パーフェクトワールド

現在はゆっくりの更新ですがよろしくお願いします。

1・15・2007「男性と女性どちらにも尊い役割がある」

2007-01-29 01:47:14 | ●もの塔記事/ニュース
新しいカテゴリー「海外のJW事情」つけ加えました。アメリカ以外にも他の国の情報があるのでこれからかいていきたいと思います。

新しい雑誌(日本語は来るの遅いので、私には新着です)はかなり神経に触るものがありました。排斥された2世の方は今日のブログは読まれないほうがいいかも…。

「子供が反抗の道に進んでも硬く立つ」って記事です。ぱらっとめくってぱらっと読んでいたら「う!!」ときたのでちょっと聞いてください、、

「ジョイというクリスチャンの女性は息子がエホバを愛するように一所懸命育ててきました。しかしその息子は十代の後半になると、親に反抗して家を出ていきました。ジョイはこういいます、”今で経験したことがないほど深く傷つきました。裏切られたように感じ挫折感に教われました。」

って、10代後半になったら親元を離れるのが反抗、、ですか、、。子供がひとりの個人として信仰を選ぶ権利はどこに???

信仰は個人のものです。どうして親がその結果に「深く傷つけられた」気持ちになったり挫折したりするの?????もし、そのことを子供に伝えるなら、子供に親を喜ばせる選択をしろ、と信仰を脅迫しているようなものじゃないですか、、。

親にはそんなことをいう「権利」はないと思います。それをごく普通の感情だ、、というように載せるものみの塔、、を疑います。

 次のページに共に祈っている両親の写真と、同じく両親が集会に出席している写真が載っています。昔からさし絵に注目しろ、協会は挿絵に多くの意味を込めていると教えられてきたのでじっと観察しました。そこに載っている母親の感情のない、ロボットのような表情にぞっとしました。

 それはそれとして、、。

 「親は多少決まりの悪い思いをするかもしれません。子供の行動によって家族の評判が損なわれたのではないかと思うこともあります。」だって。

家族の評判がそんなに大事ですか。親にとって一番大切なのは子供だと思ってました。それに家族の評判って一体なんでしょう、、、。

問題はその後の「厳しい懲らしめが与えられた時」です。

「子供がバプテスマをうけている場合、中略-排斥されるかもしれません。親が排斥された子供とどの程度接触をもつかは子供の年齢と事情によってきまります。

って?

????

排斥って排斥ですよね、年齢と事情
って、なんでしょう、、事情って妙に範囲が広い設定ですよね、、、。いつから排斥が年齢と「事情」によって異なるように??

「子供が未成年で親元で暮らしているなら-中略- 子供には道徳的な訓練や懲らしめも必要であり親にはそれを与える権利があります。子供との聖書研究を司会したいと思うかもしれません。またクリスチャンの集会に伴い自分の隣に座らせることができます。」

って??待って!!!排斥されてるのに??まだ研究させる?集会に出席させる???って。排斥になっても研究から逃げられないって勘弁してあげて涙

 未成年だってもうJWでいられないから、悩んで、苦しんで、傷ついて、排斥という道をとったんです。吐き気がするような異端審問のような審議委員会にさらされてきたんです。(私も経験があります。)

 読んでいて悪夢をみているような、そしてむかつく気分におそわれました。信仰は個人のもの、親にはそれを強要する「権利」なんてありません。ここまでするなら親を訴えてもいいでしょうね、立派な拘束行為だと思います。


問題はでも、そういうことではないと思うんです。親を訴えるなんて、子供ならしたくないし、まして未成年なら親の精神的、経済的援助が必要なころなんだし、、子供もひとりの人間、裏切られたとか親が子供にいうのは卑怯。親の資格がない。

 ものみの塔はひどい!!!こんな人の人権を踏みにじるようなことを平気で書くなんて。直接投稿したくなった、、。

 

研究記事12月号「あなたを愛しておられる神を愛しなさい」について

2007-01-20 07:04:05 | ●もの塔記事/ニュース
先先週の研究記事です。

見出しをかいて見ると「愛の重要さ」「エホバへの愛をどのように示せるか」「エホバを愛するべき理由」「神への愛を培う」。となっています、2世なら…というかエホバの証人なら読まなくても各見出しの内容が分かる…(笑)と思いますが、ちょっとひっかかったところを取り上げてみたいとおもいます。

「エホバへの愛をどのように示せるか」

ここでは愛というのは内面からの感情で自分でコントロールできないと考えている人がいるが(例えば恋に落ちたというような表現)真の意味の愛とはそういうものではない、神を愛している人は神が要求してることを全部行い、世を愛さないようにする、でも隣人を愛する、、、と

なんだか言っている事がイコールでつながらない典型的なものみの塔スタイルの文章です。(ごめんなさい)

「愛の重要性」にいたっては、、愛がなければどんなことを成し遂げてもうるさくなるシンバルのよう、、という聖句があって愛の重要性が強調されちますが、愛がないことで有名なエホバの証人の中にあって、読んでいて悲しくなるばかり…。

「エホバを愛するるべき理由」の見出しではエホバの愛が親が子供に対する愛ににています。とあります。親は子供の世話に労苦し犠牲を惜しまない。

そのすぐ後に”親はその事に対して何を期待するでしょうか。子供が親に愛を持ち、その益を思って子供に分かち合えたことを子供が心にとめるように~(略)期待されるのはもっともなこと”とあります、、。

ここにはもっともな、いい事がかいてありますが、実際のエホバの証人の生活でいえば”親、創り主である神がいいつけていることはとんな事があっても(文字どうり死ぬ事があっても)全部守れ、神のために生活のほとんどの時間を使え、使っていてもそれ以上できるように目標を持て、神に感謝してもしきれないのだから」

ということなんですよね?

