◎ゴロワノフ指揮VRK交響楽団(melodiya)LP
VRK(キリル文字でBPK)はしばしば見られる略称だがモスクワ放送交響楽団のことである。ブリュッセルにVRK(VLAAMS RADIO KOOR)という合唱団があるが別物。何の略称なのか調べたがわからなかった。ムソルグスキーなどの歌曲伴奏でこの表記がなされたものがいくつか(映像含め)残されているがきわめて少ない。THE GRAND SYMPHONY ORCHESTRA OF THE VRKやVRK ORCHESTRAなどと英語圏では表記されているようである。したがってこれは既出CDと同一演奏である。演奏時間並びにわずかなミスや繋ぎ、音色が同じであった。
但し音はきわめてクリアである。私が初めてこれを聞いたのは非常に状態の悪いPearlの復刻CDで、多分そののち復刻されたものもイタリア盤でなくとも五十歩百歩である。だがこの演奏に私は打ちのめされ、それまで聞いてきたグラ7の何と貧弱なことか、何とこなれていないことか、何と解釈されていないことか、何と思いの伝わらないものかということに気がついた。ここには自在なテンポと踊るようにしなやかにうねるように操作され波打つオケ、完璧な演奏があった。遅ればせながらゴロワノフ(当時はゴロヴァノフと呼んでいた。ゴロワーノフとも呼んだかと思う。古いマニアでも知らない類の指揮者であったため入手し聴くのは至難であった)という傑物(怪物ではない!)の、特に歌劇的な表現の優れた手腕は、大規模編成の曲にその特質を示すということを知った。カリンニコフやチャイコフスキーやグラズノフでも比較的穏健な6番といったところでは空回りを感じる。しかしワグナーやスクリアビンとなると話は別だ。違和感を覚えさせるほどに主として解釈と発声法に極端な抑揚をつける、それを受け容れる豊穣なスケール感のある音楽、あるいは構造的にしっかりした音楽(中期スクリアビンの管弦楽は特異ではあるが素直なため崩れようがない)には威力を発揮する。まさにこの曲など「形式主義者」グラズノフの力強くもしっかりした重量感のある音楽となっており、逆に単純に音にするだけでも曲にはなるのだが、そうすると理に落ちた感じになってしまい「ナンダベートーヴェンのまがいものだよ」という不当な評価につながってしまう。しかしこの曲ほどグラズノフの「アマルガム作曲家」としての特質が反映されたものはない。それは対極にあると思われがちなラヴェルを思わせるほどである。ここにはたとえばワグナーの半音階がある(2楽章第一主題の展開など)、チャイコフスキーの慟哭がある(同じく2楽章第二主題前後)。古今東西のさまざまな作曲家のエッセンスが見事にパッチワーク状に繋ぎ合わされ、まるで見事にしなやかなグラズノフという織物に作り上げられている。これは亜流音楽ではない。単純ではない。そしてその魅力を体言できるのは、グラズノフの要求する非常に高度なテクニックと体力(!)を各個が備えた大オーケストラ、更に解釈によってパッチワーク音楽の弱みである「繋ぎあわせ感」を一つの巨大な潮流に併合し表現させてゆくか、それをわかっている指揮者のみである。私はそういった指揮者を一人しか知らない。
それが、ゴロワノフである。
これは(継ぎ接ぎとはいえ)ゴロワノフにとっても最高傑作の一枚であり、この人のこの曲の演奏としては信じられないほどの精度とアンサンブルを見せ付けるものとなっている。ゴロワノフが荒いだけの笑ってしまうアーティストと捉えている人は不幸である。まずは本領である劇音楽、それに近似した位置にいるグラズノフやスクリアビンといった作曲家の作品に触れてから喋るがよい。
これは7番の史上最高の、恐らく今後も現れない名演である。最後の一音まで、この力強さと驚嘆すべきソリストの技に忘我することうけあいである。長い終楽章をここまで聞かせる演奏は無い。そしてグラズノフ最高のスケルツォ、3楽章の蹴り埃舞う軍馬たちの疾走に、憧れと郷愁と、熱狂を感じない者はいまい。
尤も、Pearlの雑音を取り除いた痩せた音では難しいかもしれないが。私はよほどのことがなければ媒体音質に言及しない方針なのだが、これは、十数年以上も聴き続け残念に思ってきた音質の「穴」を見事に埋めてくれるLPであったため書き記しておく。復刻もやりようによっては「普通の人」に誤解を与えるものになりかねない見本のようなものだ。メロディヤではないレーベル名がかかれているがメロディヤ録音と聞いたのでそう書いておく。
