鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

連載中の「ぷらっとウオーク」などをまとめました。

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅺ)、住まい

2017-06-28 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

土佐の高知にありがとう(Ⅺ)、住まい      

                                                                                 No.181,高知ファンクラブ、6(2017)

今月は我が家の住まいの歴史を述べる。新婚生活、子育ての始まりはトイレが隣室と共同の六畳一間からである。千葉県松戸の住宅公団の賃貸(2LDK)に入居、横浜市の分譲(3LDK)に転居し、住居を、世田谷、松戸、横浜と変えてきた。そして高知に移住して、一戸建て住宅を持つことができた。

たまプラーザの分譲団地          (記:2001/5/30)

東急の田園都市線が開通し、新興住宅地の建設が始まりました。この「たまプラーザ団地」は魅力的でした。大岡山までの通勤がとても楽になります。九段下の日本住宅公団に、申込、抽選、契約など何度も通いました。公団の賃貸住宅の入居者は分譲住宅の当選率が10倍高くなる制度がありました。締切り時間の直前まで待ち、駅から遠く、人気のない街区に申し込みました。私の年収から見て、手が出せるのは小さい2LDKです。通勤には千葉県松戸から2時間も掛かっていました。是非とも入居したかったのです。

入居した昭和47年(1972)当時は、手前の鷺沼駅で2両を切り離し、残り2両で、たまプラーザ駅にやって来る状態でした。我が家では2人の子供達が幼稚園に通う時代でした。

戸建ての高知の住まい    (記:2001/6/21) 

 この時ほどファックスを有効に使ったことはありません。一ヶ月ほどの間に、熱転写ロール2本を使い切りました。ファックスが大いに活躍したのです。新聞に良さそうな物件を見つけると、不動産屋に敷地と間取りの図面を送ってもらいます。この使い方にちえ子は味を占めたようです。

 当時、私達は大学の教員宿舎になっている高知市内、知寄町のマンションの11階に住んでいました。五台山や筆山、それに浦戸湾が見渡せます。大阪からの、東京からのフェリーの出入港がよく見えます。汽笛を鳴らすので確実に見ることができます。しかし、国道に面し、路面電車の折り返し点も近くです。夜遅くまで騒音の激しい場所です。横浜の郊外に残してきた我が家の方が遥かに自然豊かです。そして駅まで歩いて5分、渋谷まで急行で30分、その駅の近くには2つの大手デパートと生協があります。

 「ここでは高知に住んだ意味がない。横浜に帰ります」とちえ子は言うようになりました。昼間はほとんど家に居ない私も、同じように感じていました。さっそく家探しが始まったのです。ファックスで取り寄せた物件の中から選んで、休日ごとに、一戸建ちの中古住宅や新築の建売住宅を見て回りました。東は野市町、西は春野町まで。大部分は宅地開発で造成した土地ですが、その規模は東京に比べれば知れたものです。これらも私達が求めている高知ではないと思いました。

 諦めかけていた時に、土佐山田にこの家を見付けたのです。法面も入れて敷地面積は100坪以上あります。南側の川向う、田んぼを隔てて茶畑の斜面が見えます。風が強いという山田ですが、北に山を背負っているこの家は無風状態です。両隣を始めご近所の皆さんは土地の方々です。旧道との合流点でもある我が家の前は道幅が広くなっています。すっかり気に入りました。

 「お金、いま幾ら持っている。決めようよ」とちえ子が聞いてきます。探し求めていたそのものです。歩いて15分程で土佐山田駅に、その途中にスーパーマーケットが開店したばかりです。すれ違いが難しそうな狭い近くの道路では、2ヶ所で拡幅工事が行われていました。私達が住むための準備が着々と進んでいるように思えました。「この家は衝動買いをしたのですよ。面白いでしょ」とちえ子はそんな話し方をしていました。でも、その時までに私達の不動産物件を見る目は十分に肥えていたのです。

