今バーティ・クラウチについて書いてて,ふと気が付いたのですが,これされた人達って,聖マンゴ病院にいるんですよね? え?そんな事とっくに知ってた?
4巻の終盤に,Veritaserumという章があります。ここは誰もがハリーの味方と思っていたムーディ先生は,実はニセモノしかもヴォルデモートの忠実なしもべだった事がバレる,という,衝撃的な内容の章でした。
ハリーは危機一髪で本物の味方の先生達に救われますが,この時スネイプ先生はちゃんと自白薬ベリタセラムを用意していました。彼がムーディを早々にニセモノと見破っていた事はこちらに述べた通り。ですが,彼は前年度,学生時代の恨みから,ルーピン先生をシリウス・ブラックを手引きする犯人,と言い張って失敗していますので,なかなか相手にされなかったのかも。(笑)
ダンブルドア先生の方は,マッド-アイ・ムーディは友人だったという事で,つい最近まで信じようとしていたんですね。彼は「ムーディ先生が自分の目の届かない所にハリーを連れ去り」ようやくニセモノと確信を持ったと言ってます。
まあ,スネイプ先生の前年度の「失敗」とダンブルドア先生のこの年の「失敗」は,ある意味「あいこ」ですね。(笑)
それにしても,そこまでホグワーツの生徒,先生のみならず,ダンブルドア先生までも騙せたのは,‥‥彼は常に嘘をつく必要がなかった,というのが結構大きいかもしれません。どういう事かと言うと,彼はただ単に忠実な死喰い人なのではなく,実はちっともヴォルデモートに忠実でない,他の死喰い人が大嫌いだったんですね。
それともう1つ,彼は死喰い人を憎み,厳しい罰を与えていたバーティミアス・クラウチ氏の息子だったという事ですね。父を憎んでいるとは言ってますが,やはり血は争えないのだと思います。元々父から受け継いだその血が,死喰い人をどこか本能的に嫌っていたのではないか,と,いう気がするのですが。
また,職務に忠実なクラウチ家の気質が,彼の仕事振りにも表れますね。彼は最後まで自分自身では手を下さず,ヴォルデモートの命令を待っていたんですね。もし根っからのワル,ベラトリックスのようなヤツが潜入してたら,待ちきれずに「やっちまった(^^;)」かも~。
ハリーに,オーラーになったらどうだ,と言うシーンは,全然虚偽を感じないです。「自分はクラウチとは比べられない」と言う所もね。これは本音でしょうね。だから,ハリーは,偽ムーディの,この言葉だけは本気で受け止め,いまだにそれを夢として持ち続けていられるんですね。
という事で,バーティ・クラウチ Jr.というキャラクタは,ハリポタ登場人物の中では,深みのある人だな~と思います。もうちょっと平穏にホグワーツに留まっていられたら,「善人になりたい。チャンスをくれ。」と言い出した?なんて考えてしまうのですが。。(某香港映画か(笑))
しかし,本物のマッド-アイ・ムーディは,やっぱし好き,なのでした。(笑)
ハリーは危機一髪で本物の味方の先生達に救われますが,この時スネイプ先生はちゃんと自白薬ベリタセラムを用意していました。彼がムーディを早々にニセモノと見破っていた事はこちらに述べた通り。ですが,彼は前年度,学生時代の恨みから,ルーピン先生をシリウス・ブラックを手引きする犯人,と言い張って失敗していますので,なかなか相手にされなかったのかも。(笑)
ダンブルドア先生の方は,マッド-アイ・ムーディは友人だったという事で,つい最近まで信じようとしていたんですね。彼は「ムーディ先生が自分の目の届かない所にハリーを連れ去り」ようやくニセモノと確信を持ったと言ってます。
まあ,スネイプ先生の前年度の「失敗」とダンブルドア先生のこの年の「失敗」は,ある意味「あいこ」ですね。(笑)
それにしても,そこまでホグワーツの生徒,先生のみならず,ダンブルドア先生までも騙せたのは,‥‥彼は常に嘘をつく必要がなかった,というのが結構大きいかもしれません。どういう事かと言うと,彼はただ単に忠実な死喰い人なのではなく,実はちっともヴォルデモートに忠実でない,他の死喰い人が大嫌いだったんですね。
それともう1つ,彼は死喰い人を憎み,厳しい罰を与えていたバーティミアス・クラウチ氏の息子だったという事ですね。父を憎んでいるとは言ってますが,やはり血は争えないのだと思います。元々父から受け継いだその血が,死喰い人をどこか本能的に嫌っていたのではないか,と,いう気がするのですが。
