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JWと血について話し合うための基礎知識2 「JW側の主張」

2008-05-18 20:46:02 | ●海外のJW事情

続き記事2回目です。

JWと血にの教理について話し合うとき、未信者の方々がまず欲求不満を感じるところは、多くのJWが「なぜ輸血が出来ないか」(聖書的根拠)ではなく、「なぜ輸血をしたくないか」(当人の感情)にポイントをおいて話すことではないでしょうか。


なぜ出来ないのか(根拠・理由)については話し合う余地がありますが、自分は輸血したくない!という感情を語られると他人の干渉は一切不要で話し合いの余地がありません。


例:聖書翻訳を検証するサイトにはつっこみようがあるが、聖書に関するポエム()をのせてるサイトにつっこむと逆切れされる。


輸血拒否はポエムではないのですが、現実にはロマンティックなポエム感覚でとらえているJWも多いのです。

いわゆる殉教に対するロマンティックな感覚ですね。勇敢に神のご意志を遂行する私。みたいな。


それでかなり多くのJWが輸血という重大なトピックを感覚とかフィーリングでとらえています。中には堂々と「輸血が必要な場面なんて人生で何回あるの~?話し合うだけ無駄」と言い放つJWもいるんですよ?!


そして最近の輸血禁止トピックの複雑さ-許可されるフレグメントとか医療処置用語の難しさ-が拍車をかけて、聞いただけでも面倒くさい。考える前に「あたしには無理」と感じてしまって考えない(輸血はダメだからダメなの!話し合いも考えることも必要なし!)そんなJWが増えています。


(ちなみに私もその一人でしたのでその気持ちがよ~く分かります

ですから、輸血の教理自体あまり説明できないJWもいますので、私たちは個人で学習してその教理をしる必要があります。

エホバの証人が聖書から輸血について述べていること

JW書籍では大抵読者を煙に巻く目的(情報操作)で聖句の前後が故意に説明されていませんから、今回は前後関係も含めて見てみたいと思います。()として前後背景の説明をしました。

参考聖句、ものみの塔の注解は全て「論じる」の本より。

●旧約聖書部分から

「創世記9:3,4」

(ノアが家族と洪水を逃れて箱舟を出たあとのエホバからの祝福の言葉の一貫。)

3節「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。」
4節「ただしその魂、つまりその血を伴う肉を食べてはならない。」
5節「さらに私はあなた方に魂の血の返済を求める。」
6節「誰でも血を流すものは人によって自分の血を流される。」


ものみの塔の主張:動物の血を食べることは許されていますが、血を食べることは許されていません。」

私の主張:該当聖句は4節ですが、関係のない5と6節(食べる血ではなく人間の命つまり殺人という意味で血という言葉が使われている)も情報操作として利用しています。

エホバの証人は時にこの5節、6節を「血を食べたものはエホバから制裁を受ける」という「ニュアンス」で付け加える場合もあります。実際は目には目を、命には命をという意味で使われている。


結論:ノアの時代に血を含んだ肉を食べることは禁じられた。それ以上の意味合いの記述はない。

つっこみ所: 実はこの祝福の言葉には2回も子を産んで多くなり地に満ちよという命令がされているが、JWは「明らかに箱舟から出てこれから地に人間を増やすという時命令だったから今は関係ない。」「新訳聖書では出てこないのでキリスト以降は廃止された」として守り行う必要がないとしている。

この聖句を話し合う時考えるべき点(JWと共に以下の事実を確認する):

1 ここでJWは一部の律法に関しては常識的に考える事ができている。(子を産んで多くなれの命令は当時の状況を考慮して、その一時だけに必要だったのだという判断)(ある宗教のように避妊を否定したりはしていない)

2 エホバの証人には「新訳聖書にも出てくるならばその律法は今でも当てはまるというルール」があるらしい。(同じく旧約聖書であるレビ記にある命令「血も脂肪も食べてはならない」に関しては新約聖書に脂肪を食べてはならないと書いていないので、解禁されたとして普通に食べてもよい)


「レビ17:11、12」

ものみの塔の主張:以下の聖句から血は神聖であることがわかる。神がこれまで是認された血の用い方は犠牲のために用いることだけだった。

レビ17:11 「肉の魂は血にあるからであり、中略、血がそのうちにある魂によって贖罪を行うからである。」

レビ17:12 「それゆえにわたしはイスラエルの子らに言った。あなた方のいずれの魂も血を食べてはならない。あなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者も血を食べてはいけない」


私の主張:血が神への犠牲という点で神聖であるという考えはキリストが犠牲にされた後、動物の犠牲に意味がなくなったと同じようになくなったはずである。


結論:血に象徴される命は尊いという意味では常識的に考えて「血は神聖」といえるが、ものみの塔が主張しているように神にささげられる犠牲として神聖さがあるとは言えない。


つっこみ所:同じレビ17章を続けて読んでみると、すぐ後の15節で、エホバの証人によると「絶対的で普遍的」であるはずの法律である「血含んだ肉を食べること」の例外がすでにでてくる。


レビ記17章15節「すでに死体となっていたもの(中略)を食べる魂がいれば、その地で生まれたものであれ外人居留であれ、その者は自分の衣を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。

そののち清くなるのである。」


JWによると「絶対的普遍的、殺人と同列に置かれている由々しい罪である」血を食べることは聖書によると、実はめっちゃ簡単な処置(洗濯とシャワー)で清くなれるらしい。そう神が言っているのです。


ならばJWも「輸血は避けなければならない。しかし輸血をしてしまった場合は、衣を洗い水を浴び、夕方までは汚れた者としてとどまり、夕方には清くなって集会などに出席してよい」と言うべきです。


この聖句を話す時JWと確認するべきこと:なぜJWは神の主張を部分的に取り上げ、後の聖句は無視するという作為をするのでしょうか。この二つの聖句は同じ時に同じトピックについて語られた命令であるのは明らかです。

サムエル第一14章31から35節を開き、サウルの民が血のまま肉を食べてた事実があったこと。それでも目立った刑罰はなかったことを読む。

血を含む肉をたべてはいけないという命令は絶対的、普遍的なものではなかったことを同意できればグッド。。。


問題の新訳(ギリシャ語)聖書に出てくる血の禁止例については次回。続く。