ける。

※2010/3/13の記事です
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☆グラズノフ:交響曲第4番

2017年06月06日 | グラズノフ
○ラフミロビッチ指揮ローマ聖チチェリア音楽院管弦楽団(capitol)

モノラルのせいかもしれないが非常に緊密で、心なしかイリヤ・ムーロメッツより集中力もやる気も高い。これは名演と言っていいだろう。イリヤ・ムーロメッツよりエッジが立って明確な音であることもポイント高い。元々駄々長いグラズノフのシンフォニーでは一番短く、定型的な緩徐楽章である3楽章を4楽章の序奏部へ吸収させ、ジトジトした雰囲気を残さずにいきなりカッコイイファンファーレから本編に雪崩れ込む、構成上からも非常に巧くまとめられた作品なだけに、ロシアロシアした極端で莫大な演奏よりも、西欧的解釈にのっとったあるていどスマートなやり方のほうがあっている。だからといってこの演奏は日本人の抱くイメージとしてのスマートさとはまた違うものを持っている。スマートといえばムラヴィンスキーのいぶし銀の演奏はちと型にはまりすぎ窮屈、一方このイタリアのからっとした空を思わせる本編高らかなファンファーレの清清しい響きから胸のすく疾走は、ロシアのどんどこどんどこ地響きする野暮な重さは全くないけれども、ロシアの魂を確かに感じさせる力強い流れが筋を通し、オケが強力な指揮の元に自ら疾駆し歌いまくり力を尽くすさまは感動的ですらある。全楽章素晴らしいのだが、ロシアのドン暗さを程よく中和するチチェリアのメランコリックな響きが仄かな感傷を与える1楽章や身についた軽やかさではロシアの演奏に一歩譲るがすんなり聴きとおせるスケルツォ楽章、それらよりも、暗くとも希望の感じられる序奏部から祝祭的な本編へ、スヴェトラみたいなケとハレの土俗的なお祭り突入ではなく、西欧音楽の語法の上にある交響曲形式の構成を踏まえたあくまで抽象的な音楽として、実によく表現されている。何度も何度も聴いて飽きない演奏というのはロシア産交響曲ではそうそうないが、これは何度聴いても飽きないのだ。最初に聞いたのがロジェストで、か細く綺麗なだけの演奏がこじんまりとした地味な曲というイメージを与え、またファンファーレ以下あざとさが耳について一番敬遠していた曲なだけに、こんなに自然に入り込めて、没入できたものというのは初めてだった。世界初録音盤。録音が古いのでマイナス、○としておくが個人的に大好きである。

※2005/8/1の記事です。恐らくCD化しました。
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☆グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番

2017年04月22日 | グラズノフ
○シシュロス弦楽四重奏団(melodiya)

この曲はLP初期にレニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(タネーエフ四重奏団)が録音しており、そのせいか番号付きの作品の中では古くから知られていたようである。同モノラル録音を私は聞いたことが無いが※、このステレオ盤は恐らくそこからは相当にかけ離れたものであると思う。即ちすこぶる現代的であり、そつがなく、「いかにも新世代の演奏ぶり」なのだ。先入観を植えつけられず聞くことができるし、奏者の奏法解釈から殊更に民族性が煽られないぶん最初に入るのには適しているとも思える。実にそつがないのだ。綺麗だし、完璧。ただ・・・終わってみて、すれっからしは「何か足りない」と思ってしまう。少なくともショスタコーヴィチ四重奏団に比べて音のバリエーションや魅力が(民族性という観点において)足りない。グラ5から民族性を抜いたら単なるベートーヴェンである、というのは言いすぎかもしれないが、やや物足りなさを感じさせるのは事実だ。○にするのに躊躇はないが、ライヴで聞きたいかというとそんな気も起きない感じではある。いや、譜面は完璧に再現されてますよ。テンポ的にも遅くならず、完璧に。巧い。