また,職務に忠実なクラウチ家の気質が,彼の仕事振りにも表れますね。彼は最後まで自分自身では手を下さず,ヴォルデモートの命令を待っていたんですね。もし根っからのワル,ベラトリックスのようなヤツが潜入してたら,待ちきれずに「やっちまった(^^;)」かも~。
ハリーに,オーラーになったらどうだ,と言うシーンは,全然虚偽を感じないです。「自分はクラウチとは比べられない」と言う所もね。これは本音でしょうね。だから,ハリーは,偽ムーディの,この言葉だけは本気で受け止め,いまだにそれを夢として持ち続けていられるんですね。
という事で,バーティ・クラウチ Jr.というキャラクタは,ハリポタ登場人物の中では,深みのある人だな~と思います。もうちょっと平穏にホグワーツに留まっていられたら,「善人になりたい。チャンスをくれ。」と言い出した?なんて考えてしまうのですが。。(某香港映画か(笑))
しかし,本物のマッド-アイ・ムーディは,やっぱし好き,なのでした。(笑)
今日はまたまた読書資料を会社に置いてきてしまったので,いつぞや紹介した事のある,トールキンの原作の映画化に鋭い批判のお言葉を唱えたJanet Brennan Croftさん(その記事は,こちらのカテゴリーでThree Rings for Hollywood(1)~(4)という所にご紹介してます。)が,今度はPJ映画を斬った,この記事の2番を訳してみました。
元々の題材から悪意に満ちているのか,それとも私の要約が悪意に満ちているのか,定かではありません。怪しいと思ったら原文を確かめて下さい。
ジャクソンは1980年代後半に低予算のホラー映画を自国のNZで作っていた。Creative Screenwritingという雑誌のインタビューによれば,彼は18才の時1度きり指輪物語を読み,その後17年後に映画化のアイディアが頭に浮かぶまで全然読まなかったと言っている。当時彼はホラーのジャンルを離れてファンタジーに移り,コンピュータを使った特撮をやりたかったのだ。題材は指輪物語でなくてもよかった。フィリッパ・ボウエンズはもっと話を詳しく知っていた。子供の頃から取り憑かれていた。しかしジャクソンと妻のフラン・ウォルシュに声をかけられる前は,映画の台本をやった事はなかった。
最初の映画の評判は凄かった。2001年12月19日に公開されるなり,ベタ誉めの評価が上がった。しかし,皆がPJの映像を褒め称えたわけではない。観客の評価は驚くほど分かれる。長い間の原作ファンはとても失望した。PJの映像はトールキンの想像から逸脱していると,そしてまた2002年12月に第2作が出るとなお一層それは大きくなった。過去にトールキンの映画化に関わった者はやはり同じ評価を受けている。何故トールキンファンはそのように怒るのか? バクシ映画についてのこのレビューがそれを物語る。「大事な事は,私達はずっとそこにいたという事だ。だから,『そうだその通りだ』とか『いやいやいや,全然違う』と言えるのだ。」Rankin and Bass Hobbitのレビュアーによれば「観客はオリジナル版を知り尽くしていて,模造品との区別がはっきりつくのだ。彼らの見たバクシへの批判の中で,そのままPJ版に当てはめる事ができるものがある。それは「くずの中に散らばった宝石,不適切にセットされ,傷つけられ,間違えてカットされた」ジャクソンの映画の中には,完璧に近い描写もある。しかしそれらはあいにく,本をよく知る読者にとって,全然嬉しくない,PJがオリジナルにとんでもない味付けを加えた部分,に比べてずっと勝っているのだ。この映画にはまるで2つの全然違うクルーが働いているんではないか? 一方はトールキンのビジョンに忠実に従い,セット,ロケーション,衣装その他に気を遣い,一方はただ単に,大衆を楽しませる事だけに興味があるようだ。
トールキン学者のWayne G. Hammondは,こう言っている。
残念な事に,ジャクソン版の「旅の仲間」は,全体的に派手でハイテクな冒険談でトールキンの話を書き換えているだけだ。このような書き換えはホラー映画のスペシャリストであるジャクソンなら(まあ)できない事はない。ジャクソンは「旅の仲間」の複雑で重要な主題をアクション映画に貶め,キャラクタは放棄され従属させられ,感傷的で臆病でロマンティックなものに変えられた。
