最後は小泉川右岸の山裾部にあった、鈴谷遺跡のご紹介です。
ここでは7世紀後半、古墳時代終末期の
小規模な横穴式石室が発見されました。
古墳は竹藪の土入れなどで削られ、天井石もなくなっていました。
横穴式石室の玄室は、長さ2.0m、
羨道の長さが1.5mで、幅0.6m、高さ0.8m以上、
玄室と羨道の幅が同じタイプの無袖式石室です。
全長約10mの小規模な古墳と考えられています。
石室は途中大きめの石があり、玄室と羨道部を区分していたようです。
小石を敷いた玄室から、須恵器の坏身(つきみ)や蓋が2セット、
土師器の甕が1点出土しました。
出土品の配置などから、埋葬された人は渡来系の氏族との
関係も考えられています。
また、鈴谷周辺の発掘調査のために山間部を掘削した時に、
約170万年前とされる大阪層群の地層から、
小さい二枚貝や牡蠣の化石が出土しました。
発見された場所は、標高80m程の丘陵地ですが、
大昔ここは海底であったことがわかります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/26/41b8d897de6de654b6c4ec597e9134b2.jpg)
(牡蠣の化石)
説明板は京都縦貫道側道、荒掘交差点東側にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/e5/0e904fac40c4d7577d523b23f6d5139d.jpg)
ここでは7世紀後半、古墳時代終末期の
小規模な横穴式石室が発見されました。
古墳は竹藪の土入れなどで削られ、天井石もなくなっていました。
横穴式石室の玄室は、長さ2.0m、
羨道の長さが1.5mで、幅0.6m、高さ0.8m以上、
玄室と羨道の幅が同じタイプの無袖式石室です。
全長約10mの小規模な古墳と考えられています。
石室は途中大きめの石があり、玄室と羨道部を区分していたようです。
小石を敷いた玄室から、須恵器の坏身(つきみ)や蓋が2セット、
土師器の甕が1点出土しました。
出土品の配置などから、埋葬された人は渡来系の氏族との
関係も考えられています。
また、鈴谷周辺の発掘調査のために山間部を掘削した時に、
約170万年前とされる大阪層群の地層から、
小さい二枚貝や牡蠣の化石が出土しました。
発見された場所は、標高80m程の丘陵地ですが、
大昔ここは海底であったことがわかります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/26/41b8d897de6de654b6c4ec597e9134b2.jpg)
(牡蠣の化石)
説明板は京都縦貫道側道、荒掘交差点東側にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/e5/0e904fac40c4d7577d523b23f6d5139d.jpg)