※執筆当時
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☆グラズノフ:弦楽四重奏曲第4番

2017年04月15日 | グラズノフ
○タネーエフ四重奏団(melodiya)LP

俗っぽい悲恋話を背景にしているとの伝説のある、グラズノフにしては珍しい一貫して晦渋な作品で、構造的な書法が目立つこともその印象を強くしている。交響曲第8番2楽章あたりの近代ロシア的な陰鬱さに通じる。グラズノフは形式音楽におけるスケルツォ楽章を、他の楽章との対比的なものとして完全に独立した異なる楽想により描くべきである、ということをどこかで公言していた記憶があるが(直接聞いたわけじゃない)、この曲においては3楽章がそうで、ボロディンふうの軽やかな楽想がチャイコフスキーふうの構造に昇華された妙に明るい民族的楽章となっているが、これを別とすれば他楽章はいずれも重厚な雰囲気を持ち、関連する動機や(頻繁に揺らぐけれども)ハーモニーを用いており、バッハやベートーヴェンの模倣といった古典回帰の傾向を強く打ち出している(ベートーヴェン指向は5番でより強くなる)。

グラズノフを強く印象付ける要素としてのポリフォニックな書法がここにきて全面に立ってくるのは特筆すべき点と言える。4本が重音でユニゾン主題を奏でる部分でのオルガン的な音響など余りグラズノフでは見かけないものも聴かれ(視覚から聴覚にシフトしてみた)、そういった作り込みがアンサンブル好きや演奏者サイドにとっては他の単純な室内楽に比べて魅力的になっているとも言えよう(「いえよう」と書かないところが、さるお方との違いを示しているのだ。・・・こういう「いちいち」な書き口、やっぱり読みづらい、やめたほうがいいです<誰に向かって?)。

かといって2、3番から離れて複雑になったわけでもない。終楽章など3番同様ファーストが弾きまくるだけの部分もある。寧ろその点更に円熟した技巧の投入された多彩且つ壮麗な5番が別の場所に頂点を築くわけだが、3番のように民族楽器表現の模倣に終始したり1、2番のようにボロディン的な世界を追求した、より単純で軽やかな作品とは一線を画していることは確か。タネーエフQがこの4,5番を録音演目に選んだ理由はなんとなくわかる。

で、演奏なのだが、やっぱりプロの室内楽士としては技術的な限界も感じる。裏板に響かない金属質で細い(でも柔らかい)音のファーストがどうにも私は好きではない。他のパートとの音響バランスが悪いのだ。予め設計上手を入れすぎているのではないかというところが気になるのは、この曲の録音が殆どショスタコーヴィチ四重奏団のものしかなかったからそれとの対比で、ということでもあるのだが、全般とにかく遅いし、1楽章で特に気になったのはやたらと音を切ってニュアンスを変え主題を際立たせようとしているところ。グラズノフはきちんと書いているのに、却ってわかりにくくしている。事前設計上冒頭のテンポを極端に落としコーダまでに徐々にアッチェルしていく、というやり方が両端楽章で聴かれるが、板についた表現になっていないので生硬さだけが印象として残り、ただでさえ上記のような余りよくない印象があるのに、更に下手な楽団であるかのような錯覚を覚えさせてしまう。

面白い。シシュロフもこんな4番はやらなかった。だが、3楽章においてもあまりの遅さに辟易としてしまった(ショスタコーヴィチ四重奏団が速過ぎるということなのだが冒頭に書いたグラズノフの主張からすれば緩徐楽章に挟まれたスケルツォの対比的な表現として正しいテンポだと思う)。

ファースト批判ばかりしているわけではなく、他の楽器も人工的な変化を人工的とわかるように入れており、同じようなものではある。痙攣ヴィブラートでちょっと民族的な音を出している場面もありこれはボロディンQとは異なるタネーエフQの個性だろう。ただショスタコーヴィチ四重奏団はもっと露骨に印象的にやっている。ミスの有る無しという子供みたいな観点からはショスタコーヴィチ四重奏団は最高音の音程を外すなどやらかしているところがあるがこれは左手を柔らかく使う奏法からくるものでもあろう。それに比べてタネーエフ弦楽四重奏団はミスが録音されていない。これは人によっては重要な点かもしれない。
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☆グラズノフ:交響曲第7番「田園」

2017年04月11日 | グラズノフ
○セレブリエル指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(warner)2006/2/28-3/2・CD