 余談ですが、30坪にも満たない狭い敷地でも、必ず「駐車2台可」とあります。夫婦共稼ぎが普通の高知の、公共交通機関の便の良くない地方の宿命を示していると感じました。 

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )

 


鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅹ)博士号

2017-06-08 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

土佐の高知にありがとう(Ⅹ)博士号      

                              No.180、高知ファンクラブ、5(2017)

 ちえ子と結婚してから(1962)、3年間の作行会給付金(1966~1969)、工学博士の学位取得(1969)、助教授に昇進(1969)、米国のスタンフォード大学への留学(1974~1975)と順調に歩みだしていた。

工学博士と助教授          (記:2001/7/1)

  婚約の時、ちえ子さんのご両親には「大学の助手の身分は不安定です。助教授になれるとは思わないで下さい」と申し上げました。ドイツ語会話のクラスの日以外は、ほとんど定時に帰宅していました。躍り上がるような研究テーマに出会っていませんでした。週末にはザックを担いで山へ出かけました。後日、私が助教授に昇任した時、ちえ子が言ったことは「難しい本は何時も読んでいたし、ドイツ語は一生懸命やっていた。でも、貴方が助教授になるとは思っても見なかった」でした。

 講座の教授が田中実先生に代わりました。面白いテーマに遭遇しました。実験で遅くなる日が多くなりました。徹夜も当たり前になってきました。やる気が出てきました。山に行く回数が次第に減ってきました。昼休みもテニスコートへ出なくなります。

 丁度、大学紛争の兆しが出た頃です。研究は大きく進展しました。学位が取れそうになりました。論文のまとめの段階では、ちえ子に筆耕を頼みました。学位論文の半分以上は彼女の筆跡です。「マルテンサイト変態」、「時効硬化性」、「平衡状態図」など、ちえ子は専門用語を覚えてしまいました。リコピーという複写機が出た頃です。手元に残した論文のコピーは読めない位に色あせています。

 学位記を学長から頂く日、学生が正門にバリケードを構築しました。学生から身分証明書の提示を求められます。教授・助教授は学内に入れて貰えません。「今日は御覧の状態です。後日、学位授与式を行う予定です。それまで待ちますか、それとも今にしますか」と担当の事務職員に聞かれます。「もちろん、今です」と答えます。儀式を型通りに行って、学長代理としての彼から学位記を頂きました。その後、彼には頭上がりません。「私が鈴木先生に学位を授与した」と誇りにして呉れました。

 学位を頂いた後、学外で開催された教授会で助教授への昇任が決まりました。機動隊を導入しての、座り込み学生の排除とバリケードの撤去に踏み切ったときは、若手教員としての体力を買われて先兵となりました。複雑な心境でした。

 そして、憧れのドイツではなく、アメリカへ留学するチャンスが与えられました。諸先輩のご指導を頂き、優秀な沢山の後輩に支えられ、歳を重ねて教授になりました。その時のちえ子の言ったことは「貴方が教授になるなど、思っても見なかった」でした。

日本金属学会ハワイ大会         (記:2001/12/29)

  2001・9・11に、世界貿易センタービルの崩れ去る映像をテレビで見たとき、二つのことが脳裏を過りました。一つは、何故あのような崩れ方をするのだろうか、という鉄鋼材料屋としての疑問、二つ目は、12月中旬にハワイで開催予定の「第4回先進材料環太平洋国際会議」は中止せざるを得ないとの予感でした.送られてきた中止決定の組織委員会の議事録はその苦悩の様子を伝えています。かってのハワイでの講演大会開催の苦労を思い出します。