※2005/12/17の記事です
VRK(キリル文字でBPK)はしばしば見られる略称だがモスクワ放送交響楽団のことである。ブリュッセルにVRK(VLAAMS RADIO KOOR)という合唱団があるが別物。何の略称なのか調べたがわからなかった。ムソルグスキーなどの歌曲伴奏でこの表記がなされたものがいくつか(映像含め)残されているがきわめて少ない。THE GRAND SYMPHONY ORCHESTRA OF THE VRKやVRK ORCHESTRAなどと英語圏では表記されているようである。したがってこれは既出CDと同一演奏である。演奏時間並びにわずかなミスや繋ぎ、音色が同じであった。
但し音はきわめてクリアである。私が初めてこれを聞いたのは非常に状態の悪いPearlの復刻CDで、多分そののち復刻されたものもイタリア盤でなくとも五十歩百歩である。だがこの演奏に私は打ちのめされ、それまで聞いてきたグラ7の何と貧弱なことか、何とこなれていないことか、何と解釈されていないことか、何と思いの伝わらないものかということに気がついた。ここには自在なテンポと踊るようにしなやかにうねるように操作され波打つオケ、完璧な演奏があった。遅ればせながらゴロワノフ(当時はゴロヴァノフと呼んでいた。ゴロワーノフとも呼んだかと思う。古いマニアでも知らない類の指揮者であったため入手し聴くのは至難であった)という傑物(怪物ではない!)の、特に歌劇的な表現の優れた手腕は、大規模編成の曲にその特質を示すということを知った。カリンニコフやチャイコフスキーやグラズノフでも比較的穏健な6番といったところでは空回りを感じる。しかしワグナーやスクリアビンとなると話は別だ。違和感を覚えさせるほどに主として解釈と発声法に極端な抑揚をつける、それを受け容れる豊穣なスケール感のある音楽、あるいは構造的にしっかりした音楽(中期スクリアビンの管弦楽は特異ではあるが素直なため崩れようがない)には威力を発揮する。まさにこの曲など「形式主義者」グラズノフの力強くもしっかりした重量感のある音楽となっており、逆に単純に音にするだけでも曲にはなるのだが、そうすると理に落ちた感じになってしまい「ナンダベートーヴェンのまがいものだよ」という不当な評価につながってしまう。しかしこの曲ほどグラズノフの「アマルガム作曲家」としての特質が反映されたものはない。それは対極にあると思われがちなラヴェルを思わせるほどである。ここにはたとえばワグナーの半音階がある(2楽章第一主題の展開など)、チャイコフスキーの慟哭がある(同じく2楽章第二主題前後)。古今東西のさまざまな作曲家のエッセンスが見事にパッチワーク状に繋ぎ合わされ、まるで見事にしなやかなグラズノフという織物に作り上げられている。これは亜流音楽ではない。単純ではない。そしてその魅力を体言できるのは、グラズノフの要求する非常に高度なテクニックと体力(!)を各個が備えた大オーケストラ、更に解釈によってパッチワーク音楽の弱みである「繋ぎあわせ感」を一つの巨大な潮流に併合し表現させてゆくか、それをわかっている指揮者のみである。私はそういった指揮者を一人しか知らない。
それが、ゴロワノフである。
これは(継ぎ接ぎとはいえ)ゴロワノフにとっても最高傑作の一枚であり、この人のこの曲の演奏としては信じられないほどの精度とアンサンブルを見せ付けるものとなっている。ゴロワノフが荒いだけの笑ってしまうアーティストと捉えている人は不幸である。まずは本領である劇音楽、それに近似した位置にいるグラズノフやスクリアビンといった作曲家の作品に触れてから喋るがよい。
これは7番の史上最高の、恐らく今後も現れない名演である。最後の一音まで、この力強さと驚嘆すべきソリストの技に忘我することうけあいである。長い終楽章をここまで聞かせる演奏は無い。そしてグラズノフ最高のスケルツォ、3楽章の蹴り埃舞う軍馬たちの疾走に、憧れと郷愁と、熱狂を感じない者はいまい。
尤も、Pearlの雑音を取り除いた痩せた音では難しいかもしれないが。私はよほどのことがなければ媒体音質に言及しない方針なのだが、これは、十数年以上も聴き続け残念に思ってきた音質の「穴」を見事に埋めてくれるLPであったため書き記しておく。復刻もやりようによっては「普通の人」に誤解を与えるものになりかねない見本のようなものだ。メロディヤではないレーベル名がかかれているがメロディヤ録音と聞いたのでそう書いておく。
※2005/12/17の記事です