かつてはロシアとドイツのオケによる録音しか無かったところへ近年イギリスオケのものが出てきていい意味でも悪い意味でもグラズノフのシンフォニーへの認知が高まったのは喜ぶべきことか。分厚いブラスの重低音に込み入った立体的書法、中欧指向の強まったグラズノフ中期以降の作品ではイギリスオケというのは決して釣り合った相手ではない。しかしセレブリエルのように垢抜けたあけっぴろげの表現が似合わないかというとそうではなく、終楽章の壮麗な音楽はとても聴きごたえがある。反面、このオケの弱いところが出たのは本作品のオケの腕の見せ所といったスケルツォ、もともと楽章間の対比を内容的にも強調すべきだと主張していたグラズノフがそれまでの牧歌的表情から豹変して祝祭的で前進的な音楽を描いた、そこを押さえていないと更に終楽章での「まとめ」との対比がうまくいかないのだが、弦や木管への技術的に苛烈な要求がこの楽章で極まっていることもありしょうじき聴いていて辛く思う個所もある。浅薄な響きもこの楽章の存在を軽くしている。浅薄な響きと言えば2楽章、世にも美しい第二主題がまったくそれまでの音色と同じ、まさにイギリスオケのあの明るく穏やかな音のまま流れて行ってしまうのもどうかと思った。出てくる音楽に思い入れのようなものが感じられ無いと成り立たないのだ。冷めているし理解していない。これはセレブリエルが1楽章と同じ調子で音楽を進めてしまったせいもあろう。ここでは暗い響きを強調してやはり、楽章間対比をハッキリしておかないとならないのだ。全般なかなかよいのだが、やはりロシアオケじゃないとこの長大な終楽章はもたないなあとか、スケルツォはオケの地力が無いとだめだなあとか、そんなことばかり気になった。3楽章が面白くないとこの演奏を聴いて言っている人はちょっと残念だよね。○。
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☆グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲

2017年04月04日 | グラズノフ
○コリリアーノ(Vn)バーンスタイン指揮NYP(RICHTHOFEN:CD-R)1958/4/13カーネギーホールLIVE

乾いたケレン味がかつてないグラコンを聴かせている、グラズノフの記録をまったく残していないバーンスタインのしかも壮年期そのものの演奏のように思える。もちろんバックオケに過ぎないのに、これは強く開放的で、かつ職人的な処理のなされた演奏。ソリストがまた激烈なスタイルで、とくに前半部は見事なヴィルトーゾスタイルで張り詰めるようなソロを聴かせている。だが少し血が上り過ぎたようで細かい音符が怪しく感じられ始めそのまま、ロシアのようなあけすけなペットソロとのかけあい、やや落ち着きテンポが落ちるが、どんどん血が上っていって遂にメロメロな音程に。動きはあっているのだが。。それでも堂々としたフィナーレに堂々としたフラブラで終わる。個人的にはけっこう手近に置いておきたい特有の匂いのするものだが、ライヴとしては失敗かもしれない。○。
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☆グラズノフ:交響曲第6番

2017年01月30日 | グラズノフ
○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(melodiya/venezia)1989・CD

スヴェトラが人生を賭けた壮大なロシア音楽アンソロジーの一部として、ソヴィエト末期にほぼ一発録りで録音されていったグラズノフ交響曲全集の一枚。これが出た当初は期待に反してスカスカなオケの音に当時高額だったCD代返せ状態だったわけだが今聴くとまったくそういうことは感じない。田舎臭いロシアオケを使って現代オケの響きに近い透明感を獲得しようとしたのだと言えば良すぎる言い方だが(スヴェトラの後年の活動を見ると嘘とも言えないと思う)、弦楽器の本数が(理由は何にせよ)減りブラスのソリスト級奏者が抜けているが依然、ロシアオケの馬力と特有の響き(ホール残響や録音含む)は健在で耳障りが悪いわけではない。演奏精度も当時感じたほどに悪いことは全然無い。8番など旧録のあるものは比較してしまうので(旧録も一長一短だ)そういうことを言いだしたくなるものだが、現在のロシアオケの状態を思うと、多少雑味混じりでもそれを跳ね除けるような楽団員ひとりひとりの意気・技術というのが感じ取れてまったく素晴らしい。

