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長岡京市観光協会のブログ

長岡京市の出来事を紹介します。

恵解山古墳の「古墳ノート」に書き込みを

2016年12月08日 | 史跡
恵解山古墳に、古墳ノートが設置されています!



古墳の入り口にある休憩所のなかに、ノートはあります。



中を開くと、ページには古墳や土器のハンコが押してありました。

質問に対しての回答コーナーもあり、

来訪者との交流をはかる機会となっています。

恵解山古墳に訪れての感想や、

「どうして「いげのやま」とよむの?」

という素朴な質問など、

どうぞご自由にお書き込みください。



訪れた日には、子供たちが大勢で遊んでいた恵解山古墳。

素晴らしい古墳を、次世代にも伝えていきたいですね。

※古墳ノートは、市教育委員会生涯学習課により設置されています。

※古墳ノートは、都合により回収されている場合もございます。

歴史探訪ウォーク(in Osaka)に参加してきました!

2016年09月30日 | 史跡
9月24日に長岡京市ふるさとガイドの会が開催された、

歴史探訪ウォーク・史跡探訪

「細川ガラシャ夫人入信の地 大阪玉造と『真田丸』をめぐる」に

参加してきました。



大阪カテドラル聖マリア大聖堂は、大阪市の玉造にある聖堂です。

大阪城公園の南側にあたります。

1894年に玉造教会は誕生しましたが、

残念ながらその聖堂は戦災によって焼失しました。

その後、仮聖堂を経て、1963年3月に

現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」へと生まれ変わりました。

 

大聖堂前広場の両端にある石像は

高山右近と細川ガラシア夫人で、彫刻家・阿部政義氏の作です。

大聖堂に入ると、正面に堂本印象画伯の筆による大壁画と

左には高山右近、右にはガラシャ夫人の壁画があります。

戦国時代に生きた、高山右近とガラシャ夫人は、

熱心なキリスト教徒として知られています。



大聖堂の西北には、細川家の屋敷跡と伝えられている

「越中井」が残されています。

この地でガラシャ夫人は石田三成の人質になるのを拒絶します。

自害を禁止していたキリスト教の教えに従って、

家老だった小笠原小斎の介錯のもと、

屋敷に火をかけて、38歳という若さで最期を迎えました。

ここにはガラシャ夫人を記念して辞世の句碑が建っています。



「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の

花も花なれ 人も人なれ」

(散り際を心得てこそ花も人も美しい)



この越中井は屋敷の台所にあったとされています。



こちらの説明板のガラシャ夫人の絵は、

日本画家前田青邨(まえだせいそん)氏の作です。



その後、今年のNHK大河ドラマの『真田丸』の舞台である

真田丸跡を歩きました。

高低差のある地形は当時の真田丸当時の地形も残っており、

それを想像しながら歩くのは楽しかったです。

写真は三光神社にある真田幸村公の像です。

この神社には史跡 真田の抜け穴跡もあります。



真田幸村とその子大助の墓碑がある心眼寺です。




戦国の世の覇権争いに巻き込まれ、

波乱の人生を送った二人。

戦国の世を象徴するような二人の生き様を

感じながら巡った歴史探訪ウォークとなりました。






恵解山古墳の鉄刀を見てきました ~ふるさとミュージアム山城~

2016年09月23日 | 史跡
先日、ふるさとミュージアム山城に行ってきました。



ここには、恵解山古墳から出土した鉄製武器が展示されています。

  

これが古墳から大量に出てきたという鉄刀か…

と、しばし見入ってしまいました。

恵解山古墳は、大量の鉄刀・鉄剣が出土した古墳としても有名です。

なんと150近くの鉄刀が地下から発見され、

その他に剣や槍、短剣もあり、

弓矢のやじりに至っては400点以上も見つかりました。

しかも、バラバラではなくひとつの埋納施設に

きれいに並んで入っていたそうです。



発見の鉄製武器は、現在はこうして

ふるさとミュージアム山城で保管・展示されていますが、

恵解山古墳の頂上部では、

出土した時の状況をイラストで示しています。



古墳にあるイラストを改めて見ると、

あの武器たちがこんなにきちんと並んでいたなんて!と驚きます。

実物を見たからこそ、実感をもって古墳を感じられ、

古墳がある場所で出土時のイラストを見たからこそ、

埋められた当時を想像することができました。



二つの本物から、古代へのロマンをかきたてられた体験でした。

*ふるさとミュージアム山城(京都府立山城資料館)のHPはこちら

*恵解山古墳の地図はこちら ↓



長岡京市は碁盤の目? ~六条条間小路跡説明板~

2016年09月22日 | 史跡
長岡京市は、平安京のひとつ前の都、長岡京があった場所でした。

そうすると、平安京のあった京都市のように、

タテとヨコの直線でできている「碁盤の目」状のまちなのか?

ということが気になります。

現在の長岡京市は、碁盤の目状ではありません。

794年に10年間で長岡京が廃都になったあと

碁盤の目状の区画はくずされ、そののち様々な変遷を経たためです。

けれども、かつての碁盤の目状のみちを感じることができる場所があります。

JR長岡京駅西口から、道路を見渡してみてください。


(JR西口からの眺め)

駅から長岡天満宮に通じる、まっすぐな「天神通り」。

ここからは、東西に走る長岡京時代の道路のあとが見つかっています。

これは五条と六条のあいだの細い道、

「六条条間小路」だと考えられています。

長岡京市立産業文化会館の前には、この発見について説明板があります。



もうひとつ、天神通りと平行に通る「アゼリア通り」。

ここは、五条大路だったと推定されています。



長岡天満宮への参道として多くの人が通る「天神通り」と、

商店が立ちならぶメインストリートである「アゼリア通り」。

現在も人々が多く行き交うみちに、かつても大通りがあった

と考えるとちょっと不思議な気持ちになりますね。

長岡京の都人も、同じ道から変わらない西山の眺めを見ていたかも・・・?

*長岡京のみちについては、こちらもどうぞ。(市埋蔵文化財センターHP)

*説明板がある長岡京市立産業文化会館の場所はこちら↓






「乙訓古墳群」国の史跡に!

2015年11月30日 | 史跡
乙訓2市1町と西京区に分布する古墳11基を統合し、

「乙訓古墳群」として、国の史跡に追加指定されることになりました





日本の歴史を知る上で重要な所であると認められた場合、

国の史跡に指定されます。

史跡に指定されると法律によって厳しく守られ、

土地を改変するといった現状変更に制限が課せられます。

その土地を史跡指定することにより、

開発などから守ることができるのです。

この場合指定地が民有地であれば、

国と市が買い上げる制度(公有化)もあります。

市埋蔵文化財センターの中島皆夫事務局次長は

「古墳群として一体的に指定されることで、

3市1町での調査情報共有が進むことが大きい」

とおっしゃっています。

これまでに以下の3基が別々に史跡となっていました。

天皇の杜古墳(西京区)

寺戸大塚古墳(西京区、向日市)

恵解山古墳(長岡京市)

今回新たに以下の8基が統合され、まとめて指定されました。

五塚原古墳(向日市)

元稲荷古墳(向日市)

南条古墳(向日市)

物集女車塚古墳(向日市)

井ノ内車塚古墳(長岡京市)

井ノ内稲荷塚古墳(長岡京市)

今里大塚古墳(長岡京市)

鳥居前古墳(大山崎町)

乙訓地域では100基を超す、多くの古墳があるといわれていますが、

中でも首長クラスの古墳が37基確認されており、

日本の古墳時代の動向を示す重要な古墳群として

注目されています。

今後のさらなる調査が期待されますね。