長岡京市観光協会のブログ

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歴史講演会レポート 1.22「おとくにの弥生社会の変貌」

2017年01月24日 | 情報


1月22日(日)、NPO法人長岡京市ふるさとガイドの会主催の

長岡京市歴史講演会、

「おとくにの弥生社会の変貌~長岡京市域の弥生時代集落から~」

が開催されました。

講師は長岡京市教育委員会生涯学習課の福家泰 氏。

会場の産業文化会館には、約90人が訪れました。

ところで、弥生時代ってどんな時代でしょう?

稲作がはじまり、獲物を追って住む場所を変えるのではなく、

定住がはじまった時代。

米をたくわえたり、外敵から守ったりするために村の設備が発展し、

吉野ヶ里遺跡のような「環濠(かんごう)集落」が誕生しました。

その環濠集落で重要なものが、乙訓地域には三つあります。

市東部の「雲宮(くもみや)遺跡」。

JR長岡京駅周辺の「神足(こうたり)遺跡」。

市西部の「長法寺遺跡」。

この三つについて、最新の研究成果を交えながらお話しいただきました。

雲宮遺跡では、周囲に縄文時代のお墓も見ることができ、

もとから住んでいた縄文文化の人々と、

川をのぼってやってきた弥生文化の人々が共存・協力して

ムラづくりをしているようすをうかがえるそうです。

神足遺跡は、勝竜寺城公園付近から新西国街道のあたりまでを範囲とする

大変大きな遺跡ですが、人口も非常に多く、

近畿最大級の遺跡であることがわかってきたそうです。

さらに時間の流れによる人々の移り変わりを見ることもできるそうで、

初期は大きなまとまりで暮らしていたのが、

だんだんと小さな小集団を作って暮らすようになってきたそうです。

長法寺遺跡は、乙訓地域で見つかった初めての環濠集落です。

はじめは低地で集落を作っていたものが、

時間が経つにつれ山の上に集落を作るようになったそうです。

なぜ高いところに移っていったのかは謎で、歴史ミステリーですね。

残念ながらすべて埋め戻されてしまい、

神足遺跡などほんの一部の遺跡に説明板が設けられているだけですが、

吉野ヶ里遺跡のようなムラがこの地域にも

たくさんあったとはビックリです。

どの遺跡も注目する要素がいっぱいあって、

乙訓地域での発見が教科書を変えていくのかも?

とわくわくする講演会でした。