さてこの曲はブラームス風チャイコ、と言うべき曲でグラズノフでも保守的なほうに入るかと思う。だからグラズノフ慣れしてしまうと退屈さは否めなく、古風なまでに形式的で霊感を抑え込んでいるように感じる。逆にグラズノフを知らないと、旋律の美しさ、和声の自然さにすんなり入れようし、個性とも言える半音階的な進行が多声的な構造を持ちながらも響きの透明感を保ったままかっちりハマって進んでいく技術の確かさに感服するだろうし、この大編成を無駄なく隅々まで使い切る手腕にもロシアには殆どいなかったタイプのプロフェッショナルな作曲家という印象を感じることができるだろう。これはいつものことでもあるが、楽想の展開にはちょっと無理のある部分もあって、3楽章の再現部の唐突さや4楽章のマエストーソ的に表れる最終変奏の大仰さなど笑ってしまうところもあるが、私自身もこの曲で初めてグラズノフを認識したので、一度聴いてみてはいかがでしょうか。○。
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☆グラズノフ:5つのノヴェレッテ

2016年12月12日 | グラズノフ
○サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD

ここまでやり切ったノヴェレッテも無いだろう。強いて言えば余りに壮大激烈にやっているがゆえ別の曲に聞こえてしまうのが難点か。サンクトペテルブルクの弦楽の伝統的なフレージング、ヴィヴラートのかけ方、レガート気味にともするとスピッカートもベタ弾きしかねない、そういうところがもはや当然の前提として敢えてそのスタイルから外れ、抽象度を増しているところもあると思う。各曲の最後のダイナミックな収め方は民族音楽を通して保守的な弦楽四重奏曲という形式を壊すようなグラズノフのまだ意気軒昂としたところをよく押さえて出色だ。○。
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☆グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲

2016年12月02日 | グラズノフ
○ガブリエル(Vn)G.L.ヨッフム指揮RIAS交響楽団(remington)LP

折り目正しい演奏振りだが前半部で異様に盛り上がり、異様なスピードの中で超絶技巧や胸のすく表現が聴かれる。さすがに速すぎて超高音域で音程が上ずったりするところもあるが、気にとまらないくらいの勢いと雄弁さに圧倒されてしまい、この曲は二度と弾くまい、と思わせるくらいなのだ。

が、ファンファーレ後の明るい曲想になると息切れがしてくる。精彩を欠くようになる。重いロマンティックな中欧の楽曲を得意とするソリストなのかもしれない。民族性を露骨に発揮するべき浅はかな後半部で、前半部と同じ人とは思えない左手の曖昧さや右手の生硬さが残念だ。かわってバックオケはここぞとばかりにドイツ的な表現で堅牢さを見せている。○にしておく。モノラルだが明瞭なレミントンらしい音。
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☆グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲

2016年10月09日 | グラズノフ
モリーニ(Vn)不明(ウォレンスタイン?)指揮不明(ロス・フィル?)(RICHTHOFEN:CD-R他)1950年代LIVE

計算し尽くされたソリストの表現力もさることながらバックオケの「こんな音があったのか、さすがグラズノフ!」という発見まで促す性能の高さ、双方丁々発止のスリリングなやり取りは実にレベルが高い。ドイツ的な構築性があるにもかかわらず野暮ったさが皆無で、軽快にさえ感じるその理由は演奏精度の高さにあるのだ。前半は客観性が見えテンションは低くはないが飽きる。しかし後半は清々しく楽しい。最後のフラジオがこんなに輝かしく捉えられた録音を私は知らない。で、なんで無印?瑕疵がないなら音が悪かろうが○にしたろう。R盤(版元によればアセテート原盤からそうらしいが)、拍手をフェードアウト・カットするさい、最終音まで切り落としてしまっているのだ。注記はどこにもない。拍手がカットされているとだけ書いている。これを意図的なものではなく、聞き逃したと好意的に解釈したとしても、販元の見識を疑う。同盤を扱っている店舗がいずれもグラズノフの協奏曲程度ですら「知らない」という事実に、クラシック音源業界の落日をはっきり感じた。