 1996年12月中旬、日本金属学会が始めて海外で、ハワイで秋季講演大会を開催したことを思い出します。北海道大学での任期の最後の年でもあり、またこの年に日本金属学会会長に選出されていました。組織委員長として準備を進めてきた鈴木に全責任を持たせようと考えたのでしょう。ヒルトン・ハワイアン・ビレッジを会場として開かれたハワイ大会は、日本、中国、韓国、アメリカなど10数か国から800人を超える参加者を得て、大変有意義で楽しい大会になりました。何よりも大きな思い出は、ちえ子が会長主催の幾つものパーティーで見事にホステス役を務めてくれたことです。

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅸ)、白い犬

2017-06-08 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

土佐の高知にありがとう(Ⅸ)、白い犬    

                               No.179、高知ファンクラブ、4(2017)

  病床でちえ子は「貴方は一人では暮らして行けない人です。私に気兼ねなく、後添いを貰って下さいね」と言っていた。子供達にはすぐに納得できないことであろう。東工大で私の研究室に居た小林郁夫さんから「先生のテイストではないかも知れませんが。『白い犬とワルツを』を家内の理恵が薦めるので」とメールを頂いた。早速、本屋で買い求めて読み、子供達にも回したのである。

携帯電話の大活躍    (記:2002/8/17)

  息子と娘が高知に来ている間、電話は出来るだけ控えましょうとの心遣いと「理詰めでは片付かない問題を急いでは駄目ですよ」との注意を一枝さんから頂いています。午前中、勤め先の産振センターに携帯電話で遠慮がちに連絡がありました。この電話で息子達に会って頂くチャンスが作れるのではないかと思いました。子供達が高知に来る前の心積もりは別々に会う機会を作ることでした。息子と娘と一緒に会って貰うことは、面接試験のようであり、大変に失礼であると考えていました。しかし、携帯の向こう側では「よっしや、まかしとき。大丈夫」と一枝さんの心強い返事です。

 息子と、娘と携帯電話で打ち合わせを繰り返しました。結局、最寄りのスーパーの駐車場で待ち合わせと決まりました。そしてその向かいにある一枝さんの喫茶店で、落ち合うことになりました。夕方、閉店した後です。樹ちゃんと崚斗ちゃんの2人の孫の面倒は、嫁の敦子さんが車の中で見てくれています。

 4人でテーブルを囲んでの話の中で、終始、黙っているのは辛いことでした。でも、高知、に来た子供達が、一枝さんに会ってくれたことは、私にとって、私達にとって大きな前進です。夏休みが終わり、皆が帰ってしまった後も元気になれそうに感じています。皆さん、ありがとう。

「白い犬とワルツを」    (記:2002/9/8)

突然、妻を失った主人公サムの身の回りに、白い犬が現れるようになります。初めの頃は、庭から、戸口から眺めています。最初は野良犬と思って相手にしません。近所の犬が吠えることもありません。次第にサムの与える餌を食べるようになります。そしてタイトルのようにワルツを踊るようになります。普段はベッドの下で静かにしています。誰かが来るといつの間にか居なくなります。子供達や他の人達には姿の見え難い犬です。初めのうちは、誰もが、気が狂ったのではないかと心配します。

近くに住む娘たちやその家族と、そしてこの犬に支えられて、歩行補助具を必要としながらも自立の生活が始まります。癌と戦いながらの話が展開しつつ、いろいろなことが起こります。やがて死を迎えます。死の前日に「白い犬さ。あれはお前たちのママが戻って来てくれたんだ、俺を見守るために」と子供たちに話します。

解説には「愛の姿を美しく爽やかに描いて、痛いほどの感動を与える大人の童話。貴方は白い犬が見えますか?」とあります。それは間違いないのですが、私の感じとは異なります。居てくれたらどれだけ心強いだろうと思いますが、残念ながら私には白い犬は見えないのです。「今日、妻が死んだ。結婚生活57年。幸せだった」と日記に付けたこの時、サムは81歳、妻のコウラは75歳でした。彼の歳になっていれば、そのような心境になれるのかなとも考えます。

