鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

連載中の「ぷらっとウオーク」などをまとめました。

典獄 鈴木英三郎 と 典獄補 鈴木道子

2013-10-21 | 「ぷらっとウオーク」 2012年~2015年

「刑政」、第124巻、第10号、74~85頁、平成25年10月、(公財)矯正協会 発行、

典獄 鈴木英三郎 と 典獄補 鈴木道子   
                        

                                                                                         鈴木朝夫(すずき ともお)
                                                                             東京工業大学名誉教授・高知工科大学名誉教授

はじめに)

 戦前・戦後の大変な時代を仕事一筋に生きた父の、父に仕え6人の子供を育てた母の思い出をエピソードで綴りたい。父に相応しい職名は刑務所長よりも典獄である。そして私はここで母を典獄補に任命したい。このチャンスを与えて下さった「刑政」に感謝する。

1)典獄補 鈴木道子

 物ごころ付いた時から住む場所は刑務所の正門近くの所長官舎である。網走で小学校に入学、福岡での卒業までに転校は7回になる。福岡で中学校に入学、札幌、葛飾(東京)、そして府中(東京)と転校した。その都度、方言に悩まされた。小さな刑務所から次第に大きな刑務所への栄転である。転勤の際は正門前で職員総出の見送りである。父に母が従い、それに子供達が続くのが常だった。駅のプラットフォームでの大勢の職員による万歳もあった。母の口癖は「お父さんは満足かも知れないけど、いやだね。ばかばかしい。」であった。引越センターを創業できるくらいの引越ノウハウを家族全員が共有していた。

 母は内助の功の典型である。学校から帰って、机の上に置いてある菓子折を開けてしまった。「返さなきゃならないのに、なんて言うことをしたの」と母にひどく叱られたことを思い出す。ある時、収賄の疑いで検察に呼ばれたことがある。出かける父に母がメモ帳を手渡した。菓子折などの贈答品の受け渡しの記録は検察が把握していたもの以外にもあり、加えて「直ぐ返却」、「別途のお返し」、「受け取り」などと対応が几帳面に記入されていた。質問もなく、直ぐに帰されたそうである。「『お陰で助かったよ』と感謝の言葉はあったの」と母に聞いた。「そんなこと言う人ではありません。」が答である。

  結婚したのは母が18才の時だった。見合いの席では父の顔を録に見なかったようである。母方の祖父は判事で、尾道が最後の任地である。祖母は金澤の出身で気位が高く、「世間様が何というか。」と外向きばかりを気にしていた。その束縛から逃げ出したい一心で、誰でも良いから嫁に行くことにしたと母は良く話していた。

 その父は酒が好きで呑めばご機嫌になった。家族は、長男、4人の娘、次男の6人であるが、家庭は母に任せっきり、家族を顧みることは殆どなかった。所長官舎には公的部分の客間が必ず付いていた。二次会・三次会に客を連れてくることが常だった。客と言うよりは部下が多かった。どんなに夜遅くても、母はいやな顔一つせずに接待していた。冷蔵庫もない時代に、突然の来客にも対応できる準備が出来ていた。寝ている長女を起こして日本舞踊を踊らせる、私が竹針で大事に聴いていたSPレコードを掛けさせられるなど、子供達も被害を受けていた。大学進学に際して、父は法学部を薦めたが、酒が飲めなければ勤まらないと思っていた。

 父方の祖父に会ったのは1回だけで、数ヶ月間、網走の家に滞在した。学校の帰りに網走川の土手を魚籠(びく)と釣り竿を持った祖父とよく出会ったものである。「釣り」、「飲む」の祖父であった。父の最後の親孝行だったのである。母方の祖母に会ったのは小田原のときである。半年程度の同居生活だった。母の親孝行だったのである。長い廊下の雑巾がけをさせられていると「長男に何でそんなことをさせるの」と母を叱っている声が聞える。この時だけは「おばあちゃん、もっと言って下さい」と心で願っていた。

 

2)父の叙勲、恩師の叙勲、そして(1) 

 父 鈴木英三郎(1903,8,8~1986,5,15)は1973年の秋に勲三等旭日中綬章の叙勲を受けた。刑務官一筋を全うしたが、彼の人生は、暴動、脱走、虐待、戦犯、汚職などのキーワードが並ぶ波乱に満ちたものである。{破獄}(No.202、7(2004))にその一端を記した。

