「竹槍(やり)では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」
毎日新聞1面にこの見出しが躍ったのは64年前のきょう1944年2月23日だ。
6日前の17日にはトラック諸島の部隊が壊滅した。米軍に圧倒される現実を前にすれば子供でも分かる理屈。雨が降れば傘をさす、腹がすいたらメシを食う。それと変わらない主張だった。
だが本土決戦を叫ぶ東条英機首相ら陸軍は厳しい報復に出る。毎日新聞の廃刊は断念したものの、執筆した37歳の記者を懲罰召集した。
前代未聞の一人入隊。その不自然さを海軍につかれると記者と同じ大正生まれの兵役免除者250人を召集する挙に出た。それで形をつけたわけである。陸軍は次に硫黄島配属に動く。ここでも海軍から横やりが入って、記者は海軍報道班員としてフィリピンへ。他の250人は硫黄島に送られ、全員玉砕した。
本土決戦か海洋決戦かという陸海両軍の深刻な対立を背景に、事前の検閲をくぐり抜けた「竹槍」記事。陸軍の言う「反軍」ではなく、いかに戦うかをめぐる言論であったが、「一億玉砕」なる狂気にNOを突きつけたことは間違いない。だが「老兵」250人の運命の不条理を思えば言葉を失う。
硫黄島で戦死した兵士の手紙が米国を経て島根県安来市の実弟に届いた(18日朝刊社会面)。言論の自由が奪われたことに端を発する歴史の悲劇が、生々しい形で今に続いていることを痛感する。
硫黄島の一角、摺鉢(すりばち)山に米兵士が星条旗を立てたのは63年前のきょう、45年2月23日である。(編集局)
毎日新聞 2008年2月23日 大阪朝刊
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