悔しい。
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☆グラズノフ:交響曲第7番「田園」

2016年09月21日 | グラズノフ
○尾高指揮BBCウェールズ管弦楽団(BIS/brilliant)CD

Glazunov: Symphonies (Complete); Cantatas; Famous Ballet Music; Violin Concerto [Box Set]

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丁寧。ロシア系演奏に慣れていると簡素で即物的に聞こえる。グラズノフの均整美が透明感のある音と良い録音で示されていて、ロジェストより聴き易いかもしれない。二楽章第二主題の天国的な幻想をここまで美しく歌い上げた演奏は無い。グラズノフはマーラーと同様スコアを音にすればそれでいい。そういう現場主義的な即物性を持ち合わせている。楽想の移ろいに忠実に、慎重に描き上げていく真面目さが奏功している。ただ三楽章はその美学が裏目に出て民族的感興を喚起しない。二楽章のぽっとした明るさ(二楽章はほんらい暗いのだが)のまま聴けてしまう。遅いしレガート気味である。ソロ楽器に難度の高い楽章なのでミスなく丁寧に完璧に仕上げようという意図なのだろう。最後の弦の三連符リズムのスピッカートをここまできっちり揃えている演奏は特異で初めて聴いた。

ボロディン前後からロシア国民楽派のアカデミズムは4楽章制交響曲の中間楽章を極めて対照的な雰囲気を持つ独立したピースとして配置するよう意味を拡大もしくは単純化しており、その究極の実践者としてのグラズノフをやるのであれば西欧的な形式概念を外し、二楽章はどん底の無言歌謡、三楽章は祝典用舞踏音楽として異常なコントラストを付けて欲しいとは思う。カリンニコフの1番がわかりやすいと思うが、この場合四楽章は確実にバラバラなそれまでの楽章から主題を全部抽出し並置もしくは複置することで統一感を持たせる、歌劇における終曲の役割を果たす。統一主題があればそこに更に重層的な処理が加わる。盛りだくさんだからえてして冗長感があったりもするが、この曲もまさにそれである。この演奏様式だとどうなのだろう、と思うが、指揮者の構造重視の姿勢がグラズノフのベト的に緊密な書法の裏まで浮き彫りにしていて面白いのである。そう、勢いで曲作りをしないからこその分析的アプローチで冗長感を避けている。ただ各声部間のバランスがやや崩れてきているか。音響的にバラケ感がある。コーダでは見事に最強奏で団円させ、全体設計の巧みさを改めて意識させられる。なかなかの演奏。
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☆グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲

2016年09月01日 | グラズノフ
○スタンスケ(Vn)シューリヒト指揮ベルリン・フィル(ARCHIPEL)1951/10/14live・CD

驚異的な音源の廉価復刻を続けるアルヒペルは一時休止の様相をていしていたが再び面白い音源を発掘しては1000円そこそこで販売している。例によって編集や音質は乱暴で、これも冒頭の序奏が切れ気味に始まり終演後拍手前にぶち切れるが、多分史上最速の演奏ではないか。若々しく飛ばしまくるソリストに前半はまるでナンカロウの自動ピアノを聞いているようなめまぐるしさに違和感より爽快感をおぼえるが(こんな速さで弾きこなすだけでもそうとうな腕である)後半はさすがに速さに指がつんのめる場面もあるにせよ完全に余裕でこの曲を弾きこなし突っ走っている。華麗な技巧のすべては速さの前にその華麗さを気づかせることができず、唖然と聞かせるにとどまっているが、却って「詰め込みすぎのグラズノフ」がすっきり旋律音楽として聴ける側面もある。音色は力づくのドイツ式で正直ギリギリと弓圧がきつい感じがするし、綾もへったくれもないが、ベルリン・フィルのグラズノフという希少性もあいまってこの悪録音でもかなり興味をひきまた満足させるものとなっている。○。
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グラズノフ:5つのノヴェレッテ~Ⅲ

2014年03月25日 | グラズノフ
フロンザリー四重奏団(victor)SP

地味な楽章ゆえに大人しい演奏になっている。美質は聴き取れる。
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