教理的なことに疑問を持つ前の一番の不満は時間でした。週3回の集会5時間(でもかならず長引くので5時間以上です!)集会の準備1時間づつの3時間、集会の行き帰り時間と支度、これはその時の王国会館のある位置によって違いますが、バスを使えば方道1時間ということもありました。

集会後の強制交わり(と書くとなんだか大変な宗教だと思われるかも。笑。証人用語で集会後の社交、雑談、挨拶、他人の生活状況のアップデート、そうじなどのことです。)

強制というのは、演壇から定期的に「集会の前(え~、前も。勘弁してください。涙)後に仲間の証人と交流しろ、」そうしない人は独立の精神を培っており、独立する人は背教するかもしれないから、交わりをしないことはものすごく、霊的に危険、ものすごく大事!

と強調されるのです。よってアーメンダッシュ(お祈りが終わってからすぐ帰ること)などと言われ、きちんと奉仕、集会に全部出席して、注解もきちんとして教理も守って結婚しないでがんばっていても「霊性が低い」と言われるんです。

なので交わりは強制。教理に入っているといってもいい。

そして集会の他に個人の時間を当てて、食事を用意し、兄弟姉妹をもてなし、またもてなされる”交わり”が頻繁にあります。断ったり、誰も家に呼ばないとか巡回監督をもてなさないとかは許されません。

プラス、特別集会、大会、ああ、もちろん60時間から90時間の奉仕もビッグなファクターですよね、、。

個人の時間がないんです。それでも集会を休んだり、連続補助や開拓を休んだりするものなら霊的病気のレッテルを貼られる。淫行を犯す前兆とか、落ちる前兆とか言われる…。

もしこの記事にあることが本当だったら、、それはちょっと理不尽な神だと思います。親だったら子供を世話するのは当たり前だし、不完全なちっぽけな人間でさえも”世話してやったんだから、尊敬しろ、言いつけは全てまもれ、時間は全て親のために用いろ、」とは言わないです。

ましてや老後を心配する必要のない神です、、そんな事を要求するんでしょうか。

親だったら子供が成人して、自分のことを気遣ったり愛を示してくれるのはうれしい…けれど、子供が趣味も仕事もろくにもたず自分の世話をしよう、としているなら心配するでしょう、、、と思うんです。

いい年になっても”親に仕えるため”恋愛も結婚もしないで独身をたもつ…といいだしたら??給料は全て親のために使うので生きるためぎりぎりの生活をしていると知ったら???

親としてうれしいことなんでしょうか。

エホバの証人がしていることはそういうことです。神が本当にそんなことを愛する子供である私たちに要求しているとは考えにくいんです、、。

それを要求しているのは神ではなく、ものみの塔という組織・…ではないんでしょうか、、。






2006年12/1号 反キリスト だれのことですか

2007-01-18 03:18:34 | ●もの塔記事/ニュース
先週の研究記事が載っている号です。

組織に決定的な疑問を抱く前に最後に読んだ雑誌です。まだ信仰を強めようと必死に努力していた頃です。表題の「反キリスト だれのことですか」の記事はいつものとおりイントロ1ページ、2ページの記事がふたつ、というかたち。

2ページの記事2つで語るには大きすぎるトピックがものみの塔には多いといつも思っていたんですが、その理由はいつも何がかいてあるか読んでも読んでもよく分からない。から。

以前は理解できないのは自分の霊性が低いから。

と思って一所懸命理解しようと努力して、できないので気落ちして…。

今思うと当たり前だったんだな、、とすごくほっとした気持ちです。

何をいいたいのか分からなかった理由は、何も書いていないから。

この記事を要約すると「反キリストはとにかくエホバの証人じゃないもの全部」ということで、これほど疑問を抱く前に読んだ時にもさすがに「え…」と思ったものです。

この記事の最後にヨハネ(1)4:1の「霊感の表現全てを信じてはなりません。むしろその霊感の表現を 試して それが神から出ているかどうかを見極めなさい。」

という聖句が引用されています。が、すぐその後の節で「気持ちが”おおらかな”」べレアの人たちが意欲的な態度でみ言葉をうけいれ”パウロが語ったことがらがその通りかどうか試した聖句を引用して、まるでヨハネの語った霊感をためす、ということがものみの塔ではパウロに代表されるエホバの証人の言っていることを調べる(つまりは”おおらかに”受け入れること。調べて批判することではない。)

ことと同じことだと誘導しているように思えます。

霊感の表現を自分でためして、全てを信じるべきではない。これをエホバの証人の教理を外から調べる、ことも含まれると思うのですが、それはしないようにうまく話題をずらしているように思えるのです。

こういう意図的な「ずらし」がそこここにあるので、結果として記事を読んでも「?」という印象を受けるのではないだろうか、、と思うのです。

記事を読んでも理解できないわけは頭が悪いわけでも、霊性が低いからでもなく、教会の記事が筋の通ったものではなく、情報操作を目的にして書かれているから。

そんなふうに考えるのは不遜でしょうか、、それとも理にかなったことだろうか、、今、この段階では私はまだ揺れています。

同時に、少し教会に怒りを感じました。ストレートに、教会、エホバの証人に都合の良い解釈をせずに聖書を語ってくれるなら、それで私は問題や疑問や、不審を抱かなくてもいいのに。自分が”反キリスト”だという罪悪感なんて感じなくともいいのに!

こんな事を思う私はわがままで反抗の精神を持っている、、のでしょうか、、