 勲二等以上の伝達式は宮中に於いて行われるが、勲三等からの伝達式はそれぞれの省庁で行われる。恒例に従って、父は母を伴って伝達式に出席した。帰宅した母に感想を聞いた。「最前列に座っている人たちは、うちのお父さんも含めて偉そうな顔をしている。『何故、おれが勲三等なのだ』と云わんばかりの不満気な顔さえしている。」、「それに比べると、後ろの方に座っている勲五等、勲六等の人たちを見て感動した。長年連れ添った老妻と涙で抱き合っている。『有り難う、お前のお陰だよ』の連発なの。叙勲はこのような人にこそ大きな意味があると思うの。お父さんを叙勲する必要などないわよ」とのこと。官僚として定年を迎えて、当然のこととしての勲章ではなく、地道に地域に生きて、人々のために尽くしたことが認められる勲章こそ、意味深いと母は思ったのである。

  恩師 梅川荘吉先生(1924,1,10~  )は2001年の秋に勲三等瑞宝章の叙勲を受けた。それまでに、大先輩の祝賀会に先生と共に出席する時、彼の口癖は「たかが勲章で、あの嬉しそうな顔。鈴木。おれは勲章など欲しくもない。おれの心配はしなくても良いからな」である。そして、最長老の乾杯の音頭では、「スピーチが10分を越えそうだな。老害の最たるもの。素晴らしい先輩と思っていたが、見込み違いだったな。耄碌(もうろく)の極みだ」と囁くのである。梅川先生から多くのことを学んだ。軽妙洒脱な語り口もその一つである。(2)

 航空工学に先生は憧れていたが、東京工業大学に入学した時には、戦争に負けて、その領域の教育・研究は禁止されていた。そして彼は金属工学科に進んだ。しかし、夢を捨てることはなかった。これからの航空機材料となる軽量複合材料の研究を行ったのである。最終的には宇宙開発に関わり、無重力下での材料実験へと進んだ。助教授として、私の研究対象は、本来の金属間化合物の研究に加えて、当然複合材料の分野へも拡がった。退官された先生の後を継いで、毛利衛さん搭乗の日本初の宇宙材料実験を行う栄誉を担うことができた。先生のお陰である。

 彼はビーチクラフト・ボナンザを所有している。尾翼がV字型である。髪結いの亭主はいいですねと言いながら、何度も乗せて貰った。「鈴木。タッチ・アンド・ゴーに大島まで行こうよ」と、駐機場になっている調布飛行場へ向かうことが多かった。
  先生が70歳を過ぎたころ「鈴木。おれの叙勲はどうなっている」、「先輩は要らないと言ってましたよ。」、「本気にするやつが何処にいる。おれは欲しいのだ」と怒鳴られてしまった。間もなく90歳になろうとする今でも、パイロットの免許を持ち続けている。裸眼視力を自慢する度に「先輩は勉強をしなかったからですよ」と冷やかしている。

  春の叙勲は3月11日の東日本大震災で大きく遅れた。地震と津波、そして原発事故のテレビ映像から思い起こすのは、一面焼け野原の横浜の市街地である。父の福岡から札幌への転勤途上で横浜大空襲に遭遇した。中学1年生の時である。今、瑞宝中綬章を前に「よいことは おかげさま」と振り返り、「生かされてある」の思いを深くしている。


                               
3)英三郎が部下だったら、上司だったら

 父は立身出世の見本のような男である。男7人、女7人の14人兄弟の三男坊として宮城県中新田町の海産物商の家に生まれた。加美農蚕学校を出て鉄道省に採用され、専検合格で上京、明治大学専門部に入学、法学部へ進学。在学中に高等文官試験(司法・行政)に合格、大学中退、司法省に採用され、横浜刑務所で通訳兼看守長(2人のロシヤ人担当)に、次いで豊多摩刑務所典獄補となった。これが典獄の始まりである。

 父はがむしゃらの丸暗記の勉強をした。父が使っていたドイツ語の文法書には、例文の全てを丸暗記した形跡が残っていた。英単語の辞典は覚えたページを食べたようである。

 父は負けず嫌いである。将棋を教えてくれたのは父。飛車角落ちから、互角になり、父の負けが重なるようになると、将棋をやろうとは言わなくなった。私が軟式テニスを始めたのは父のお陰である。役所の職員コートでプロ級の部下に教えて貰った。父は自分が勝てないと機嫌が悪くなっていた。強い部下とペアを組むことが多かった。