・・・・・

そうではなく、ちえ子は「もう十分です。一人でせいせいしています」と言っているかもしれないと思う。娘の葉子は「パパ、そんなことないよ。ママの言っていることが聞こえるでしょう。遠くから見ているよ。パパには絶対聞こえているよ」と携帯電話の向こうから聞こえてきた。  註:「白い犬とワルツを」、デリー・ケイ著、兼武進訳、新潮文庫(1990)

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅷ)、道草

2017-06-08 | 「ぷらっとウオーク」 2017年~

土佐の高知にありがとう(Ⅷ)、道草      

                                  No.178、高知ファンクラブ、3(2017)

   再婚を理解して貰うための、高知での家族会議の時の様々な思いのメモである。

漱石の「道草」     (記:2002/8/12)

   夏休みに娘の葉子と孫の樹ちゃんがやって来ました。会話が途切れがちです。私がお見合いをしたことがお互いの口数を少なくしています。この際、会って欲しいと思っていますが、具体的な予定の相談はできません。前もっての電話でも、葉子の気持ちは二転三転していました。複雑な思いであることは想像できます。裏切りと映るのでしょうか。売り言葉に、買い言葉の状態ではありませんが、必要なことしか言わない、聞かない、の状態に近いのです。もう少し親しみを込めてくれれば、一言相談してくれればと、お互いに思っているようです。

  夏目漱石の小説「道草」を思い出しました。確かめたくなり、段ボール箱を開けて探しました。何度かの引っ越しでも開けることのなかった「文庫本」と書いてある段ボール箱です。この中にありました。くしゃみが出そうな古本の匂いです。

 思い出せなかったのですが、主人公の夫婦の名前が健三とお住であることが判りました。優しい一言をその時に添えてくれれば、こちらもそれなりに嬉しい顔ができたのにと、お互いに思っている夫婦なのです。お前が、貴方がそのような態度ならば、敢えて口を利く必要もないと思ってしまうのです。だんだんと必要最小限の会話だけの夫婦になります。このように相手の所為にしてしまうのは普通にあることです。この小説の主人公健三と漱石自身が重なり合っているとの解説が付いています。

  これだけはお互いに止めようねと、ちえ子と話し合った記憶があります。この小説では「二人はお互いに徹底するまで話し合うことはできない男女のような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった」とある。私たちの場合、徹底するまでの話し合いは出きませんでしたが、「改める必要」はお互いに感じていましたし、改める努力もしていました。もちろん、ちえ子の証言も必要ですが、何と言うでしょうか。

   親子でそのような状態にならなくてもと反省しますが、親子だから遠慮がないと云うこともあるでしょう。将来のことは、今は触れないようにしています。時間が解決すると思っています。明日13日に息子の夏志夫妻が崚斗くんを連れて高知にやって来ます。

樹ちゃん(たっちやん)       (記:2002/8/16)

   息子や娘と込み入った話をしようと思っても、樹ちゃんは寝てくれません。話を持ち出せる雰囲気にはなりません。お互いに言い出せないでいる、避けたいと思っていることもあります。明日17日は夏志達の帰る日です。この機会に何も話し合わないことは、却って不自然であると少し焦っていました。

 朝食の後、10分で手短に話すから聞いて欲しいと話し始めました。お母さんを失った子供達と妻を亡くした私との痛手の違いの言い合いになります。葉子は涙を浮かべながら話します。夏志も意見を述べます。お母さんを忘れたいと思っている筈がないこと、そしてそれを相手の人にも伝えてあることを説明します。黙って聞いているのは嫁の敦子さんと孫の樹ちゃんです。崚斗ちゃんはお父さんの膝の上でうちわを舐めています。話が途切れた時、樹ちゃんが「みんな自分のことを言っている」と言ったのです。鋭い観察力と要を得た表現力に吃驚しました。「けんかは終わったの?」で家族会議は穏やかに進みました、樹ちゃん、有難う。            註)樹ちゃんはこの時4歳です。

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )