昨日からホノルルに戻りました。
メルマガを1月いっぱいで終了することにしたら、
なんとなく、このブログに戻ってきました。
フェイスブックやツイッタ-も面白いのですが、
久しぶりにここで書いてみると、
まとまったことを考えたり、書いたりするのに
ブログというスペースは自由度が高いような気がします。
読む人のイメージがリアルではないので、
自分の内側に潜り込みやすいのかもしれないですね。
もう一人の自分との対話のような、
自己の客観視的な。
日記よりも他者を意識した表現になりつつ、
他者からどう見られるかに対しての意識は低め設定となる。
この間、子育て本を担当してくださっている編集者の方たちと
お話をしていたときに、
子どもたちの通うこっちの学校では、
「表現がすべて」と言ってもいいぐらい
「表現すること」がいいことだとされているように感じる、
という話をしました。
「言わぬが花」の文化に生まれながら、
アサーション・トレーニングも知る身としては、
ここらへんの「表現」ということに対して興味津々。
表現しなければ考えていないのと同じ、とか
表現するべきだ、とかは
全然、思っていないのですが、
必要なときに表現できるようになっていることは
役立つのではないか、という感じのスタンスです。
では、この「必要なとき」がいつなのか、
どこらへんから「表現したくなる」のかとか。
そこらへんも、興味深いです。
矢野顕子さんのツイッタ-から見つけたyoutubeです。
Busted Kid Apologizes To Plane For Cutting In Line
こういうことが意地悪な罰としてではなくて、
チャンスとしてさせてもらえる感じが面白く、
みんなも笑いながら聞いてくれる雰囲気なのが
「表現の国」な感じがします。
(もし、日本のネットで同じようなことをしたら、
どうなっちゃうだろうと心配にもなりますが)
メルマガを1月いっぱいで終了することにしたら、
なんとなく、このブログに戻ってきました。
フェイスブックやツイッタ-も面白いのですが、
久しぶりにここで書いてみると、
まとまったことを考えたり、書いたりするのに
ブログというスペースは自由度が高いような気がします。
読む人のイメージがリアルではないので、
自分の内側に潜り込みやすいのかもしれないですね。
もう一人の自分との対話のような、
自己の客観視的な。
日記よりも他者を意識した表現になりつつ、
他者からどう見られるかに対しての意識は低め設定となる。
この間、子育て本を担当してくださっている編集者の方たちと
お話をしていたときに、
子どもたちの通うこっちの学校では、
「表現がすべて」と言ってもいいぐらい
「表現すること」がいいことだとされているように感じる、
という話をしました。
「言わぬが花」の文化に生まれながら、
アサーション・トレーニングも知る身としては、
ここらへんの「表現」ということに対して興味津々。
表現しなければ考えていないのと同じ、とか
表現するべきだ、とかは
全然、思っていないのですが、
必要なときに表現できるようになっていることは
役立つのではないか、という感じのスタンスです。
では、この「必要なとき」がいつなのか、
どこらへんから「表現したくなる」のかとか。
そこらへんも、興味深いです。
矢野顕子さんのツイッタ-から見つけたyoutubeです。
Busted Kid Apologizes To Plane For Cutting In Line
こういうことが意地悪な罰としてではなくて、
チャンスとしてさせてもらえる感じが面白く、
みんなも笑いながら聞いてくれる雰囲気なのが
「表現の国」な感じがします。
(もし、日本のネットで同じようなことをしたら、
どうなっちゃうだろうと心配にもなりますが)