 父は強気の男である。70才を過ぎた頃、同僚やライバルだった方々の訃報に接し、「寂しくなりましたね。」と慰めると、「そんなことありません。朝夫くん。私はあの人に勝ったのです」と答えが返ってくるのである。

 酔うと自慢話が繰り返された。その一つが小田原少年刑務所長時代の話である。同所は遠洋漁業の漁船を運用していた。北氷洋上で船の主要部分が受刑者達により占拠され、通信室に船長以下の刑務職員が監禁される事件が発生した。彼らの要求を呑むことなく、その都度の指令を出しながら、収束させたと自画自賛していた。

  一億総動員の戦時体制の中で。受刑者の徴用による三菱重工若松造船所での戦時標準船の建造が始まった。山口刑務所長の時である。1000トン級の船の船首、中央、船尾の部分を波打ち際で接合し、完成した船体を次々に横に進水させる合理的な流れ生産方式であった。これを見たことが私の工学への憧れになったのかも知れない。この時の北九州への旅で体験したものは、工場地帯側の遮蔽された列車の窓であり、グラマン戦闘機による機銃掃射であった。戦争の最中の父の仕事の困難さを短時間に体験した思いであった。

  戦争の最中、長距離の大家族での転勤。福岡から札幌への転勤は事務引継のために東京経由が必須であった。横浜刑務所に1泊したその夜に横浜大空襲に遭遇した。焼夷弾の束が不気味な摩擦音と共に落下してくる様子を丘の上から眺めていた。翌日、トラックで焼け野原の横浜を通過し上野駅へ向かった。列車故障で一日の遅延。食料は底を付き、人のおにぎりが記憶に残っている。青森刑務所でさらに一泊。灯火管制の青函連絡船はすし詰め状態である。子供を良いことに甲板に出て見ると、日本海軍の護衛艦が随伴していた。

 権威主義が許せなかった父である。権力構造や既得権益が好きでなかった。最近、刑事ドラマのシリーズ物が気になり出した。主人公が、一見弱そうな女に(3)、男ならば窓際族に(4)設定されているドラマが多いからである。大学卒ではない父はドラマ性の高い経歴の持ち主だったと言っても良いだろう。難問題が発生すると彼にお鉢が廻ってくることが多かったようである。何時も辞表を胸に、ことに当たっていたと聞かされた。

 父の大好きなテレビ番組は「水戸黄門」である。「格さん、もう宜しいでしょう」、「これが目に入らぬか」が決まった時間で必ず出てくる。にこりともせずに、結論が分かっているのに何が面白いのだろうと思っていた。硬直化した官僚組織や強力な闇の悪に立ち向かう主人公は、常識的な弱さを持つほど話が盛り上がる。「水戸黄門」も同じであろう。

 

4)破獄 (孫の葉子の感想)(5)

 正月の二日には子供達を連れて我孫子の実家に行くことが恒例になっていた。居間から50年ほど前である。同じこの日に必ず来る人が居た。小説の中の呼び名で言えば脱獄囚の佐久間である。一年に一度、世話になった父に近況報告に来るのである。戦前・戦後の混乱期に4回の脱獄を繰り返した後、当時、父が所長をしていた府中刑務所に移送されて来た。ここで更生し、仮釈放で出所したのである。酒も煙草もやらず、とつとつと話をする人である。しかし、精悍な面構えである。

 脱獄した山の中、北海道の冬をどのように過ごしたかは、登山をする私にとって興味の尽きない話である。あまりに面白いので、録音をさせて貰った。まだテープがオープンリールの時代である。私が質問して、彼が答える形であるが、父も質問に加わっている。録音は3年ほど続いた。ドキュメンタリー作家の吉村昭氏がこのテープの存在を知った。佐久間やその係累が生きている間は、世に出せないと父は断り続けていた。その後、このテープを基に小説「破獄」が書かれたのである。

 法務大臣からの移送の命令を受けた夜の記述は史実と異なっている。小説には「彼はその夜、まんじりともしなかった」とある。母に言わせれば、酒を飲んで大いびきで寝ていたそうである。これは小説に馴染まない。

 娘の葉子が中学生になった頃、「少し難しいかも知れないが、我孫子のおじいちゃんはこんな人だから」と読むことを薦めた。

 床板を切って床下から、鉄格子を押し広げて窓から、天窓を打ち破って屋根から、入り口の扉を破って廊下へ。脱出方向は4回がそれぞれ異なっている。日常的に体力トレーニングを欠かさず、看守の心理操作を巧みに行い、裏をかく達人であった。府中刑務所へ送られて来たときは、後ろ手に手錠、足枷を掛けられ、これらの鍵穴は鋳潰されていた。人間性を無視した屈辱的な状態である。手が使えないので、犬食いしかできない状態だった。父は手錠・足枷を切断させた。北風のピューピューから、太陽のポカポカに変えたのである。詳しいことは新潮文庫の「破獄」を読んで欲しい。

