「赤根神社」をさらに北に行き、右に出て
今里大通りを北上して長岡第十小学校をめざします。
グラウンドの北東隅から長岡京時代の貴族の邸宅跡が
発見されました。そのフェンスの横の道を北に200mほど
行った所に一つの石の供養塔が建っています。
今から200年ほど前の江戸時代、石田家第16代当主、石田瀬兵衛
という人がおり、物集女村崇恩寺の住職新経尼に深く帰依して
いました。ある日、新経尼は庭の大きな木の葉が、はらりと落ちる
のを見て「もしや瀬兵衛さんの身に何かが」と案じて井ノ内村に
向かって走りだしました。その頃瀬兵衛は重病にかかっていました。
新経尼はこの地まで来て力尽きて息を引き取り、同じ時刻に瀬兵衛も
亡くなりました。石田家では二人の霊を弔うため二つの供養塔を造り
一つは崇恩寺に、もう一つをこの地に建てたと伝えられています。
このあたりは「弟国」と書かれた墨書土器が出土した上里遺跡にあたり
この供養塔のすぐ北の新しく建設中の道路に発掘の成果が書かれた
案内板があります。西山の広大な風景が広がる気持ちのいい場所です。
今里大通りを北上して長岡第十小学校をめざします。
グラウンドの北東隅から長岡京時代の貴族の邸宅跡が
発見されました。そのフェンスの横の道を北に200mほど
行った所に一つの石の供養塔が建っています。
今から200年ほど前の江戸時代、石田家第16代当主、石田瀬兵衛
という人がおり、物集女村崇恩寺の住職新経尼に深く帰依して
いました。ある日、新経尼は庭の大きな木の葉が、はらりと落ちる
のを見て「もしや瀬兵衛さんの身に何かが」と案じて井ノ内村に
向かって走りだしました。その頃瀬兵衛は重病にかかっていました。
新経尼はこの地まで来て力尽きて息を引き取り、同じ時刻に瀬兵衛も
亡くなりました。石田家では二人の霊を弔うため二つの供養塔を造り
一つは崇恩寺に、もう一つをこの地に建てたと伝えられています。
このあたりは「弟国」と書かれた墨書土器が出土した上里遺跡にあたり
この供養塔のすぐ北の新しく建設中の道路に発掘の成果が書かれた
案内板があります。西山の広大な風景が広がる気持ちのいい場所です。