Chanceはさらにinfantilizationに,何人かのキー・キャラクタについて,次のようにコメントしている。Hammondも指摘したように「ほとんどのキャラクタは,本のキャラクタの影でしかない。ひ弱で減衰されている(特にフロド),もしくは失礼で漫画みたい(ピピン,メリー,ギムリ)だ。」 Carl Hostetterは,「ほとんどの高潔で誠実なキャラクタから,組織的にその高潔さと誠実さが抜かれている。苦しみ(アラゴルン)と弱虫(フロド)が与えられる。これは本当にジャクソンの原作に対する考え違いか? 非常に多様な思いやりのあるトールキンについての研究において,そのような勘違いに対する言い訳があるのか?」
元々の題材から悪意に満ちているのか,それとも私の要約が悪意に満ちているのか,定かではありません。怪しいと思ったら原文を確かめて下さい。
ジャクソンは1980年代後半に低予算のホラー映画を自国のNZで作っていた。Creative Screenwritingという雑誌のインタビューによれば,彼は18才の時1度きり指輪物語を読み,その後17年後に映画化のアイディアが頭に浮かぶまで全然読まなかったと言っている。当時彼はホラーのジャンルを離れてファンタジーに移り,コンピュータを使った特撮をやりたかったのだ。題材は指輪物語でなくてもよかった。フィリッパ・ボウエンズはもっと話を詳しく知っていた。子供の頃から取り憑かれていた。しかしジャクソンと妻のフラン・ウォルシュに声をかけられる前は,映画の台本をやった事はなかった。
最初の映画の評判は凄かった。2001年12月19日に公開されるなり,ベタ誉めの評価が上がった。しかし,皆がPJの映像を褒め称えたわけではない。観客の評価は驚くほど分かれる。長い間の原作ファンはとても失望した。PJの映像はトールキンの想像から逸脱していると,そしてまた2002年12月に第2作が出るとなお一層それは大きくなった。過去にトールキンの映画化に関わった者はやはり同じ評価を受けている。何故トールキンファンはそのように怒るのか? バクシ映画についてのこのレビューがそれを物語る。「大事な事は,私達はずっとそこにいたという事だ。だから,『そうだその通りだ』とか『いやいやいや,全然違う』と言えるのだ。」Rankin and Bass Hobbitのレビュアーによれば「観客はオリジナル版を知り尽くしていて,模造品との区別がはっきりつくのだ。彼らの見たバクシへの批判の中で,そのままPJ版に当てはめる事ができるものがある。それは「くずの中に散らばった宝石,不適切にセットされ,傷つけられ,間違えてカットされた」ジャクソンの映画の中には,完璧に近い描写もある。しかしそれらはあいにく,本をよく知る読者にとって,全然嬉しくない,PJがオリジナルにとんでもない味付けを加えた部分,に比べてずっと勝っているのだ。この映画にはまるで2つの全然違うクルーが働いているんではないか? 一方はトールキンのビジョンに忠実に従い,セット,ロケーション,衣装その他に気を遣い,一方はただ単に,大衆を楽しませる事だけに興味があるようだ。
トールキン学者のWayne G. Hammondは,こう言っている。
残念な事に,ジャクソン版の「旅の仲間」は,全体的に派手でハイテクな冒険談でトールキンの話を書き換えているだけだ。このような書き換えはホラー映画のスペシャリストであるジャクソンなら(まあ)できない事はない。ジャクソンは「旅の仲間」の複雑で重要な主題をアクション映画に貶め,キャラクタは放棄され従属させられ,感傷的で臆病でロマンティックなものに変えられた。
Chanceはさらにinfantilizationに,何人かのキー・キャラクタについて,次のようにコメントしている。Hammondも指摘したように「ほとんどのキャラクタは,本のキャラクタの影でしかない。ひ弱で減衰されている(特にフロド),もしくは失礼で漫画みたい(ピピン,メリー,ギムリ)だ。」 Carl Hostetterは,「ほとんどの高潔で誠実なキャラクタから,組織的にその高潔さと誠実さが抜かれている。苦しみ(アラゴルン)と弱虫(フロド)が与えられる。これは本当にジャクソンの原作に対する考え違いか? 非常に多様な思いやりのあるトールキンについての研究において,そのような勘違いに対する言い訳があるのか?」