  娘の感想は予想外のものであった。「おじいちゃんほど残酷な人は居ない。佐久間の生き甲斐を奪ってしまっている」であった。今も、葉子の生き方はユニークである。


                 
5)名作の旅、鬼平犯科帳、羅生門、破獄(6)

  暴力対策室の刑事さんに「委員長は池波正太郎の『鬼平犯科帳』を読んだことありますか」と聞かれた。この頃、高知県警で捜査費の使い方が大問題となり、報告を受けるだけといっても良いほどの県公安委員会が、大忙しになっていた。鬼平犯科帳の文庫本を次々と借りてきた。組織の中で取り込んだ「狗(いぬ)」や秘かに送り込んだ「密偵」を使って、内偵を進めることは鬼平の必須条件である。刑事さんは、私に使途を明らかに出来ない捜査費も時には必要であることを伝えたかったのである。

  取材に来た若い新聞記者から「県監査委員会が出した監査報告に従って、何故、県警は弁済を始めないのか。あれには真実が記載されている」と質問を受けた。私は「個人を特定しない条件での面接調査にそれなりの意義は認めるが、弁済となれば警察官各人の納得が必要である。それがなければ今後の士気にも影響する。県警による自前の調査が必要である」と答えた。さらに「物事に一方的な判断は禁物である。真実や真相とは何か。真実は本当に存在するのか。芥川龍之介の「藪の中」を読んでから、「羅生門」を見てからでなければ、今後は君と会わないよ」と言ったことを覚えている。

  先日、企画プロダクションから、吉村昭の「破獄」を採り上げたいので取材協力を頂きたいとの依頼があった。そして、BSフジで放映された「名作を旅してみれば~鬼平犯科帳」の情報が添えられていた。文学の名作を取りあげるこのシリーズは「旅人が小説の主人公の目で風景を眺め、作家の目線で何かを感じ、何かを発見する、ちょっと不思議な旅番組である」と謳っている。吉村昭の「破獄」は脱獄を繰り返したSさんの実話が元であり、仮釈放にいたる過程で父の鈴木英三郎が大きくが関わっていた。

 正月の2日に子供を連れて実家へ行くのが常だった。今から50年ほど前である。Sさんも1年間の無事を伝えに毎年来ていた。時間を掛けた巧みな心理操作、北海道での2年間の逃亡中の越冬生活などを、炬燵に当たりながら質問を重ね、録音をさせて頂いた。なお、本誌の{破獄}(No.202、7(2004))には、「破獄」を読んだ娘の視点を記してある。

  対談をして下さる赤川蓮さんとの本番前の雑談の中で、「鬼平」に続く企画は芥川龍之介の「羅生門」と知り、関連の深さに驚いた。これは芥川がどのような意図で創作したか議論が多い作品である。各人の主観的な言い分だけで構成し、真の真相を読者に託したとも考えられる。一方で、多様な読みがあり、真相は藪の中であることを示したとも言える。

  三つの名作、「羅生門」、「鬼平犯科帳」そして「破獄」が、同じ企画の中で順次採り上げられ、我が家の居間で話題になったことに不思議な因縁を感じる。これらに共通する点はその時代背景である。長引く応仁の乱、飢饉や天変地異が続く平安時代末期が「羅生門」である。田沼意次が失脚し、松平定信による寛政の改革が始まり、長谷川平蔵が火付盗賊改の長官となったときが「鬼平犯科帳」である。浅間山大噴火、大飢饉、打ち壊しが頻発し、世情が不穏になっていた。

 「破獄」は、脱獄を4回も繰り返すSさんの衰えることを知らない闘争心もさることながら、戦時統制の時代、そして戦後の疲弊した混乱の時代の産物かも知れない。父はSさんの係累が全て亡くなられたことを確かめた時点で吉村氏にテープをお貸ししている。この中で「破獄」だけは、ノンフィクションであり、吉村昭によるドキュメンタリーである。なお、4月24日(水)にBSフジで放映された。


