いつの世も己の心を殺すのは、弱い立場にある人々だ。傷つくのを恐れ余計なことを考えまいとする。
少数の人々の痛みをきわめて高い感度で察知し、決して置き去りにしなかった音楽家がいる。中田喜直さん。「夏の思い出」「雪の降る町を」などの作曲者だが、この人が妥協のない姿勢で闘い続けた人でもあったことを知る人は少ないのではないか。自著にサインするたび「よく考えて」という言葉を添えた。「戦時中、国にたくさんウソをつかれたから」。禁煙運動の先頭にも立った。今年、生誕100年になる。
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1940年、東京音楽学校(現東京芸大)ピアノ科に入学。情感がこぼれ出すようなショパンを奏で、「芸大のショパン」と呼ばれた。
翌年、太平洋戦争が勃発。文科系の学生に対する徴兵猶予特権が廃止となり、東北の陸軍飛行学校へ。半年繰り上げられた卒業式で、激情ほとばしるショパン畢生(ひっせい)の大作、ピアノソナタ第3番ロ短調を弾く。
飛行将校となった中田さんはフィリピンへ赴き、特攻隊になると告げられる。しかし、別の任務に就いて帰国。そのまま終戦を迎える。将校は銃殺されるという噂(うわさ)を耳にしたため、その日のうちに家族や友人に遺書を書いた。サンサーンスの協奏曲を、一度弾いてみたかったと。
その後中田さんは、夢だったピアニストではなく作曲家になった。手があまりにも小さかったから。しかし、幼い子どもたちが指をいっぱいに広げ、重い鍵盤を必死にたたいているのを見て、疑問がわく。バイオリンにもスキー靴にも、体格や発達段階に応じたいくつものサイズがあるのに、ピアノにはなぜないのだろう。そもそも体の小さい日本人が、なぜ欧米人が作った規格をそのまま受け入れなければいけないのか。
かつてのピアノは形状も音色も多様だったが、産業革命を経て無愛想な黒い塊と化してゆく。20トンに至る鉄の張力に耐える骨組みを設計し、聴衆の熱狂に応える音量を生む技術力は、各国の経済力や国力を総合的に測るバロメーターにもなった。
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中田さんは本気だった。通常より1オクターブが約1センチ狭いピアノを考案。はからずもそれはショパンの時代のピアノとほぼ同じサイズだった。ショパンも手が小さかった。
甘党の中田さんをケーキで誘い出して雑談した時、このピアノの話になった。「現実には難しいのでは」と問うと、こう返した。「難しいとしか言わない人は、大体において現状を変えたくない人なんですよ」
手が小さいから仕方がない。戦争だから仕方がない。仕方がない、と諦めざるを得ない立場にいる人々への労(いたわ)りと、そう言わせている人々への怒りが強い語調ににじんだ。あなたひとりが頑張ってもどうしようもないのだ。そんな風に個の意志を冷笑する人たちが、やがて多数派という「権力」になってゆくのだと。
99年、特注したピアノを携えてドイツとオーストリアへ。講演で普及を呼びかけた。「大好評。帰ったら、詳しく報告します」。角張った文字が3枚の便箋(びんせん)の上で誇らしげに躍っていた。翌年、がんで旅立った。鍵盤幅の狭いピアノの開発は今も、ピアニストのダニエル・バレンボイムらが独自に取り組んでいる。
音楽は他者にとっての静寂を尊重する心から生まれる。美しいものを率直に美しいと言わせなくするのが戦争。中田さんはそうも言った。
冬支度に向かう私たちのせわしない心を、中田さんの「ちいさい秋みつけた」のあたたかな叙情が包む。大切な人のささやかな喜びや、こらえている涙に気付く感性を培うのが芸術なのだと、中田さんの旋律に宿る途方もない優しさにふと気付く。
2023年10月15日 5時00分
朝日新聞デジタル 連載日曜に想う記事
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