 
6)巣鴨プリズン特別警備本部長

 8月15日の玉音放送で敗戦を知ったとき、札幌刑務所の1000名を超える受刑者と500名近い刑務官・職員、そして家族達を安全に守る方策を父は考えた。北海道の占領がソ連軍か米軍かで全く異なる可能性を想定しつつ、原野開拓による牧畜業・農林業での独自の集団生活を視野に入れた長期的計画である。サロベツ原野の調査も行っていたようである。

 敗戦直後に、捕虜虐待の容疑でGHQに連行されたことがある。「碌な食事も与えられず、木の根を食わされた。」との米軍捕虜の訴えが元であった。木の根とは「ごぼう」である。父は直ぐに自分のズボンをまくり上げ、痩せ細った脛を見せながら、戦時下の食糧難を理解させたとのことである。酔っ払うと直ぐに出てくる自慢話である。

 巣鴨プリズンの特別警備本部長(所長)に任命され、400人近い日本人刑務官とともに赴いた。朝鮮動乱の中、GHQ占領軍は戦犯収容所の巣鴨プリズンの兵員削減のために、日本人刑務官の活用を思い付いたのである。そして白羽の矢が鈴木英三郎に立ったのである。巣鴨プリズンでの仕事は、戦犯とされてしまった日本人在所者とアメリカ占領軍との板挟みである。パレードの閲兵で問題が発生した。日本人が壇上でアメリカ将兵の答礼を受けるのはおかしいとの米軍将校達の抗議である。父はデービス司令官に、それならば貴方の日本人刑務官への答礼も出来ないことになると反論した。その様子は吉村昭の「プリズンの満月」(新潮社、平成7年6月)に描かれている。

 アメリカでは各種イベントに夫人の同伴が常識である。典獄補鈴木道子は次女の慶子を代理にした。デービス家と親密な関係を構築できたのは慶子の功績と言っても良い。

 父は心のゆとりが受刑者や在所者には必要と常々考えていた。巣鴨プリズンで始めた石井漠舞踊団の慰問は府中刑務所にも移され、さらに落語や浪曲、そして歌謡曲へと広げられていった。ペギー葉山を聴いたのはこの頃である。

  大阪矯正管区長に栄転した。私が東工大金属工学科の3年生のときである。関西方面への工場見学旅行があった。引率教官は鉄鋼材料の大御所である。皆さんを我が家の夕食にお招きした。大先生と父との話題豊富な会話は驚きであった。内容は農林漁業・鉱工業から、販売・経営にまで広がり、知識と経験の豊富さを示していた。刑務所は、職業訓練の場であり、中小企業の集合体であり、社会構造の模型であることに気付かされた。

  アメリカへの4ヶ月間の視察旅行はGHQからのプレゼントだったのかも知れない。米国の貨物船に乗っての渡米だった。お土産にLPプレーヤーとクラシックのレコード数枚を買って来てくれた。音楽の趣味を全く持たない父が探し出して呉れたことに感激した。

  東京矯正管区長を最後に定年まで1年を残して勧奨退職し、水戸の公証人になった。居を構えたのは我孫子である。始めて自分の家を持った父は、我孫子から水戸への電車通勤を始めた。所長官舎から正門までの徒歩通勤、外出は公用車が常だった父にとって、見るもの聞くこと全てが始めてだった。電車の自動開閉ドアーに吃驚していた。

  公証人を13年後に退職、弁護士の登録をした。悠々自適の弁護士生活であったように思う。2人の嫁と4人の娘の看護を交代で受けながら、数ヶ月の闘病生活の後、1986年5月15日に永眠した。83才の大往生であった。

 

7)南国土佐にやって来て(7)

 20年程前に縁もゆかりもなかった土佐の高知に深く関わるようになった。東京工業大学を定年退職して、北海道大学に赴任した直後のことである。新千歳-羽田-高知と乗り継いで往復することが多くなった。工科系大学計画策定委員会委員になったのである。そして、高知工科大学に本格的に関わることが濃厚になった時点(1993年)で、見ておかなければの思いで、第2回を迎えるYOSAKOIソーラン祭りを見に行った。その迫力に圧倒された。仕掛け人の長谷川岳さんにもお会いし、その思いを伺う機会も持てた。

 翌年には本場の土佐の高知のよさこい鳴子踊りを見ることができた。委員会の開催日程をよさこいの祭りに合わせてくれたのである。開学したらすぐに工科大連を作ろうと決心した。開学の1年前には、高知から橋本大二郎知事を団長とする使節団がアメリカに向かった。同行した私の役割はMIT(マサチュセッツ工科大学)との姉妹校提携の予備交渉だった。よさこい踊り子隊の指導に付いてきた荒谷深雪さんに教わり、ボストンのマーケット広場で踊ることになった。よさこい踊りを踊りながら、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」との関係が分からなくなっていた。

  ペギー葉山さんの生演奏を聴いたのは、高校3年生か、大学1年生(1950年か1951年)の時と思っている。そのとき「南国土佐を後にして」が曲目にあったかどうかは定かではない。ご経歴を検索してみると1952年にキングレコードからデビューとある。それ以前は米軍キャンプ回りをしていたとのことで、その時代にも歌っていたのだろうか。私が生演奏を聴いたのは府中刑務所の講堂であった。戦後の混乱が収まり始めた頃であり、コカコーラ、リグレイのチュウインガム、ハーシーのチョコレートに憧れていた時代でもある。父は府中刑務所長であった。規律を保ちながらも、収容者には心のゆとりが必要との考えから、娯楽・観劇やスポーツを取り入れる先駆的な活動をしていた。その手始めがペギー葉山の公演だったように思う。大勢の受刑者が規則正しく整然と床に座っている。その最後尾に、隠れるように座った。

  共学の経験もない男の子にとっては、憧れの人であり、初恋の人と言っても良い位である。その後、ご活躍の様子をテレビで拝見し、「ペギー葉山」とアナウンスが聞こえるたびにあの講堂を思い起こしていた。しかし、四国に行ったこともない私には、「よさこい節」も「南国土佐」も「ペギー葉山」と同様に遠い存在であった。

  それから時が経ち、松尾徹人氏(前 高知市長)の後を受けて、昨年の暮れに高知県高坂学園生涯老人大学の学長に就任することになった。昨年発行された設立30周年記念誌「30年の歩み」によれば、記念式典にペギー葉山さんをお迎えしている。先日の老大役員会の際に「南国土佐の歌碑を建てる会」に学内募金で集まった基金の送呈式を行った。そして、歌碑モニュメントの除幕式の招待を受けた。2012年11月3日(土)にペギー葉山さんをお迎えしての式典に出席できた。あれから60年、この機会が持てたことは夢のようであり、大感激である。

 第1回のよさこい祭りは1954年(昭和29年)である。本歌は「よさこい節」であり、多くの替え歌があり、「よさこい鳴子踊り」や「南国土佐を後にして」に歌い継がれていったようである。そして名誉県民としての「ペギー葉山」が盛り上げて呉れた。日本各地に拡がった「よさこい踊り」は数知れない。今年はペギー葉山さんの歌手生活60年の記念すべき年である。デビュー当時のお若い葉山さんを知っていることが私の自慢の種である。


  
おわりに)

 北海道から九州まで住んだが、四国に居を構えたことはなかった。高知工科大学の創設に関わり高知に住むことになった。父の代わりに地図上の塗り残しを追加しているように思える。高知県公安委員を2期6年間務めたのも不思議な縁である。そして典獄補鈴木道子に高知に来て貰ったのは1998年である。鈴木英三郎に尽くし、支え続けた鈴木道子は2008年8月27日に100才の天寿を全うした。

 

鈴木朝夫略歴
1932年10月10日生まれ(千葉県)
1955年  東京工業大学 金属工学科卒業
         東京工業大学 精密工学研究所 助手、助教授、教授、(工学部評議員)
1993年   北海道大学工学部 材料工学科 教授(学科長)
1996年  (社)日本金属学会 会長
1997年  高知工科大学 物質環境システム工学科 教授、(副学長)
2001年   高知県産業振興センター 理事、(プロジェクト・マネージャー)
       高知県公安委員会委員、(委員長)
2011年  瑞宝中綬章(教育研究功労)の叙勲

* 高知県産業振興センター発行の月刊誌『情報プラットフォーム』で、10年以上もエッセイ「ぷらっとウオーク」を掲載させて頂いている。また、「高知ファンクラブ、朝夫」の検索で、(1)~(7)を含む130編を超えるエッセイをHP上で読むことができる。
    (1) 『情報プラットフォーム』、No.288、9月号(2011)
  (2)  「天真爛漫と傍若無人」、同、No.254、11月号(2008)
  (3)  「事件は解決、女だからできる」、同、No.307、4月号(2013)
  (4)  「窓際だからできる大活躍」、同、No.308、5月号(2013)
  (5)   同、No.202、7月号(2004)
  (6)   同、No.309、6月号(2013)
  (7)   同、No.303、12月号(2012)  

 

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